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ブックマーク / note.com/pict_inst_jp (7)

  • 日本語の図案文字はどこから来たのか 第五回|図版研

    東京で『繪と文字の圖案化資料』と題した、現代人の目にはパチモン盛り合わせが八割みたいに映る図案+図案文字のが堂々と売り出された二年後の昭和七年(1932年)、今度は大阪で十時柳江と同姓の図案家による図案文字集が刊行された。 十時惟臣の図案文字集それが☟十と時とき惟これ臣おみ『創作圖案字體大展(創作図案字体大展)』だ。 十時惟臣『創作図案字体大展』(昭和七年 元文社)判型は四六倍判の大型。デザインの現場で頻繁に引っ張り出される実用書の常で、状態のよくないものが多い。これなどはまだ綺麗な方だ。 十時惟臣『創作図案字体大展』(昭和七年 元文社)表紙や外函、扉のデザインを目にしただけでも、その中身がいったいどんなものかワクワクしてきてしまうおしゃれなだ。 十時惟臣『創作図案字体大展』(昭和七年 元文社)発行は元文社 田中耕三郎。著者のことはまた後ほど、それからこの出版社については回を改めて

    日本語の図案文字はどこから来たのか 第五回|図版研
  • 日本語の図案文字はどこから来たのか 第四回|図版研

    別の案件も併行して調べモノをしたり資料探索をしたり、はたまたカクテーシンコク書類どもとたたかったりしているうちに、そうでなくても短い二月がびゅーんと過ぎ去っていってしまった。 十時柳江の図案文字集に関してあらためて調べてみたところ、おもわぬ “発見” があったりして「もうちょい触れる」程度ではとてもおわりそうになくなってきてしまったのだが、せっかく乗りかかった舟だからこの際もうしばらくお付き合いいただきたい。 昭和初期の “ちょっと引っ掛かる” 図案文字集さて、十時柳江『その儘使へる繪と實用圖案文字』が大阪の弘文社から上梓されて二年半あまり後の昭和四年(1929年)十一月、東京の出版社から小型の図案文字集が刊行された。 荻野光風『誰にも出来る 図案文字集とその描き方』(昭和四年 富文館書店)荻野光風『誰にも出來る 圖案文字集とその描き方(誰にも出来る 図案文字集とその描き方)』という、函入

    日本語の図案文字はどこから来たのか 第四回|図版研
  • 日本語の図案文字はどこから来たのか 第一回|図版研

    「Japanマレー語経由説」をめぐる探索話を中途半端なところでストップさせてしまって早2ヶ月あまり。いったい何をやっていたのか? 実は年明けから始めた note でのおアソビ調べモノと併行して、暮れに立ち上がった仕事としての出版企画の方の調べモノがこの5月にブレイクスルーをみて、そろそろ一応は纏められるところまできたかな? という段階にいたったので、そちらの方に気が散って note もほったらかしになっていたのだった。 その企画のテーマは、というと、大正時代の終いごろから続々と刊行されるようになった描き文字デザイン、いわゆる「図案文字」についての話だ。 もちろん、これまでにもこうしたモダニズムの時代の描き文字についてはさまざまなご研究がある。 インターネット上で公開されている論考を挙げてみると、例えば旧大日スクリーン製造(現SCREENグラフィックソリューションズ)サイトの「千都フォント

    日本語の図案文字はどこから来たのか 第一回|図版研
  • 「元旦の午後」は間違った日本語なのか?|図版研

    今年の1月もそろそろおしまい、糧品店などには節分の豆がならべられているのを見かけるようになったが、陰暦では今年は最も寒い時期の今が年の瀬、元日は陽暦の2月1日に当たる。 私設図書館「図版研レトロ図版博物館」がある古道具屋「ねこの隠かくれ処が」は正月休みを陰暦でとるため、図書館も休館になる。 昨年の暮れも押し詰まったころ、 ねこの隠れ処 のある閑静な商店街とは駅を挟んで反対側の、賑やかな商店街へちらと買い物に出向いたところ、通りかかった飲店のガラス戸に「新年は元旦午後○時から営業」という貼り紙があるのに気づいた。 新聞社だったかが出しておられる、日語の使い分けのに「元旦は元日の朝」とか書いてなかったっけな、とおもって、戻ってきてからそのを探してみたのだが、生憎改修工事の際に大急ぎで箱詰めして片付けた資料の中に紛れてしまっているらしく、どこにあるのかがわからない。 こういう「覧たい資

    「元旦の午後」は間違った日本語なのか?|図版研
  • どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?(完結)|図版研

    ミョ〜に難しい、外国語音写に使われていた漢字明治から昭和初期にかけて刊行された科学系出版物をあつめていて、前々から不思議におもっていることがあった。 外国語をかつて漢字で音写していたとき、どうしてやたらと難しい字が択ばれていることが多いのか? その例として、3つ前(最初)の記事でも取り上げた『無機化學』の明治十七年(1884年)第四版非金屬篇の索引をみてみよう。 丹波敬三+下村順一郎『無機化學』非金屬部(明治十七年第四版 丹波敬三)それと合になっている、金屬篇の索引。 丹波敬三+下村順一郎『無機化學』金屬部(明治十七年第四版 丹波敬三)少なくとも、読みやすさや書きやすさを意識してえらんでいるとは、どうしてもおもえない字がかなりある。しかも、どうみても日語の字音ではない写し方……例えば、「格魯兒クロル」は塩素、「貌魯繆謨ブロミユウム」は臭素、「弗律阿𠌃謨フリユオリウム」はフッ素のことだ

    どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?(完結)|図版研
  • どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?|図版研

    前回の記事をご覧になった、「もじもじカフェ」事務局 https://twitter.com/mojimojicafe/ のお方から、どうして「グラム」に「ガ」の音しかもたない「瓦」字を宛てたのか不思議におもってちょっと調べてみたら、『広辞苑先生、語源をさぐる』というの中で辞書『広辞苑』の編者としてしられる新村出が、次のように書いておられるのが見つかった、とのおしらせがあった。 日語の癖として二重子音(double-consonants)が来ると、最も多くの場合、次の音節(シラブル)の母音を両子音の間へ割り込ませて発音する癖がある。この傾向は日語には非常に多い。千二,三百年前に漢語を日読みにした時,盛んにこのことを繰り返した。また二重子音の場合でなくとも、日人は語末の子音(Auslaut,final-consonant)を発音することが困難であって、先立つ母音を添えて発音するのが癖

    どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?|図版研
  • どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?(承前)|図版研

    『西洋度量考』の「瓦蘭馬ガラムマ」はどこから引っ張って来たのか?前回取り上げた『西洋度量考』の巻頭「例言」をみるに、 一 書中原曰ト云者ハ寫ノ原ヲ指サス又遠西醫方名物考及ビ同書ノ補遺ニ載ル者新制ノ度量ヲ云ヿ詳ナルハ之ヲ采用ス略シテ名考、名補ト云テ引用ス と書かれている。 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0512/bunko08_c0512_p0006.jpg ここで「寫ノ原」というのは、☝初めの方で紹介した日計量史学会編集部会「郡上蔵版『西洋度量考』」記事にあるように、志筑忠雄の稿に馬場佐十郎が書き加えをおこなったという『度量考』写のことを指している。それに続く「遠西醫方名物考及ビ同書ノ補遺」の方はオランダからの輸入書何冊かを元に、海外産はもとより日国内に産する薬品原料も含めて解説した薬学書で、前

    どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?(承前)|図版研
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