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表象文化論に関するgauquiのブックマーク (30)

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:第7回研究発表集会報告:ミニシンポジウム

    2012年11月10日(土) 16:00-18:00 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1 ミニシンポジウム:イメージの権利 問題提起:岡田温司(京都大学) 加治屋健司(広島市立大学) 橋一径(早稲田大学) 森元庸介(東京大学) 【司会】木下千花(静岡文化芸術大学) 画像の使用権に関わる交渉は、表象文化に関わる多くの研究者にとって、非常に現実的かつ実際的な問題である。表象文化論学会においても、近い将来、画像の使用に関するルール作りが必要となるかもしれない。しかし今回のミニシンポジウムでは、そのようにしばしばテクニカルな問題として(のみ)処理されがちなイメージに関する権利を、敢えて学術的な議論の対象として、歴史的にも領域的にも広範な観点からとらえ直すことが試みられた。 まず発起人の岡田温司氏は、イメージの権利という問題を考えるにあたって、新たな複製技術、新たなメディ

    gauqui
    gauqui 2013/01/18
    うわさの。「イメージの権利」
  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:PRE・face

    「学術出版に絶滅危惧種のリストがあるとすれば、美術研究が一番上にリストアップされるだろう※1」。2006年8月4日付のThe Chronicle of Higher Education 誌が、このような不穏な見通しを伝えた背景には、イメージの複製権料の高騰という問題がある。同誌によれば、ルネサンス美術の専門家が、発行部数はわずか400部から500部の自らの研究書に図版を掲載するために、10,000ドルから15,000ドルを支払わなければならなくなるというケースも決して珍しくはないという。こうした状況は電子出版においても、改善されるどころか、むしろますます深刻化している。一例を挙げれば、紙の出版物であれば刊行時に一度だけ支払えばよかった複製権料が、オンライン出版の場合には、数年おきに更新料が必要となるケースもある※2。このような契約のもとでは、定期刊行物の場合、刊行を続ける限り、権利料の支払

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:研究発表集会報告:シンポジウム「記憶の体制」

    11月18日(土) 14:00-17:00 研究講義棟227教室 シンポジウム 「記憶の体制」 【パネリスト】 岡崎 乾二郎(美術家・近畿大学) 岡田 温司(京都大学) 小林 康夫(東京大学) 田中 純(東京大学) 和田 忠彦(東京外国語大学) 【司会】 松浦 寿夫(東京外国語大学) 「記憶の体制」と名付けられたシンポジウムでは、五人のシンポジストから表象と記憶を巡って問題提起がなされた。各シンポジストの提題が進むにつれ、また後半のディスカッションを通じて、照準は、徐々に「情動」そして「感情移入」の問題へと収斂していったように思う。 最初の提題者、岡崎氏は、変化や運動を記憶するために定型的イメージが介在するという事例を、18世紀のホガースを中心に豊富に提示した。こうした運動を記憶へと媒介するパターン化されたイメージの問題といえば、アビ・ヴァールブルグの「ムネモシュネ」が即座に想起される。自

  • 【報告】「イメージの作法」第4回 「イメージは踊る、イメージを踊る」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

    1月30日(水)、研究会「イメージの作法」第4回が行われた。発表者としてお招きしたのは、ディディ=ユベルマン『残存するイメージ――アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』(人文書院、2005)の訳者であり、舞台芸術にもくわしい、竹内孝宏氏(東京大学)。 発表タイトルは、「イメージは踊る、イメージを踊る―『残存するイメージ』から『孤独のダンサー』へ」。フランスの美術史家・思想家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの二著作を通して、「イメージ」と「舞踊」の問題を掘り下げる試みだ。 2002年に出版されたディディ=ユベルマンの大著、『残存するイメージ』は、狂気の淵から未聞の「文化科学」を立ち上げようとした美術史家、アビ・ヴァールブルクをめぐって書かれた理論書である。(ヴァールブルクの錯乱的な思考については、UTCP事業推進担当者・田中純氏による『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(青土社、

    【報告】「イメージの作法」第4回 「イメージは踊る、イメージを踊る」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
  •  「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章、および「イメージ=アルシーヴあるいはイメージ=外観」の章についてのツイート - 今日もぐだぐだ

    イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る (承前) その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708 その2→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121111/1352611492 『イメージ、それでもなお』p116まで。表象の「≪すべて≫に抗して」の繰り返し。ここではフェティッシュも「すべて」の機制として退けられ、「裂け目」、「安心した自己イメージには決してならず、われわれにとっては常に<他者>のイメージのまま」であるような歪んだ鏡が写真に重ねられる。 感

