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精神分析に関するgauquiのブックマーク (47)

  • 『表象07』拝読しました - はぐれ思想史学徒純情派

    表象〈07〉 作者: 表象文化論学会出版社/メーカー: 表象文化論学会発売日: 2013/04メディア: 単行この商品を含むブログを見る 昨日届いた『表象07』を先ほど拝読しました。 今回の特集は、「アニメーションのマルチ・ユニヴァース」。 特集が主に対象としているのは、「クールジャパン」に代表されるような、ありがちな「アニメ文化論」を相対化し、むしろ歴史的な「厚み」を持っている視覚芸術としての「アニメーション」をめぐる問題系について、対談・論考・インタビュー・翻訳などから再考を試みており、大変興味深いものでした。 土居伸彰さんによる「イントロダクション」には、特集の意図が次のように書かれています。 この特集が目指すのは、アニメーションをめぐる「夢」の話を一度リセットして考え直すということだ。そのためにまず、アニメーションの多元宇宙性を描き出し、アニメーションをめぐる自意識の相対化が

    『表象07』拝読しました - はぐれ思想史学徒純情派
    gauqui
    gauqui 2013/04/20
    「アニメーションのマルチ・ユニヴァース」
  • 精神分析と同性婚の問題:最近の記事から - alacantonade

    フランスでは来年、同性婚(および同性カップルの養子縁組)がやっと合法化されそうだ。このところ、ファナティックな反対派のデモなども一度ならず報道されている。いうまでもなく、この問題をめぐっては精神分析関係者の発言もさかんである。 そうした状況を受けて、「同性カップルの親(Homoparentalité):分析業界の人々よ、黙ろうではないか」というタイトルの記事が25日付けのル・モンド(電子版)に掲載されている。 署名者はシルヴィ・フォール=プラジエ。『無意識の赤ちゃんたち:現代の女性の不妊を前にした精神分析家』(PUF, 2003)という著書がある。 反対派のなかには、同性カップルの子どもは単性生殖の幻想を育んで精神病になるとか、「原光景」に接することができないとか(原光景がじっさいの出来事であるかのように!)、象徴界の法を体現する父親がいないので規律のない破壊的な子どもになるとかの極端な意

    精神分析と同性婚の問題:最近の記事から - alacantonade
  • アート、症候、ドーナツの穴 - ohnosakiko’s blog

    私はTwitterをやっていないが、興味をもった10数人のアート関係の人々のtweetを時々見ている。その中で最近印象深かった発言。 ともあれ、ブリュットであろうがファインであろうが、「アートは表現する」と言うのは正しくない。もしくはきわめて瑣末な属性でしかない。「アートは症候する」。則ち、それ自体がそれによって“生起しなかったもの”の属性なのである。— 中島 智さん (@nakashima001) 11月 11, 2012 「アートは症候する」以降の文は、結構情報圧縮度が高い。これを勝手に噛み砕いていいものかわからないが、自分なりに解釈して言い換えてみると、 「アートは一般には(アウトサイダーアートにしてもインサイダーのファインアートにしても)表現だと言われているが、アートの質はそこにはない。アートとは言わば、何らかの症候そのものである。症候とは精神分析では、病気の徴候ではなく、無意識

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  • 「超自我の発明」:エティエンヌ・バリバールのフロイト論 - alacantonade

    *Étienne Balibar : L'invention du Surmoi, Freud et Kelsen 1922, in  Citoyen Sujet et autres essais d'anthropologie philosophique, PUF,  2011. 「超自我の発明 フロイトとケルゼン 1922年」は、2006年に行われた「来るべき精神分析」と題されたコロックでの講演に基づくテクスト。 フロイトとハンス・ケルゼンの公私にわたる交流についてはある程度知られている。日語で読める文献としては、上山安敏『フロイトとユング』(岩波書店)がこのテーマを扱っている。ケルゼンは、1922年にフロイト派の雑誌「イマーゴ」に「国家の概念と社会心理学」と題する論文を寄稿し、その前年に発表されたフロイトの『集団心理学と自我の分析』を批判的に論評している。(ケルゼン論文の仏訳は、h

    「超自我の発明」:エティエンヌ・バリバールのフロイト論 - alacantonade
  • ダーウィン・ギブソン・フロイト 1

    エドワード・リードによるアンダーグラウンド心理学。UX デザインから生態心理学を経由して、さらにその源流まで遡っていく。 アンダーグラウンド心理学のはじまり アンダーグラウンド心理学という架空の学派の創始者は、チャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィン(1731-1802)である。 彼が唱えた流体唯物論によると、動物や植物など、すべての生きた自然(有機体)は、「感じ(フィーリング)」と「感覚(センシビリティ)」を持っている。この「魂」のようなものの物質的基盤は、身体の隅々まで流れるエーテル体であり、これはすべての有機体が兼ね備えた特性である。つまり自然に遍在している。 このようにエラズマス・ダーウィンは、まるで「アフォーダンス」を知っているがごとく、環境を一元論として捉えていた。しかしリベラルなプロテスタントが強かった時代において、こうした発想は無神論であるとされ、受け入れ

