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Feyerabendに関するfunaki_naotoのブックマーク (13)

  • なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて - 本と奇妙な煙

    ソーカル事件 ポストモダンの言葉づかい 偶像破壊者ファイヤアーベント なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて 作者:ジェームズ・ロバート・ブラウン発売日: 2010/11/20メディア: 単行 まず、訳者あとがきから ソーカル事件 ソーカル事件に対するおもな反応をひとことでいえば、「やっぱり!」だろう。そう思った人たちは、二つのグループに分けることができる。 1.右派が思った。「脱構築とか言っているやつらは、やっぱりたわごとを言っていたのだ」 2.科学者が思った。「人文・思想系の人たちの言うことはわけがわからんと思っていたが、わけがわからんのは当然だったのだ」 ソーカルが直接的に攻撃対象としたのは、政治的にはリベラルで、学問的には構成主義のなかでもいわゆるポストモダン派として括られる人たちだった。この人たちは、物理や数学をいいかげんに援用したり、言葉づかいにやけにこだわった

    なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて - 本と奇妙な煙
  • 方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム - 情報考学 Passion For The Future

    ・方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム 孤高の天才科学哲学者ファイヤアーベントの代表作。知のアナーキズム。ゲーデルの不完全性定理やドーキンスの生命機械論並みに、人生観を変えるくらいのインパクトがある。 「科学は質的にアナーキスト的な営為である。すなわち理論的アナーキズムは、これに代わる法と秩序による諸方策よりも人間主義的であり、また一層確実に進歩を助長する。」よって、進歩を妨げない唯一の原理は、anything goes(なんでもかまわない)であるというのがこのの理論である。 ファイヤアーベントは、科学は一般にどこまでも合理的と考えられているが、実は神話に近いものであり、人類の数多くの思考形式のひとつに過ぎず、特別なもの、最良なものというわけではないと論ずる。なぜなら科学の進歩は、古い合理性の外側からやってきた非合理な発見によって牽引されてきたからである。 「繰り返して言うが、

  • パウル・カール・ファイヤアーベント 『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』

  • ルペルト神父への手紙 - An Ecclesiastes Note

  • ファイヤアーベント 「知についての三つの対話」 - Bagatelle Diary

    『科学者は一度も問い返したことのないような基前提をもっており、研究とはそうした前提を「吟味する」ことにあるのではなく、そうした前提や方法を「使う」ことにあるんだ、と考えている。・・・・・・・・・科学者は発言資格の無い場所で軽率に発言して馬鹿さ加減を暴露することがあるけれど、彼らが専門領域内で発言するときには、彼らの言うことを尊重しなければならないってね。僕が今言ったような前提については、彼らは全然調べようとしたことさえないはずだが、彼らの研究はそうした前提抜きでは一歩も始められないんだ。だからね、科学のどの部分も当の核から離れたところにあり、その専門性というのも論拠にならないんじゃないかな。』 「知のアナーキスト」とよばれたファイヤアーベントが、こので展開する対話というより論戦は凄まじい。人が科学に対して抱く無条件で絶対的な信頼、いや信仰といってもいいかもしれない、それを成り立たせて

    ファイヤアーベント 「知についての三つの対話」 - Bagatelle Diary
  • https://www.omnh.jp/iso/argo/nl06/nl06-6-14.pdf

  • ポパーへのカウンターパンチ - エヌ氏の成長・円錐

    雨は朝には上がり、今は目の前の庭に日が差している。朝顔の種はまだ芽を出さない。 今日は早くから起きて、懸案だった「方法への挑戦」をじっくり読む。 方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム 作者: ポール・K.ファイヤアーベント,Paul K. Feyerabend,村上陽一郎,渡辺博出版社/メーカー: 新曜社発売日: 1981/03メディア: 単行購入: 1人 クリック: 20回この商品を含むブログ (8件) を見る P.K.ファイヤーベントはカール・ポパーの最も強烈な批判者だ。カール・ポパーの「反証可能なものだけが科学である」という言明は、あまりに広く受け容れられているがために、職業的科学人の大半はそれ自体を疑ったことがないのではあるまいか。当然とは言え、カール・ポパーの言明は自明ではなく、論争が存在する。P.K.ファイヤーベントは自ら科学論におけるアナーキストを名乗り、科学はイデオ

    ポパーへのカウンターパンチ - エヌ氏の成長・円錐
  • terra incognita : 舌禍法王!?