     「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の章、および「イメージ=アルシーヴあるいはイメージ=外観」の章についてのツイート - 今日もぐだぐだ
  •  『イメージ、それでもなお』、第1章を振り返りつつ「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の節(p87まで)について - 今日もぐだぐだ

    イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る (承前)『イメージ、それでもなお』その1→http://d.hatena.ne.jp/pilate/20121101/1351902708 ※だらだら書いてたら、長くなってしまい、そろそろ飽きてきたので、とりあえずp87まで。 【第1章の補足ツイート】 ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』第一章の締めの箇所の「閃光の時間」は、カメラのフラッシュ、ストロボのイメージなのかな、とか風呂の中で想像力を試していた。カメラの瞬きだとしたら、『イメージの前で』に瞬きについて論じてあったような。「大地

     『イメージ、それでもなお』、第1章を振り返りつつ「イメージ=事実あるいはイメージ=フェティッシュ」の節(p87まで)について - 今日もぐだぐだ
  •  『イメージ、それでもなお』第1章、脳内ロイヤルランブルツイートまとめ - 今日もぐだぐだ

    イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真 作者: ジョルジュ・ディディ=ユベルマン,Georges Didi-Huberman,橋一径出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2006/08/08メディア: 単行 クリック: 99回この商品を含むブログ (38件) を見る こちらのレジュメに触発されてひとつ考えてみることにした。引用文献等に当たって講読を試みている。→http://d.hatena.ne.jp/nowherezen/20121027 少々乱暴ではあるが、思ったことをだだっと書いたツイートをまとめておく。 ※一部加筆・訂正 昨晩、ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』の「イメージ、すべてに抗して」の章まで読んだ。DHの著作を読むのはこれが三冊目。以下、まとまりのないメモ。テーマは、「『なにひとつ痕跡を残さない』こと、残りすべてを消滅させること」

     『イメージ、それでもなお』第1章、脳内ロイヤルランブルツイートまとめ - 今日もぐだぐだ
  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:研究ノート (2)

    2009年の春、画廊巡りの途中で立ち寄ったメゾンエルメスでの個展※1を今でもよく覚えている。ガラスブロックで覆われた銀座のビルディングの8階、エレベーターを降りた瞬間、空間に満ちた音に身体ごと取り囲まれる。展示室で待ち受けていたのは、40個の黒いスピーカーだった。予期していたような作品の姿は見当たらず、しばらく立ち尽くしてしまう。やがて静寂がおとずれ、咳払いやおしゃべりの雑音がスピーカーから漏れたかと思うと、ひとり、またひとりと歌いはじめる。しだいに歌声は重層的になり、一瞬の沈黙のあと、まるで天から振ってくるように40人の合唱が響き渡る。スピーカーという無機質な塊を通しているにもかかわらず、空気を振動させる声のヴォリュームは圧倒的で、コンサートホールで聴く音楽とは全く異なる音を経験した。荘厳な旋律は、16世紀イングランドの作曲家トマス・タリスの代表作「我、汝の他に望みなし」(1573)とい

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:第7回大会報告:パネル1

    2012年7月8日(日) 10:00-12:00 東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1 身体の言語学―ダンスの現代性をめぐって 「残酷」の萌芽としてのニジンスキー 堀切克洋(東京大学) 土方巽から大野一雄へ――言語によるイメージの身体化をめぐって 宮川麻理子(東京大学) コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」の機能――ウィリアム・フォーサイスの場合 藤堂寛子(東京大学) 【コメンテーター/司会】石光泰夫(東京大学) 20世紀初頭のルドルフ・ラバンによるラバノーテーションの開発は、舞踊の運動がそれ固有の言語的構造を備えていること、すなわち、「舞踊言語」と呼ばれるべきものが存在していることの認識を明確にした。こうした前提に基づき、パネルでは、舞踊あるいは身体、運動と、ノーテーションあるいは文字、言語との関係をめぐる三つの発表がなされた。 最初の発表者は堀切克洋氏。

  • 「表象文化論のアトラス」のアトラス - Blog (Before- & Afterimages)

    ブックフェア「表象文化論のアトラス」の4つの選書リストにもとづき、重複のある著者のみをピックアップして相関図を作ってみました(クリックにより別ウィンドウで拡大)。一定の傾向が読み取れるように思います。重複して取り上げられている書籍については枠線の太さを二倍にしてあります。

