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ブックマーク / technique.hateblo.jp (112)

  • 説明原理や、問題意識そのもののマイノリティ性 - Freezing Point

    《精神科の診断カテゴリ名の運用について》(togetter) 酒井泰斗氏から、私にいただいたレスポンスです(ありがとうございます)。 以下は今の時点でのお返事、というか、とりあえずの整理です。 モチーフの基調音として それまで価値観を共有していると思っていた周囲の人たちまで、 実際に生じたことについての、古臭い解釈に居直ることがあります。 「権威ある誰か」の言い分は、そこでダメ押しみたいに抑圧する(参照)。 「これ、おかしいですよね」 「いや、問題じゃないな」 → 問題意識を分節することそのものが、どうしようもなく孤立する。逆境にある。 あなたには、なぜそれが「問題」だと分かるんですか? あなたが考えを変えればいいのではありませんか? → 新しく説明原理から作り直すしかない。 そしてそれは、既存の解釈格子に捨てられる。 「そんなものは、説明でもないし、問題でもない」と言われ続ける。 「個別

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    gauqui 2013/02/22
  • 現代社会のフォーマットとしての、完成詐欺 - Freezing Point

    画家・永瀬恭一 「《完成》は恣意的な判断にすぎない」(togetter) これは作家としての議論なのだけれど、モチーフとして決定的に大事なのは、 私たちの生活世界への着手そのものに関わるから。 商品というのは、「私は完成しています」という詐欺ではないだろうか。 完成サギに身を染めないと、正しく存在していると見做されない、 それが私たちの生活世界ではないか? 「完成している」というアリバイゆえに、あなたも私も、それぞれの制作物も、 社会的な存在を許されているのではないか。 それを守ろうとするから、いろいろ、おかしくなるのではないか?*1 私にとって「当事者」とは、やり直しの場所ということだ。 名詞形で居直ることではない。 だからなんとか、動詞化したいのだ。 検証して、やり直すことじゃないか、自分の話というのは。 永瀬氏は漱石の『明暗 (新潮文庫)』を挙げているが、 まさに書物というのは、「こ

    現代社会のフォーマットとしての、完成詐欺 - Freezing Point
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    gauqui 2013/02/04
  • ひきこもる人は、社会の外側にいるのか? - Freezing Point

    酒井泰斗氏のツイートより: 「反社会的」とか「社会復帰」といった言葉遣いにおける「社会」が超越概念であることの気づきを得た。 2013-01-22 09:10:10 via Twitter for iPhone 示唆的でした。 このご発言の酒井さんの文脈を存じませんので、私の勘違いかもしれませんが、 支援論の大事なポイントを思い出したので、メモしてみます。 端的に言えば、 ひきこもった状態は、社会の外側なのか、それとも内側なのか? 社会の外側だと考えると、支援は「内側に入ってこい」になる。 社会の内側だと考えると、支援は「すでに居る場所を何とかしなければ」になる。 雑誌『ビッグイシュー』の往復書簡では(参照)、 斎藤環さんは明白に前者の発想であり、私は後者でした。*1 親に扶養されていても、それは「社会のなか」としか言いようがない。 とはいえ、「だからそのままでいい」ではなくて、 そこには

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    gauqui 2013/01/24
  • 論じている自分の作業過程に照準できるか (3) - Freezing Point

    【承前】 「酒井泰斗氏による、上山和樹への返答」(togetter) お返事を頂いた形ですが、 私としては、自分の問題提起や説明が、完全に遺棄されたことを確認しています。 それを指摘しても、酒井さんには意味がないでしょう。 となると、私にとっても、これ以上説明する意義がありません。 以下は、現時点の私の理解です。 「主体化の意味が分からない」とおっしゃるのですが、(2)のエントリで、最低限の説明は与えました*1。 そもそも発達障碍は、意識が硬直している話であり、私は以前から、ずっとその話をしています。――要するに酒井さんは、発達障碍という語の運用に介入したのに、発達障碍そのものについては、考えるおつもりがまったくない。 これでは酒井さんは、ずっとご自身の前提に閉じこもったまま、 いくらでも言葉ヅラの介入ができるでしょう。 しかし私からすると、何かの信仰者と話しているような状態です。 私は、

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    gauqui 2013/01/16
  • 「わかりやすい当事者」&「わかりやすい正義」では、ムリ - Freezing Point

