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  • フーリッシュな知性(後編)非人間的な知|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けてみることから始めよう。 壊れているのは、譜面台か、彼らか『道化と笏杖』のなか、チャップリンとキートンの『ライムライト』を紹介したすぐあと、ウィリアム・ウィルフォードは、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれるカール・ヴァレンティンの『魔法の譜面台』という喜劇についても論じている。 この喜劇は、ヴァレンティンと相方のリーズル・カ

    フーリッシュな知性(後編)非人間的な知|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • ドキュマン/ジョルジュ・バタイユ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    2020年。新しいディケイドのはじまりの1冊は、大好きなバタイユの『ドキュマン』にした。そして、noteもここから書きはじめることにする。 いや、実は迷って選んでというよりは、あまり考えずに手にとったのが『ドキュマン』だったという方が良い。 しいて言えば、2019年最後に読み終えたアガンベンのに『ドキュマン』への言及があったからだろう。 というわけで『ドキュマン』だ。 このは、若きバタイユが1929年と30年の2年間主宰し刊行していた同名の雑誌に彼自身が執筆した文章を集めたものだ。 『ドキュマン』の創刊号に「学説、考古学、美術、民族誌」と書かれていたというが、そのとおり、や美術作品、演劇作品、美術展などへの批評もあれば、人類学や民族誌についてのものもあれば、古代や中世の歴史に目を向けたものあったりと、領域横断的な知が召喚され、広範囲にわたるバタイユの思考の展開に出会うことができる。

    ドキュマン/ジョルジュ・バタイユ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2020/01/09
  • 道化と笏杖/ウィリアム・ウィルフォード|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ファクトは実は疑わしい。 いつも疑問視しているカントの物自体をここで持ちだすのもなんだが、物自体に近づくことができないとされる人間が何故ファクトが意味するものを相手にできるのだろう。時間さえ人間の認識力ゆえに存在しているだけの不確かなものだというのに、何故人間である僕らがファクトを扱えると考えるのか。 数値化されたデータを元に何かを理解すること、それがファクトを扱っていることになると考えるなら、あんまりだ。属人的な認識に頼ることを回避するという意味でなら客観的ではあるが、果たして、それはファクトを扱って言えるのかという問いが何故発せられないのだろう。 もちろん、データを元に思考すること自体を否定しないし、その有用性も大事さもわかる。 けれど、それもまた1つの人間的な見方でしかなく、事実そのものを表しているものではないことにはもっと自覚的であってよいと思うのだ。数値化されたデータが、非人間的

    道化と笏杖/ウィリアム・ウィルフォード|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2020/01/09
  • 2019年に読んだ30冊の本|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    個人的に、2019年は読書の当たり年だったように思う。 今年はいままでにも増して雑多な感じで、自分自身の興味関心の赴くまま、いろんな分野のを読んだのだけど、それが良かったみたい。 ジャンルも、書かれた時代も、書かれた文脈もバラバラでも、僕自身の視点によってそうしたバラバラのたちが大きく4つくらいの塊に縒り合わされて、僕の内に確かな知的感触を与えてくれた。 今回は、その4つの塊ごとに、今年の読書体験を振り返りつつ、読んだから30冊(正確には2冊のシリーズものもあるので31冊)をあらためて紹介しつつ、僕なりの2019年の振り返りとしたい。最初から長くなるのを覚悟して書き進めようと思うし、どこから読んでもいいように書こうと思うので、気になるところをピックアップして読んでもらえれば幸いだ。 時間とかたち1.時間は存在しない/カルロ・ロヴェッリ 過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ている

    2019年に読んだ30冊の本|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2020/01/09
  • 持続可能性と「人間」の外にあるもの|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    相変わらず、日では持続可能性ということに対する意識の高まりが見られない。そのことに僕はびっくりする。 仕事柄、いろんな企業の変革に関わらせてもらっている。だけど、そうした現場でも持続可能性という観点で物事を考えることがデフォルトになってきているとはいえない。変革しようとするなら持続可能性という視点で考えることは、それだけで多くのきっかけが得られて便利だと思うのだけど、あまりそうはなっていないのは何故だろうかと感じることもある。気のせいだろうか? いま何かを変えるとすれば、そこには環境、社会という側面での持続可能性への問いが必然的に含まれてよいはずだ。気候変動やエネルギー、料などの問題だけでなく、少子化なども含めて僕らの社会の持続可能性の問題だろう。 このままでは良い感じがしない。ただ、ぼんやり生きているだけでさえ、そんな風に問題の影響を感じずには過ごせない環境になってきているように思う