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  • ディディ=ユベルマン『時間の前で』 - 真夜中の報酬

    半年くらい前に読んだ『イメージの前で』につづいて、二冊目のディディ=ユベルマンの著作(情けないことに『イメージの前で』の細かな内容は、論旨のおおまかなニュアンスを除いてあらかた記憶から消えてなくなった)。しかしこのもやっぱりとてもおもしろかった。最近読んだばかりのアガンベンの『裸性』が神学的な思考とイメージに対する批判を展開するにあたってまさにそういうスタンスを取ってたんだけど、美術史の現在を問い直していまだ開かれたままの未来へと向けてこれを練り直そうとする美術史家ディディ=ユベルマンのここでの論考もまた、イメージに帯同する認識論的なアナクロニズムの必要性や不可避性といったものを執拗に説く内容になっている。 収録されたどの論考でも、一貫して歴史と美術のイメージに対するアナクロニズム的視座への強固な要請が急務の課題として問題化されてるわけだけど、対象と主題に応じて次々に介入の角度と深度を変

    ディディ=ユベルマン『時間の前で』 - 真夜中の報酬
  • イメージそれ自体に権利はあるのか。 - 昆虫亀

    表象文化論学会、秋の研究大会に行って来ました。 ちょっと色々考えたことを。また長いです。 シンポジウムで、「イメージの権利」とかいうのが話題になってた(http://www.repre.org/conventions/7_1/1_3/)。 学会シンポジウムにありがちな、もやっとしたテーマである。 いろいろ議題は多岐にわたってて面白いシンポだったし、大変勉強になった(、とりわけ加治屋先生の話はとても楽しかったし、翻訳につながる良い知識も得られた)のだが、途中から「イメージそれ自体がもつ権利」というのが議論になってた。今日は、これについてちょっと考えたことを書きたいと思う。 あらかじめ言っときますが、別に特定の誰かをdisってるわけではないです。 あくまで思考整理が主眼であります。 さて、 そもそも、モノそのものが持つ権利って、何よ?という気もするが、今日はそこまで話を広げずに、「イメージ」に

    イメージそれ自体に権利はあるのか。 - 昆虫亀
  • 表象文化論学会ミニシンポジウム「イメージの権利」、その後の議論

    Kajiya Kenji 加治屋健司 @kenji_kajiya 告知が直前になってしまいましたが、明日10日の表象文化論学会のミニシンポジウム「イメージの権利」に参加します。岡田温司さん(問題提起)、橋一径さん、森元庸介さん、木下千花さん(司会)とご一緒します。概要はこちらです。 http://t.co/TOkglJF5 2012-11-09 23:19:32 http://www.repre.org/conventions/7_1/1_3/ 第7回研究発表集会|ミニシンポジウム「イメージの権利」(コラボレーションルーム1) 日時:2012年11月10日(土) 場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム 午後2 16:00-18:00 問題提起:岡田温司(京都大学) 加治屋健司(広島市立大学) 橋一径(早稲田大学) 森元庸介(東京大学) 司会:木下千花(静岡文化

    表象文化論学会ミニシンポジウム「イメージの権利」、その後の議論
    gauqui
    gauqui 2012/11/12
    誰も作らなかったらやろうかと思ってた。ありがたやー。
  • すらるど 「日本のアニメがアメリカのSFに影響を与えた10の視覚表現」海外の反応

    スライス・オブ・ワールド、略してすらるど。旧タイトル『海外の反応とか』。海外の反応をヘッポコな翻訳力で紹介しています。 アニメの表現は時として海外のクリエイター達に強烈なインスパイアを与えます。 アニメがアメリカSFに与えた10個の視覚表現という記事が海外のサイトで紹介されていました。 ※10要素に関しては抄訳です。 引用元:10-visual-motifs-that-american-science-fiction-borrowed-from-anime 10)虫型メカ これは非常にたくさんあるので、誰が最初なのかを挙げるのは非常に難しい。 しかし、不気味な虫型メカに関しては士郎正宗が『攻殻機動隊』や『アップルシード』で人気のあるアイディアをたくさん提供している。 9)三点着地 TVTropesが指摘している通り、片手を付いての着地である三点着地はアニメから始まり、今ではアメリカ中を征