    人生リハビリ日記。2006年9月にドイツのレーゲンスブルク大学でローマ法王ベネディクト16世が行なった講演の中で、14世紀末のビザンティン皇帝(マヌエル二世パライオロゴス)がイスラムの非理性的・暴力的性格を非難した言葉が肯定的に引用されていたとして、イスラム圏から激しい批判がベネディクト16世に向けられたことがありました。  この時の講演の内容はWEB上で公開されており、日でもカトリック中央協議会のサイトが他の法王演説と同じように全文訳を掲載しています(「教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演」)。実際に読んでみると、確かに文脈上はビザンティン皇帝のイスラムに対する価値判断を自らの論旨に取り込んでいるわけではないのですが、引用そのものがかなり誤解を受けやすい形にはなっています。  そして今度は別のところで、「また法王の舌禍事件か?」と思ってしまうような話題が持ち上がりました

  • ファイヤアーベントVSポパー - 経営は哲学なり

  • 2007-09-03

    KOneさんへ。 この間も、書の話をしたわけですが、どうしても読後感書けずにいました。 だって、やばいです!これ!! あ。でも世に言うヤバイではなくて、ほんとにだから、絵的に使えね〜だろ!!的なやばさなわけです。 、 、 ことポール=ファイヤアーベント大先生の御成りである。三つの対話のうち、彼の咆吼を最も反映するのが、「第二の対話 科学とは何か」である。年代からいえば、この対話が一滴落とされ、ややクールダウンし第二を相対化して示された第三の対話、そして三つに集約させるために序として示された第一の対話、と波紋を描いていく。それだけに、第一のほうは論点が正直、より抽象的なきらいがあり、第二で意図が開示される感を受ける。 で。その第二の対話である。批判的合理主義の支える優等生的な科学哲学にシンパシーをもっているA氏に、非科学な言説として占星術の是非を投げかけるBことファイヤアーベント、という構

    2007-09-03
  • 「何でもかまわない」 : ファイヤアーベントのポパー批判 | CiNii Research

  • 筑摩書房 PR誌ちくま 2007年8月号 ファイヤアーベントという衝撃 竹内 薫

    ポール・K・ファイヤアーベント……私がこの偉大な哲学者の著作に初めて触れたのは、今から二十七年も前のこと。私は、大学の二年生で、伊東俊太郎先生(科学史)の講読の授業を取ったのがきっかけだった。ちょうどその頃、新進気鋭の科学哲学者(そして科学史家)として売り出し中だった村上陽一郎先生が、『方法への挑戦』(共訳・渡辺博、新曜社)を翻訳したのである。そして、私は輪講という形でファイヤアーベントの著作に入門した。 当時、後輩の死をきっかけに、法学の道を棄てて、知的な放浪の旅に出ていた私は、ファイヤアーベントの思想に大きな衝撃を受けた。特に、『方法への挑戦』のなかで、科学という営みが、宗教や組織犯罪や売春(!)と比べられていることに驚かされた。また、実験の積み重ねから仮説が導かれるのではなく、最初になんらかの仮説が頭の中にあって、それが理由で実験を行なうのだ、という科学哲学の常識に触れて、私は知的な

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    funaki_naoto
    funaki_naoto 2007/08/19
    「誰かが真理についての質問をした。私は真理という概念は修辞的な道具だと思っていると説明し、それを使うのはハエを捕まえるときくらいで、そうでない限り、それを真面目には受け取ってこなかった、と述べた」
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