    持続可能性と「人間」の外にあるもの|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/12/22
  • フーリッシュな知性(前編)理解の外で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    理解をするということは大事なことだと思う。 対象が何であるかにかかわらず、自分自身でその対象について理解を深めていくということは、とても大事なことだ。 「理解する」という行為は、対象物との関係性を深め、対象に対する配慮やリスペクトや愛を生み、対象との協働の可能性を高めてくれる。 つまり、逆に言えば、「理解している」かは、対象に対する配慮やリスペクトや愛や、利用可能性やコラボレーションの可能性をどれだけ手に入れたかによって測ることができるということだ。 現実において使えないような知識を獲得しただけでは、理解したことにはならない。包丁は材を切るものだと知っていたとしても、それを実際に材を切るのに使いこなせないなら、それは理解に至っていないのだと言える。 誰か他人がつくった理解を鵜呑みにするだけでは、それは自分で使えるものになっているという意味で「理解した」とは言えないし、そんな他人の与えて

    フーリッシュな知性(前編)理解の外で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 書斎の自画像/ジョルジョ・アガンベン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    アガンベンが書くものが好きだ。 なんというか意味が溶解するところ、理性的な人間を超えたところにあるものを見つめる視点に惹かれる。 このも含めて4冊目になるが、どのにも心を動かされてきた。 いままで読んだ4冊のうち『スタンツェ』(書評)と『ニンファ』(書評)の2冊は主に芸術に関しての思考を集めたものだ。『事物のしるし』はなんと要約すればいいか、むずかしいが、言うなれば思考の方法論について考察されている。 そして、この『書斎の自画像』は、シンプルに言ってしまえば、アガンベンの自叙伝となる。 出会いの連鎖この自叙伝は、アガンベンとさまざまな哲学者、美学者、詩人、作家、古典学者、画家、映像作家、批評家、編集者、音楽家などとの出会いが、彼の人生のいろんな時期にいろんな場所にあった書斎に飾られた写真を辿りながら語られる。 たとえば、1966年、彼がまだ24歳の若き頃にハイデガーと過ごしたプロヴァン

    書斎の自画像/ジョルジョ・アガンベン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/12/16
  • 自分で理解する(答えをつくる)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。 1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。 もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。 現代において、前者の努力は方々でされている一方、後者の努力は前者に寄りかかってばかりであまりなされない傾向にあるように感じられる。 ベクトルは2方向ありつつも、「理解」は最終的に受け手の側の問題なのだが、受け手となった時に「理解」しようという自覚とそれを実現するための自分なりの方法論をもてていない人が少なからずいることに問題を感じるのだ。 インプットを

    自分で理解する(答えをつくる)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 意味と身振り|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    最近、忙しすぎて更新が滞っているものの、そのあいだにもありがたいことにフォロワーの数が40,000を超えた。 10,000ずつ増えるたびに思うだけれど、何を期待してフォローしてくれるのか、わからないくらい、難解な内容なこのnoteにもかかわらず、当にうれしいなと思う。フォロワーのみなさんに感謝。 僕ができるのは、ただひたすら書き続けることだけだけど、これからもよろしくお願いします。 さて、今回は、いま読んでいるウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』から話のネタを。 侏儒や傴僂をはべらせてそもそも、このタイミングで『道化と笏杖』を読もうと思ったのは、その前に、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』とラブレーの『ガルガンチュア』という不具者や道化を嗤うルネサンスの文化について知ることができる2冊のを続けて、読んだからだ。 前者は19世期に書かれた歴史書、後者はまさにルネサンス真っ

    意味と身振り|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • ガルガンチュア/フランソワ・ラブレー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ようやくラブレーを読む。 フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア』は、もう何年も前から、いつかは読もうと思っていた、全5巻からなる『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の1巻目だ。 ラブレーとブリューゲルラブレーは、1483年くらいに生まれ、1553年に亡くなったフランス・ルネサンスを代表するユマニスト(人文主義者)であり、医師だ。 『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は第2書にあたる『パンタグリュエル』が最初に1532年に書かれた後、第1書である作が1534年に、その後、1546年に第3の書、1548年に第4の書(完全版は1552年)、偽書との疑いのある第5の書はラブレーの死後、1564年に発表された。 ミハイル・バフチンには、「ラブレーは難解である」と言われつつも、「そのかわり正しく解明されるならば、彼の作品は数千年におよぶ民衆的な笑いの文化の発展に、逆に解明の光を投げかけるであろう。

    ガルガンチュア/フランソワ・ラブレー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/12/16
  • イタリア・ルネサンスの文化(上)/ヤーコプ・ブルクハルト|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    人間とはこういうものだ、なんて想定は、単なるバイアスでしかなくて、まともな思考を曇らす厄介な思いだ。 ヨーロッパ中世やルネサンスの文化史に僕が興味を抱くのは、まさに、500年以上前の人びとの暮らしや思考に目を向けることで、僕らが「人間とはこういうものだ」と信じ込んでいる固定観念を見事に木っ端微塵に吹き飛ばしてくれるからだったりもする。もちろん、それだけが理由じゃないけど。 それほど、ヨーロッパ中世〜ルネサンスの人びとは、自分の都合で他人を殺すし、陥れる。敵対する他人に対してのみならず、家族同士でも自分にとって不都合な人物であれば、罠にはめたり殺傷したりの対象となる。 また、いまなら考えられない、異形な人たちに対する残酷な行い、笑いながら行ったりする。そうしたことが宮廷の饗宴の場や市民たちが集う街の広場において行われるのだ。 とても同じ「人間」とは思えないが、それはあくまで僕らが自分たちの価