    ネットに、自助グループの機能が期待されている。 私はもう、そこには期待しなくなった。*1 「マイノリティ的な属性の提示」で、自動的につながりが生じるのが当たり前だと思う大きなフォーマットに、抵抗したい。 「わかりやすいネガティブ性」の提示は、常識的な価値観から自由なようでいて、実はそれに縛られたままだったりする。 過去の経歴や属性がどうあれ、差別的に見ないということは、「お互いに日常的な存在でしかない」ことに気づくということ。深刻な経験は、免罪符でも、つながりの保証でもない。 自助グループは、お互いの経験の「相対化」や自己検証のチャンスであって、「同じだよね!」ではない。*2 いまだに、 「わかりやすいマイノリティ性の提示」と、 「わかりやすい正義の提示」という、 わかりやすすぎる両極だけがあって、それをシャッフルするような、 当に必要な議論が始まると、そっぽを向かれる状況がある。 当事

    「わかりやすい当事者」&「わかりやすい正義」では、ムリ - Freezing Point
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    gauqui 2013/01/15
  • 「やりかた」の試行錯誤と、分析のプログラム - Freezing Point

    あらためて、ツイッターでの議論をこちらに掲載します。 直前の大まかな流れは、 「上山・酒井問答3に対するつぶやき」(togetter) をご覧ください。 @ueyamakzk @ashibumi68 まとめ更新しました。URLこの「名詞的/動詞的」という分類は、名詞的なのでしょうか。動詞的なのでしょうか。 2012-11-24 13:20:21 via HootSuite to @ueyamakzk @ueyamakzk @ashibumi68 むしろこうしたスコラ的区別(悪い意味で)が出てくるのは、具体的な現象についての分析が提示されないからではないでしょうか。(分析を進めるかわりに「メタ語りはよくない」というメタ語りを延々と続けてしまっていませんか?) 2012-11-24 13:22:43 via HootSuite to @ueyamakzk スコラ的区別というのは、「どうでもいい

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    gauqui 2013/01/15
  • 論じている自分の作業過程に照準できるか - Freezing Point

    菅野盾樹氏の執筆による、「臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論」より(強調・改行は引用者): 徴候への眼なざしがそれを〈症候〉と捉えること(症候の生成)はどのようにして可能だろうか。この問いに対しては眼なざしが帰属する「暗黙知」(tacit knowing)の規定性を挙げておいた。つまり症候を捉える眼なざしは、生きられたエクスパートシステム(implicit expert system)のひとつの要素なのである。エスノメソドロジストの目的は、おのおのの社会的実践(医療、教育、司法など)に対して、この種のシステムが明確化する様態を記述することだと思える。彼らは、これをもって、コミュニケーション過程において社会的実践の類的同一性が構築されるという事態の解明と見なしている。 実際のところ、彼らは当該の社会的実践を規定するシステムを前提しているのではないか、という疑いを払拭できない。つまり、彼らの記

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    gauqui 2013/01/15
  • 論じている自分の作業過程に照準できるか (2) - Freezing Point

    【承前】 @contractio / @ueyamakzk せっかくいろいろ書いていただいたので... レスポンスを頂き、ありがとうございます。 とはいえ正直なところ、居直りをされてしまったように感じています。 酒井さんは先日、私が「発達障碍的」という言葉を使ったところ、 以下のようにコメントされています(参照)。 @contractio / @ueyamakzk んーと。「精神科の診断カテゴリを(不... これを「厳密に用いるべきだ」という趣旨と受け止めたのですが、 日常レベルの言い換えとして、私がそんなにひどい曲解をしたとも思えません。 ところが酒井さんは、歌舞伎役者のように 「生まれてこのかた、一度も述べたことのない主張だ」とおっしゃる。 酒井さん(あるいはエスノメソドロジー?)においては、 「不当である」ことと、「厳密ではない」ことの あいだ に、激しい差異があるのでしょう。 ――

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    gauqui 2013/01/15
  • カント「Realität」誤訳問題をめぐって - Freezing Point

    ハイデガー拾い読み (新潮文庫) 作者: 木田元出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2012/08/27メディア: 文庫 クリック: 25回この商品を含むブログ (8件) を見る 以下、鮮烈な印象を受けた Realität 誤訳問題と、 その周辺をめぐる木田元氏の説明(に対する私の理解)を、要約してみます。 マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ」にある、 《唯物論(Materialismus)》 と 《観念論(Idealismus)》 の対比 は、哲学科の教員たちからは逸脱とされるらしい。 しかし木田氏は、そういう教科書的な理解そのものを問題視している(p.203)。 つまり哲学科の教師たちは、 《唯物論(Materialismus) ⇔ 唯心論(Spiritualismus)》 が 【存在論】 《実在論(Realismus) ⇔ 観念論(Idealismus)》 が 【認識論】 ――という

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    gauqui 2012/12/20
  • 技法そのものを環境に実装できるか - Freezing Point