    ダーウィン・ギブソン・フロイト 1
    gauqui
    gauqui 2012/10/25
    ここら辺のはなし気になる
  • 「最低限の、必要なこと」 - Freezing Point

    INTERVIEW 《「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ》(WIRED.jp) 何かの琴線にふれたみたいで、twitter でもたくさん言及されています。 田村氏が撮影したラボルドは、ニコラ・フィリベール監督の 『La Moindre des Choses』(邦題『すべての些細な事柄』)という映画になっています。 みんなが仮装大会(?)をしているとき、すぐそばで参加せず、知らん顔の人がおられることに注意。 この病院では、「ひとつのイベントが全体を支配する」ような、単一的な支配の状況が嫌われるそうです。参加したくなければ、自分で別の時間を過ごせばいい。 「時間軸が、たくさん生きられる」ことが、臨床上の重要な指針になっています。 すべての些細な事柄 [DVD] 出版社/メーカー: バップ発売日: 2008/08/27メディア: DVD購入:

    「最低限の、必要なこと」 - Freezing Point
  • INTERVIEW 「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ

  • 『シュルレアリスト精神分析』をご恵贈いただきました。 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)

    藤元登四郎さまより、『シュルレアリスト精神分析―ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論』をご恵贈いただきました。帯に巽孝之さんの惹句が光る。SF大会等で北海道へ出張していた際に読みましたが、これは力作。「SF大賞クラス」と言えばよろしいでしょうか。これもじっくり語れればと思いますが、取り急ぎ、ご紹介まで。 シュルレアリスト精神分析―ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論 (-) 作者: 藤元登四郎出版社/メーカー: 中央公論事業出版発売日: 2012/07/10メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見る 第1部 パラノイアック・クリティック 第2部 ヒエロニムス・ボッシュの『快楽の園』 第3部 「柔らかい時計」 第4部 ルネ・マグリットの超幻想的世界 第5部 M.C.エッシャーの夢 第6部 明晰夢 結論 作者自身の証言(荒巻義雄)

    『シュルレアリスト精神分析』をご恵贈いただきました。 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)
  • 不定詞の党派性と、レジリアンス - Freezing Point

    レジリアンス・文化・創造 作者: 加藤敏出版社/メーカー: 金原出版発売日: 2012/06メディア: 単行 クリック: 7回この商品を含むブログ (3件) を見るpp.215-6、小林聡幸氏執筆の箇所より(強調は引用者): ウィニコットが創造性の逆の概念として盲従をいうとき、まずは例えば社会的抑圧のもとで外的現実に迎合するしかない状態であるが、「この世を生きていく第二の方法は精神医学的な意味で、病気として認知されることである」。確かに精神疾患は自分の主体性の外部という意味での外的現実に盲従を余儀なくされる。とりわけ統合失調症の場合、患者の主体性が障碍されるという意味で、圧倒的な病的体験を前にしてその力に従わざるを得ない立場に置かれてしまうということができるだろう。 ある患者の言葉を引こう。20歳の時に発症し、現在、43歳の統合失調症の患者である。彼は常に他者から影響を受けてしまう。しば

    不定詞の党派性と、レジリアンス - Freezing Point
  • 絶対に避けられないものを目標にする - Freezing Point

    私がどうしても抜けられなかった固執は、 この現象から trauma 可能性を消したい。その意味で、現実を現実でなくしたい。少なくともその変更可能性に向けて従事するのでなければ、その可能性があるのでなければ、とてもこの現象経験に耐えられない。*1 だったと思う。 それは、この現象から死を排除したい、できなければとても生きていられない、だった。 神経症は、《死にたくない》という形をしている。*2 いつか訪れる死だけでなく、突然すべてが破綻する可能性も、廃絶できない。 廃絶できないものを「廃絶できるかもしれない」として、その可能性を拠り所にリアルポリティクスへの参画をなかったことにする。 これこそ現実逃避ではないか。こんな逃げが強迫化すれば、実務は無能になる。 死が絶対に避けられないなら、それをうまくデザインすることは、不可避の仕事になる。*3 適切な死を、あるいは安楽死を目指せば良い。 そう気