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:PRE・face

    先日の第7回大会では、「災害の表象」をテーマとした英語による発表を公募し、3つのパネルにわたる多くの発表が集まりました。今回はそれを記念して、PRE・faceとして招聘講演者のトマス・ラマールさんによる英語パネル参加記をお届けします。日語訳は英語原文に続きます。(REPRE編集部) The Image Economy of Disaster “The disaster ruins everything, all the while leaving everything intact,” wrote Maurice Blanchot, as if to suspend us between two possibilities. His words impart a certain degree of confidence that there are indeed disasters th

  • コンポラ - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術

    【承前】 「スナップショット」である。 但し「スナップショット」ではあるものの、「脳と眼と感情の協働作業を伴う(involves a joint operation of the brain, the eye and the heart. : "The Decisive Moment" : Henri Cartier-Bresson : 1952 )」様な 、 「絵-物語(picture-story)」 であるとは言えない。その意味でのみ、恰も購入したばかりのカメラ性能を測る試し撮りの様にも見えるこの「スナップショット」は、「反=アンリ・カルティエ-ブレッソン」的ではあるだろう。 「素朴なスナップ」で「横位置」の、「日常ありふれた何げない事象」、「誇張したり、強調したりするようなことはしない」、「主義としての明確な論理」が無いこの写真が、例えば「1960年代後半〜1970年代前半」の「日

    コンポラ - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術
  • 劇場としてのショウ・ウィンドウ | 蘆田裕史

    劇場としてのショウ・ウィンドウ | 蘆田裕史 Show Window as Theater | Hiroshi Ashida 1 人間の不在/マネキンの現前 士郎正宗の『攻殻機動隊』、あるいは押井守の『イノセンス』における義体─義手や義足のように人間身体を人工物で代置したもの─は、普通の人間身体よりも多くの「穴」を持つ。すなわちそれは、首の後ろにある四つのジャックである[図1]。義体はこのジャックを持つことにより、都市のいたるところでネットワークとの接続が可能となる。この義体を持つ登場人物は、知覚どころか神経それ自体を都市の細部へまで拡張していると言えるだろう。このような現象を身体からの神経の拡張と捉えるのであれば、そのとき都市全体をひとつの身体とみなすことができる。とは言うものの、この義体というサイボーグ的な身体を現代の人間身体へとそのまま当てはめることは不可能であろう。だが、仮定と結論

    劇場としてのショウ・ウィンドウ | 蘆田裕史
  • 表象文化論学会・第7回研究発表集会後の石岡良治氏と宮本大人氏の対話

    ・リヴォルヴィング・エボリューション──アニメーション表象の新世紀 13:00-15:00(12:30 開場) 第I部 シンポジウム 「幾層ものレイヤーが蠢く──トマス・ラマール『アニメ・マシーン』から出発して」 【ディスカッサント】 トマス・ラマール(マギル大学) 津堅信之(京都精華大学) 石岡良治(批評家) ・司会:土居伸彰(東京造形大学) Yoshiharu ISHIOKA @yishioka 日の表象文化論学会での発表では、昨年『ユリイカ』(2011年11月増刊号)で書いた『まどか☆マギカ』論「魔法少女たちの舞台装置」をてがかりにして、トマス・ラマール氏の『アニメ・マシーン』から得た示唆について話す予定です。よろしくお願いします。 MIYAMOTO,Hirohito @hrhtm2011 第1部のシンポジウムは、パネリストのお三方それぞれ興味深い問題提起というか、概念の提示をされ

    表象文化論学会・第7回研究発表集会後の石岡良治氏と宮本大人氏の対話
  • シンポジウム「アビ・ヴァールブルクの宇宙」読み上げ原稿 - Blog (Before- & Afterimages)

    6月30日に行なわれたシンポジウム「アビ・ヴァールブルクの宇宙」読み上げ原稿を公開します。[P1]などとあるのはスライド番号ですが、これら図版類はネット上での公開を見合わせます。 田中 純(東京大学) ヴァールブルクにとっての『ムネモシュネ・アトラス』は絶えず変化し続ける産物であり、いわば終わりのない「開かれた作品」でした。ですからそれは、時間的変化としての「通時態」と、ある段階における「共時態」の二つの側面から分析されなければなりません。日の発表のタイトルはここに由来しています。つまりわたしの発表では、『ムネモシュネ・アトラス』が扱っている「イメージの歴史」それ自体ではなく、『ムネモシュネ・アトラス』を構成するパネル群の通時的変化と共時的構造が話の焦点になります。この点をあらかじめご承知ください。 [P2]今日の発表の前半は、共時態の構造に着目します。具体的にはまず、ムネモシュネ・アト