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ブックマーク / akadowaki.hatenadiary.org (8)

  • ART仙台場所 - すこし思いついたことを

    とうとう来週開催と迫りました! 「仙台アートシティプロジェクト”ART仙台場所”」。 私は「毛糸の屋根」を出します。 以下、ご案内です。 4/28(月)19:00-21:00 せんだいメディアテーク1Fクレプスキュールカフェでオープニングパーティが 行われます。ご参加いただける方は事前にお知らせ下さい。fax 022-266-1565 (一般:2000円/学生:1000円) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■S-A-P2008「ART仙台場所」 「アート」があると「まち」の風景が変わる。「アート」を通して「まち」の人が見える。 開催日:2008年4月29日(火・祝)〜5月6日(火・祝)10:00-17:00まで(最終日15:00まで)(smtのみ11:00-19:00 最終日5/5は16:00まで) 会場:せんだいメディアテーク・ 一番町

    ART仙台場所 - すこし思いついたことを
  • 「問題」 - すこし思いついたことを

    「問題」は、それをどう克服していくか、あるいはどう納得していくかに意味があるのであって、ただなくなればいいというようなものではないと思う。別の言い方をするならば、大切なのは、「問題」に対する感度や感じ方ではないかと思う。もし「問題」などなくなってしまえ、というのなら、それは案外簡単なことではないだろうか。何も感じなくなればよい。そうすれば、世界からは「問題」などなくなってしまうだろう。 何も大きな「問題」などではなく、子どもの成績が悪いとか、まちに活気がないとか、お金がなくてたいへんだとか、すべてそれをどうとらえられるか、ということに意味があるのではないかと思う。だから、それはある意味、「チャンス」なのだ。 大切なのは、「問題」がなうなることではなく、「問題」を「問題」として、あるいは自分のこととして引き受けられるかどうかなのではないかと思う。

    「問題」 - すこし思いついたことを
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/03/12
    「「問題」を「問題」として、あるいは自分のこととして引き受けられるかどうか」
  • わかる - すこし思いついたことを

    「わかる」というとき、自分の内部や、文化や常識を共有する共同体や仲間うちの中での、中だから、「わかる」ということがある一方で、他人であったり、理解が共有されていないからこそ起こりうる、「わかる」とがあると思う。 何かが伝わらない、わかり合えないという言葉が気で語られるとき、全体の状況としては前者だといいなというような希望、あるいはそもそも後者が想定されていないからこそ、そういう思いが起こるのかもしれない。ちなみに私はずっとそういう「思い」をもっていたと思う。そこでは、極端に言えば、すべてが自己の内部に存在することで問題は解決されるかもしれない。逆に言えば自己内に存在できるものがすべての存在になること。すなわち、私の好きなもの、私のわかるものこそが、私の世界のすべて。 しかし、実際にはそうはならなかった。逆に私にしかわからないものが文字通り、絶対的な価値をもつというようなこと、わからない他

    わかる - すこし思いついたことを
  • 豊かさ - すこし思いついたことを

    何を見ても、もっとすごいものを知っている、という対し方の中では、刺激の少ないもの、「新しく」ないものは豊かでないものになってしまう。そしてより刺激的なもの・より新しいものは、さらに刺激的なもの・さらに新しいものを増大させる通過点に過ぎなくなる。 そんな中で、よく知っているものや、見慣れたものを(量的にでなく)もっとよく知ったり、見ようとしたりする仕掛けをつくること、そこに価値が生まれるような差異を見出せるようにしていくこと、それが私の考える豊かさであり、まちでアートをしたいと思う理由ではないかと思う。 だからそれは、「アートを気軽に楽しむため」とか、「アートを日常のものにする」とかいう考え方とはかなり違ったもので、私は決してそんなことを願っていない。 アートはかなり知的な訓練を必要とするものだと思うし、そうしたことが日常になってはじめて楽しめるものだと思う。ただ楽しみたい、とかいう要望には

    豊かさ - すこし思いついたことを
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/12/19
    「それは気軽に楽しめるものというよりは、もうそれでしか楽しめないようなもの」
  • コミュニケーション - すこし思いついたことを

    先日、幸田露伴の何とかいうエッセイが、高校生の問題集に問題文として出ていて読んだのだけれど、文はすでにあるから書けるのであって、書くことが無い人は書けない。だから、文を書くのが下手だから書けない、というのはちょっとちがう、みたいな主旨だった。 しかし、今日、幸田露伴的な状況は一転しているように思われる。ネット上には別に書く内容があるから書かれている文ばかりが流れているわけではなく、内容がなくても表現が成立しているゆうな状況が出現しているのではないか。それは「コミュニケーション」そのものを「内容」とするものだ、と言えるだろうか。そしてでは果たしてそれをコミュニケーションと呼ぶのか。 誤解をおそれずに言うなら、何かを共有している人の間では、コミュニケーションは「成立」しない、とすら言えるのではないか。それは何か共有されない価値なり世界観なりをもつ人どうしの間ではじめて「成立」するものなのではな

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  • まちはすでにアートであふれている - すこし思いついたことを

    あんまり聞かなくなったなぁと思っていたのに、最近、塩竈でアートをやっている間にまたよく耳にするのが、「感じたままを感じればいいんですよね」とか「見たままを感じればいい」といった感じの言葉で、アーティスト自身も「それぞれの感じるままに」とか「自然の美しさを美しいと思うように、アートも素直に見て感じてほしい」といったコメントでこたえていると聞くのですが、私はコンテンポラリー・アートという文脈で表現活動を行っている以上、「作品自身が美しさをもっている」といったナイーブな感じはどうなんだろう、と思います。塩竈でのアートで、「まちはすでにアートであふれている」「まちにあるものがすでにアート」ということを私は言っているのですが、もしかしたらそれもそういう風にとらえられているのだろうかと、はっとしました。 何かが美しいとか、アートであると人が感じる感覚は、永久不変の感覚としてその人の内にあるものなどでは

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  • 個としての表現 - すこし思いついたことを

    個としての表現、表現者としての個という考え方が、ともするとうまいぐあいに利用されているのではないか。 あくまで表現もしくは表現者というのは個であって、それは生活している、あるいは存在している「この私」がまぎれもなく個以外の何ものでもないということと同じく、あまりにも当然のことである。逆に複数者の表現というとき、それは何を言っているのかわからないし、複数の「この私」など理解不能である。 そうではなく、個としての表現以外の、あるいは以前の、もしくはそれを過ぎたところに、他とのかかわりが当然あるわけで、それは問題にしたり議論したりできるし、当然するべきことでもある。 あなたや私が「当は」何をしたいか、したかったかなどというのは、あなたや私以外にとってはどうでもいいことだったり、計り知れぬことなわけだが、それを伝えたいと思うなら、つまり表現するなら、私やあなたが、私たちやあなたたちになるのは当然

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  • 「この私」を不問にする - すこし思いついたことを

    「この私」とか、「私にしかわからない何か」といったものは、ひとにはわからないからこそ成立するもので、逆にわかってしまったら意味がないわけだから、それをとりあえず不問にしてみる、ということ。 それは別に「この私にしかわからないもの」などというものは存在しないとか、「私的言語」が〜とかいうことではなく、またそれについていつまでもぐるぐると考えることが無駄であるとかいうのでもなく(実際それはすごくおもしろい)、とりあえず置いておく、ということ。 それはアートでいえばどういうことなのだろう(そう考えたときにわかるけれど、アートというのはすごく境界線的だ。それは考えるだけでなく、モノとして出すことができてしまう)。

    「この私」を不問にする - すこし思いついたことを
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