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  • 臨床とドゥルーズ&ガタリ / ラカン的欲望と『一般意志2.0』 - 精神科医@schizoophrenie と東浩紀

    schizoophrenie @schizoophrenie 大澤真幸;<自由>の条件 http://t.co/M6gr4hjdmIN=4062105160 D&Gのスキゾを解離性障害(dissociative disorder)ないし多重人格と読み替える議論があるけれども、フランス精神医学的に大きな間違いをしているのでないだろうか。 2012-03-21 22:03:32 schizoophrenie @schizoophrenie というのも、フランス精神医学における連合associationとdissociationという語の使い方は特殊で、associationがないものがdissociationであるから、dissociationは要するにブロイラーが分裂病の基障害にすえた「連合弛緩」に相当する。 2012-03-21 22:06:42 schizoophrenie @schi

    臨床とドゥルーズ&ガタリ / ラカン的欲望と『一般意志2.0』 - 精神科医@schizoophrenie と東浩紀
  • 精神分析とスピリチュアルなもの - alacantonade

    * Jean Allouch : La psychanalyse est-elle un exercice spirituel? (EPEL, 2007) 今月を以てラカン没後ちょうど30年。1971〜72年の講義録 ... ou pire、講演録 Je parle aux mursをはじめ、ジャック=アラン・ミレール Vie de Lacan、エリザベート・ルディネスコ Lacan, envers et contre tout、ジャン=クロード・ミルネール Clarté de tout: De Lacan à Marx, d'Aristote à Mao など、先月末からラカンをめぐる新刊書の刊行がちらほら。これらはこの場でも順を追ってとりあげる予定。おたのしみに。 さて…… 精神分析は現在、精神分析のステータスが何であるか、精神分析の扱う人間のこころというものが何であるかを再定義するの

    精神分析とスピリチュアルなもの - alacantonade
  • 精神分析はヒューマニズムか?(その1) - alacantonade

    * Catherine Meyer (éd.) Le Livre noir de la psychanalyse (Edition des arènes, 2005, nouvelle édition 2010) Jacques-Alain Miller (éd.) L'Anti-livre noir de la psychanalyse (Seuil, 2006) もはや旧聞に属することであると思われるが、2005年9月、フランスで『精神分析黒書』Le Livre noir de la psychanalyse という大々的な精神分析批判のが刊行されてベストセラーになり、psy の業界でもたいへんな物議をかもした。認知行動療法(TCC)の主導者の一人ジャン・コトロー、ラカン派出身の哲学者ミケル・ボルク=ジャコブセンらがメインで執筆し、精神分析陣営からの転向組を含む精神療法家、歴史家、科

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  • 父の娘たち・・・渡邉泰子と木嶋佳苗(‥‥そして私) - ohnosakiko’s blog

    一週間ほど前に美容室で手に取った『婦人公論』誌上にて、北原みのりが東電OL殺人事件の被害者、渡邉泰子と、結婚詐欺・連続不審死事件の被疑者、木嶋佳苗との共通点を、「父の娘」であることだと書いていた。それが二人の性的逸脱行動になんらかの影響を及ぼしたのではないかという趣旨のエッセイで、関係が詳しく論じられていたわけではない。*1 自他ともに認める「父の娘」だった私としては気になるところ。 渡邉泰子と木嶋佳苗。いずれも長女で、知的階層の高い厳格なタイプの父親に愛され、教育的な家庭環境で優等生として育てられた。そしてどちらも父を亡くしている(渡邉泰子の父は病死、木嶋佳苗の父は事故死だが自殺の可能性も疑われている)。 以下、彼女たちのプロフィールをざっと書き出してみる。 1957年生まれの渡邉泰子は、東大出身で東京電力勤務の父をもち、幼い頃から父の期待に応える優秀な娘だったという。20歳の時に、役員

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  • ラカンの『愛のコリーダ』論 - alacantonade

    *Jacques Lacan : Le Séminaire, livre XXIII, Le sinthome, Seuil, 2005. 『サントーム』は晩年のラカンの重要な講義録のひとつ。最近出た『精神分析の名著』(中公新書)に選出された21篇のなかにも、『エクリ』とならんで(なぜか?)ランクインしていた。 ジェームズ・ジョイスを症例として論じていることで有名なセミネールだが、なかに大島渚の『愛のコリーダ』についての興味深い言及がある。 ヒロインの定が恋人を殺害し、その局部を切り取るという物語のクライマックスをなすエピソードについて、ラカンはつぎのような問いをたてる。 なぜ切ってから殺さず、殺してから切ったのか? 「なぜ切り取ったのか?」というありふれた問いではないところがミソだろう。なんともするどい問いかけである。 以下の抜粋は、1976年3月16日の講義からのもの。 一の日映画