    問われているのは、私たちの 集団的な 《技法》 です。 そして、 主観性や関係でつまずく以上、「病人だけ考えればよい」というわけには、いきません。 たとえば「臨床」といっても、文字通り「床に臨む」ではなくて、職場や学校、家庭等の《日常》そのものがテーマになる。何かを意識すること、言葉づかい、社会的行為そのものが、「臨床上の」現場になる。つねにすでに、苦痛緩和や技法が問われています。*1 「めんどくさい」というなら、それが積もり積もって、環境は悪化するでしょう、むしろ少しずつ意識したほうが、お互いにラクになれる――それは間違いないのですが、それがなかなか出来ない。 これは、「飛びぬけた人だけが出来ても、うまくいかない」問題でもあります。 以下、作品づくりとその環境についての、竹熊健太郎氏のツイートより(参照): [承前]その代わり、作品を産み出す側に身を寄せようと。あえていうなら「状況」に加

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    gauqui 2012/12/03
  • 分析的な 《つながり方》 を設計するために - Freezing Point

    以下の酒井泰斗氏のご指摘は、さまざまな関係者にも読んでいただきたく、まとめてみました。 直接には私へのレスポンスですが、「これにどうお答えするか」というのは、 技法のもんだいとして、時間をかけて議論したいです。 ●「分析にあたっては、継続的な修正のできるやり方が必要」(酒井〔contractio〕氏) 以下、現時点で答えられることにお返事してみます。 《当事者》枠とディシプリン 【1】 「A:苛立ちの分析」は──「苛立っているひとの分析」ではなくて──、「それが生じる状況-に参加している人たちが-何をどのようにしたか-についての分析」を必要とするでしょう。 2012-11-16 22:07:19 via HootSuite @ueyamakzk ところで、そうしたことと、「B:悩んでる人、弱い立場の人を一方的に《当事者》と名詞化するのではなくて、…、分析してもらえませんか?」というお願いの

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    gauqui 2012/11/16
  • 思考が、身体的な動機づけをもつこと - Freezing Point

    エントリは、twitter 上でのやり取りについて、あまりに長くなったお返事をまとめたものです。 直前の大まかな文脈についてはこちらを、さらに詳細なリンク先等はこちらを、ご覧ください。*1 《「理論」という言葉は、どういう意味で使われているか?》(togetter) @ueyamakzk それはそれとして。上山さんは、ここで「理論」という言葉を持ち出しましたが、それは、一方では ちょっと異様な感じがします。(ふつう、他人のやり方(or失敗)を真似したり参考にしたりするときに、「理論」には訴えないでしょう。) 2012-11-14 02:06:40 via web to @ueyamakzk ご指摘ありがとうございます。 「理論という言葉の前提が問題だ」というお返事を書いていたら、酒井さんも 「そもそも理論ってなんだ」 という話をされていたみたいです。 ひとまず私が「理論」という言葉で意味

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    gauqui 2012/11/14
  • 批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》 - Freezing Point

    永瀬恭一氏 「30年前を素材にする・日の70年代 展」 より: 埼玉県立近代美術館で「日の70年代」展が行われている。〔・・・〕 80年代に繋がる非政治的なものも、むしろその非政治性にこそ「カウンター」の意識が込められている この展覧会が示そうとした「カウンター」としての70年代は、80年代初期には既にメインストリーム化していたのであり、潜勢力の喪失は始まっていた いつしかカウンターではなくメインストリームとなっていった消費社会それ自体に対する未来の「カウンター」が必要になってきた この文章の、美術領域内での位置づけや射程は私には分かりませんが、 触発された自分の焦点をメモしてみます。 《集団的な批評の機能》 をどう組織する(される)か、マネジメントする(される)か。*1 《消費イメージに駆動される購買》 に、最高の批評ポジションを与えること。それは主観性や関係性の再生産において、70

    批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》 - Freezing Point
  • (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point

    連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」(今回) 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」 【承前】  3回にわたってエントリしてきましたが、今回でようやく核心です。 批判的な議論をするとき、それが「意図せざる差別」なのか、それともフェアな批判なのか、よくわかりません。 この違いを明らかにしておかないと、 「差別される側のやってることは、誰も批判できない」 「被差別部落のことは、論じちゃいけないのか」 になって、みんなが萎縮してしまいます。 私の提案するポイントは、《名詞か、動詞か》 という一点だけです。 (1)《名詞形カテゴリ》 に還元していれば差別。 相手をほめる場合でも、あるいは自分についてでも、《名詞形カテ

    (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point
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    gauqui 2012/10/29
  • (1) 《つながりの作法》 としての差別 - Freezing Point

