タグ

ブックマーク / ameblo.jp/nankananka70 (3)

  • 『平安貴族も武士?あるいは文武両道 平泉の世紀 馬』

    2007年1月25日木曜 平安貴族も武士?あるいは、文武両道 平泉の世紀 「馬」(旧12月7日、己未) ヨッフムのブルックナーを、BGMに聞くともなく耳にしながら、など読む。なんとなくブルックナーという気分だ。それも、真剣に聞くというわけではなく、聞き流すという感じ。ブルックナーをこのように聞き流したいと思うことは珍しい。 二月か三月に平泉に行こうと思っている。で、先日から、高橋富雄『平泉の世紀 古代と中世の闇』(NHKブックス、1999年5月)を読んでいる。このが結構面白い。カバーの見返しには 《「平泉からの新しい日史」 征夷大将軍源頼朝に滅ばされ、歴史の脇役へと追いやられた平泉。しかし、史料の大胆な読み直しから明らかになったその実像は、我々の想像をはるかに凌駕し、京都朝廷や鎌倉幕府にも劣らない壮大な国家構想の存在と文化創造の精神を語る。東北地方を南北に縦断し、州最北端の十三湊へ

  • 『河井寛次郎』

    2005-11-01 23:18:08 河井寛次郎 先ほど、久しぶりに「開運なんでも鑑定団」を見ていた。 そのなかで、河井寛次郎の紹介があった。 私が、尊敬する陶芸家である。陶芸のことについては、まったくわからない。尊敬するのは寛次郎の生き方。考え方である。 河井寛次郎(1890~1966、明治23~昭和41) 島根県安来に生まれる。 その作品は、はじめ、中国・朝鮮の古陶磁の手法を用いた伝統的なものであった。寛次郎は、その復古的な作品によって名声を博す。 ところが、名もない日常使用される器を見て、これこそが美だと直感する。「美」を追求しないところに「美」があると直感したのである。 普通、名声を博した人間は、自らの生き方を180度転換することはできない。名声を博すれば博するほどますます、自らの名声を捨て去ることができないものである。180度の転換は、それまでの自分を否定することだからだ。と

  • 『イスラム教とキリスト教』

    2005年12月1日木曜イスラム教とキリスト教 今日から、師走だ。今日は、暖かかった。 『文學界』12月号、山城むつみの「ドストエフスキー(3)」に次のようにある。 《それを詳しく論じた『死を与える』が昨年末ようやく邦訳された。私はこの恐るべきを読み返しながら、デリダが尊敬してやまなかった「日友人」のことを思い出した。魅力的なロシア文学論、わけても心のふるえが伝わる瑞々しいドストエフスキー論も遺している高名なイスラム学者である。彼によれば、ムハンマド(マホメット)は「アブラハムに体現された純正な一神教的宗教」を再び昔日の源的姿に立ち帰らせようとしただけだ(井筒俊彦『イスラーム生誕』)。イスラム教という新宗教を創始しようとしたのではなかった。 ムハンマドにはいわばこう見えていたのだ。ユダヤ教もキリスト教もそれを始原としながら、やがてそこから逸脱してしまった。アブラハムが山頂に運び上げ

  • 1