小熊研究会プレゼン・『「国語」という思想』 総合政策学部三年 南 智佳子 s00884cm@sfc.keio.ac.jp はじめに ■「国語」と「日本語」のあいだ 「大阪府のある小学校が四年前、教科名の「国語」を「日本語」に変えたことがある。外国籍の児童にとって「日本語」は「国語」ではないという判断からだった。しかし二年後、「国語」に戻した。 直接のきっかけは、産経新聞が「『国語』がない」と大きく報じたことだった。 同紙は「『国語』は日本人の児童・生徒が、自分たちの生まれ育った国の言語という意味だけでなく、感情の機微に応じた細やかな使い分けや、母国語に秘められた文化・伝統を学ぶ授業である。これが『日本語』という教科名では、『英語』『ドイツ語』『中国語』など外国語の授業と変わらず、いったい、どこの国の授業か分からなくなる」と主張した。 」 (朝日新聞:1999年12月10日より) *「国
『<みんなのうた>という思想』 ―――日本における音楽教育の目的とその変遷――― 総合政策学部三年 木村 和穂 s00327kk@sfc.keio.ac.jp 問題意識 ・なぜ学校で「音楽」を教えるのか? 音楽教師のジレンマ ・現代の音楽教育研究への違和感 「感性の豊かな子どもを育てる」「人間教育の一環」「自ら進んで表現する工夫」 ・唱歌研究への違和感 共通する「日本の伝統音楽がないがしろにされてしまったことへの怒り」 士気高揚音楽は否定し、本来あるべきはずの日本の伝統的な音楽感性を求める ・安易な国民国家論に基づく研究への違和感 たしかに「国家のイデオロギー装置」であるが、そんな単純なものでもないだろう ・国家が歌をつくり、教育を行ない、みんなで同じうたを歌うということの意味が真剣に問われてこなかった ・国家が「文化」や「芸術」に熱心に興味をしめすことの意味は何か 「「日本のうた」という
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