    連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」(今回) 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」 『週刊朝日』「ハシシタ」記事と橋下徹氏の件(参照)について、いくつかの議論を精読しました。*1 今回の騒動ではっきりしたのは、 何が差別で何が差別ではないか、理論的に説明できる人は一人もいない。 「批判」と「差別」の違いをどう考えるかに、その人の思想の原理がくっきりと現れる。 橋下徹氏は、私が生きざるを得なかった引きこもり状態について、「勾留のうえ、労役を科す」「生きる資格がない」 と言っていて(参照)、いわば私の人権を(というか命を)認めない人です。 しかし 《彼をどう批判するか》 のロジックには、慎重でありたい。 私はパ

    (1) 《つながりの作法》 としての差別 - Freezing Point
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    gauqui 2012/10/24
  • 努力の媒体について (メモと簡単なご報告) - Freezing Point

    以前に 当ブログ や twitter でご紹介した(参照)、 山森裕毅氏の重要な論考 「フェリックス・ガタリにおける記号論の構築」 について、山森さんがコメントを下さっています。→ http://bit.ly/RQtom1 先日、熊谷晋一郎さんに呼びかけたことで、「つながりの作法」の件が良いほうに動きそうで(参照)、 これを機会に、以前から気になっていた論文についても、著者の山森さんにご連絡したのでした。 まだ安心はできませんが、ひとまず「上山が剽窃した」の疑念は、晴れやすくなったと思います。 即座に反応くださった山森さん、ありがとうございました。 私は大学等に所属を持っておらず、考察のほとんどを、このブログで公表してきました。*1 それは既存ディシプリンに縛られず、《できるだけ現象に即して書く》 には適しているのですが、 マイナス面としては、 業績として認知されない ほかの皆さんの活動の

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    gauqui 2012/10/23
  • 「最低限の、必要なこと」 - Freezing Point

    INTERVIEW 《「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ》(WIRED.jp) 何かの琴線にふれたみたいで、twitter でもたくさん言及されています。 田村氏が撮影したラボルドは、ニコラ・フィリベール監督の 『La Moindre des Choses』(邦題『すべての些細な事柄』)という映画になっています。 みんなが仮装大会(?)をしているとき、すぐそばで参加せず、知らん顔の人がおられることに注意。 この病院では、「ひとつのイベントが全体を支配する」ような、単一的な支配の状況が嫌われるそうです。参加したくなければ、自分で別の時間を過ごせばいい。 「時間軸が、たくさん生きられる」ことが、臨床上の重要な指針になっています。 すべての些細な事柄 [DVD] 出版社/メーカー: バップ発売日: 2008/08/27メディア: DVD購入:

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  • 物語 『La petite Borde』 - Freezing Point

    エマニュエル・グァタリ氏*1が、ラボルドで過ごした子供時代を、ファンタジーっぽい体裁で出版されています。 Emmanuelle Guattari, 『La petite Borde』 【紹介1】 【紹介2】 【冒頭三話の原文】 著者: http://bit.ly/QimWnE 【朗読会のようす】 自著プレゼン(フランス語) 通訳したいのですが、私にはまだ一部しか聞き取れません、あしからず。 試みに、第二節 「サル LE SINGE」 を、訳してみました。 私たちは、サルを飼ってた。お父さんが、アフリカから連れて帰ってきたのだ。 ある日、お父さんがジャケットを開くと、それはすごく小さくて、お父さんにしがみついてた。 すごく大きくなった。 名前を、ブブっていう。 明るいベージュ色で、メス。 彼女はうちのお父さんが大好きで、私たち三人を嫌った。 彼女は、私たちのお父さんを、自分の母親だと思ってい

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    gauqui 2012/09/21
  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

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    gauqui 2012/09/17
  • 「アナコーレーシス anakhôrêsis」=「ひきこもり」? - Freezing Point

    ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82) 作者: ミシェル・フーコー,廣瀬浩司,原和之,Michel Foucault出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2004/01/20メディア: 単行 クリック: 17回この商品を含むブログ (17件) を見る 訳者のおひとり、廣瀬浩司氏*1のつぶやき: @parergon2: フーコー『主体の解釈学』に、しばしば自己へのretrait という言葉が出てきますが、これを「自己へ引きこもること」と訳すのは自粛してしまったのは正しいかったどうか?? 2012-07-16 20:27:49 via web 確認してみました(改行・強調は引用者による)。 この自己の技術テクノロジー)に属するまた別の技術、手続きとしては、退却(retrait)の技術があります。これについては西欧の霊性全体において、非

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    gauqui 2012/09/14