    ラカンの『愛のコリーダ』論 - alacantonade
  • 精神病と創造性についてラカンは何を語ったか (2011年発表原稿) - à la lettre

    2012年6月23日(土)・24日(日)に、第59回日病跡学会総会が東京藝術大学で開催されます。 http://www.geidai.ac.jp/event/pathography2012/index.html お時間のある方は、どうぞお越しください。 開催にちなみ、と言ってはなんですが、期間限定で、昨年の私の病跡学会での発表原稿を掲載します。 1.はじめに 精神分析家ジャック・ラカンは,その論文や「セミネール」と呼ばれる講義のなかで,膨大な数の作家や文学作品に言及しています.とりわけ,『ハムレット』論や,マルグリット・デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』の詳細な分析はよく知られています.しかし,これらの文学作品の精神分析的解釈は,作家における創造性を問うというよりも,むしろ作品と作中人物を分析することによって,精神分析理論を例証する目的でおこなわれたものと言えるでしょう.その意味で

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  • 本が好き! Book ニュース

    Bookニュースをリニューアルしました! 新しいデザインでより読みやすくなったと自負しております。 http://www.honzuki.jp/news/ 今回のリニューアルに伴い、RSSのURLも変更になりました。 リーダーなどにご登録してくださっている場合は、 お手数ですが併せて設定の変更をお願いいたします。 http://www.honzuki.jp/news/?feed=rss 今後も、マニアックな情報を配信していきますので、 よろしくお引立てくださいますようお願いいたします。

    gauqui
    gauqui 2012/06/15
    おお面白そう
  • 「人形を相手にしている女の子、あれは決して遊んでいるのではない」(読書メモ) - ohnosakiko’s blog

    時代が病むということ―無意識の構造と美術 作者: 鈴木國文出版社/メーカー: 日評論社発売日: 2006/01/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 53回この商品を含むブログ (2件) を見る 『時代が病むということ 無意識の構造と美術』(鈴木國文、日評論社、2006)。タイトルにした文を含むルチオーニという人の引用文章から啓示を受けたという友人に教えられて、少し前に読んだ。第一部「シュルレアリズム」、第二章「知は男の側に、真理は女の側に」より抜粋。 現代のフランスの女性分析家、ルモアーヌ・ルチオーニは、その著書『Partage des femmes』に、次のように書いている。 「男の子はさまざまなもので遊ぶ。ちょうど彼が既にそのペニスを弄んだように。しかし、幼い女の子は遊ばない。少なくとも女性的な遊びと男性的な遊びの間に、共通なものはほとんどない。‥‥‥人形を相手にしてい

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    gauqui
    gauqui 2012/06/01
    シュルレアリズムのはなし。
  • 『二人であることの病い』について - à la lettre

    はてなブログに移行しました。今後ともどうぞよろしくおねがいします。 二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫) 以前amazonに書いたこののレビューを、少々加筆して転載します。 この論文集『二人であることの病い』に収録された1930年代の諸論文と学位論文が、精神分析家ジャック・ラカンの理論的な出発点になったということがしばしば指摘される。しかし、それはいかなる意味においてなのだろうか。1930年代のフランスの精神医学の潮流のなかで書かれたラカンの一連のパラノイア論は、その後の彼の理論とどのような関係をもっているのだろうか。 書に収録されている1930年代の理論と、1950年代以降の理論の内在的な関係を理解するためには、書の精読が必要である。しかし、フランス精神医学の伝統に属する格調高い筆致で書かれた書は、精神医学の専門家ではない向きには読みづらいものであるかもしれ

    『二人であることの病い』について - à la lettre
  • 臨床上の立場と時間 - Freezing Point

    精神分析で使われる概念枠と、それと似た言葉で各論者がやることの絡まり合いがややこしい。*1 ひとまず精神分析では、 【神経症】 《抑圧》 独:Verdrängung  仏:le refoulement  英:repression 【精神病】 《排除》 独:Verwerfung  仏:la forclusion  英:foreclosure (repudiation) 【倒錯】 《否認》 独:Verleugnung  仏:le désaveu (le déni)  英:disavowal 精神病を 《排除 forclusion》 で論じるという設定は、フロイトの Verwerfung の仏訳として、ラカンがやったことですよね。 ラカンからすれば、ドゥルーズ&ガタリは言い訳しようのない逃避であり、欲望の倫理への裏切りということで*2、それはラカンでいえば《抑圧》の文脈にあるということか。 いっ

    臨床上の立場と時間 - Freezing Point