    イタリア・ルネサンスの文化(上)/ヤーコプ・ブルクハルト|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/12/16
  • 品質を想像する|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    自分用のメモ程度に簡単に。 プロジェクトが良い結果に終わるかどうかのポイントのひとつは、品質に対する想像力だろうなと思っている。 「品質」はプロジェクトマネジメントの知識体系であるPMBOKにおいても10の知識エリアのひとつだが、ここをどれだけ大事にできているか?で、プロジェクト全体の良し悪しは変わってくると感じている。 品質を起点とするプロジェクトを実施する上で、設計が大事だというのは、以前から繰り返し書いていることだし、先日も「設計が役に立つ理由」というnoteを書いたばかりだ。 そのプロジェクト設計を行う際、大事にするとよいと思うのが、品質だ。 プロジェクトにおいて生み出すべきものの品質をしっかりと想像すること。「生み出すべきもの」というのは、最終的な成果物はもちろん、プロジェクトの実施過程におけるコミュニケーションや中間的な成果物の品質も含めて、それぞれどういう状態の品質であれば、

    品質を想像する|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/11/08
  • 設計が役に立つ理由|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    一発勝負のイベントごとなどで、何かしら予期せぬ出来事に出くわしたときにも、慌てることなく臨機応変に正しい対応を選んで実行することができるかどうかを左右するものは何か? それは外でもない。 事前の設計と準備だ。 何ができればよいかを知っているリアルタイムで進行するさまざまなイベントごとで、監督やファシリテーターとしての役割を担っているとき。 多くの場合、予期せぬ出来事に際して焦ってしまうのは、突然目の前に現れた想定外の事柄に、その先、どうすればよいかの指針が見当たらなかったりするときだろう。 状況が予期せぬ方向に変わってしまった際、あらかじめ想定していた段取りが役に立ちそうもないことに気づいた場合にプランBが用意されてれば良いが、そううまくいくことは滅多にない。用意されたプランBが有効だとしたら、それはやはりその状況になりうることも予想できていたということだ。まったく想定外の出来事が起きてし

    設計が役に立つ理由|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/11/03
  • ニック・ランドと新反動主義/木澤佐登志|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    未来への希望がゼロとなった状態を見通す、どこまでもダークでホラーな思想。 それなのに何故だろう。 暗い見通しを表現したものをとにかく好む傾向が僕にはある。 小説でも、音楽でも、映画でも、絵画でも、そして、こうした思想書でも。特にイギリス発のダークな作品はジャンルに関わらず、ずっーと以前から好きだ。 その意味で、このもとても良かった。 木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義』。 ペイパル創業者にして、Youtubeをはじめ、LinkedIn、Airbnb、 Space X、 Tesla Motorsといった錚々たる企業への投資を行う投資家であり、トランプ支援者であるピーター・ティールのリバタリアン的思想、暗黒啓蒙という思想の源泉となる思想を展開したカーティス・ヤーヴィン、そして、タイトルにもなっている加速主義的思想の父ともされるニック・ランドという、未来にシンギュラリティ的な暗い特異点を

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    gitanez 2019/10/29
  • 判断力の根っこ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    仕事をする上で大事な能力のひとつは判断力だと思う。 異なる選択肢が2つ以上ある場合、何を選んで仕事をその先の段階に進めていくか。はたまた目の前にある作業の結果を良しとしてそのまま進めるか、良くないとして修正に戻すか。 何かをつくりだす仕事は当然として、その他たいていの仕事のなかには、こうした「判断」の場面が日常的に何度も発生する。 判断基準があらかじめ明確になっていて、それに照らし合わせて判断すればよいことももちろん数多くあるだろうが、それと同じくらい基準は明確になっていないなかでその場で判断が委ねられる場合もあるだろう。 この後者の判断がどの程度、スムーズに、スピーディーに、ストレスなく、適切にできるかどうか。 そういう意味での判断力が仕事をする上で大事な力だと思う。 自分のことを判断するでは、どうしたら、その判断力はつくのか? それがすべてとはいえないが、判断力が弱い人は、自分がどうい

    判断力の根っこ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/10/23
  • 屍者の帝国/伊藤計劃×円城塔|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    死んだ人間の身体を再利用しそれなりの仕事はできるよう、疑似霊素をインストールする。 100年前、18世紀の終わりまで、人間の肉体は死んだら黙示録の日まで甦る事はないとされていた。しかしいまは、そうではない。死後も死者は色々と忙しい。と、ジョン・H・ワトソンが語る19世期末のロンドンで、物語ははじまる。 ロンドン大学で医学を学ぶワトソンは、卒業を間近にしたある日、屍体に疑似霊素がインストールされ、動く死者になる瞬間をはじめて目にすることになる。 その施術を行なったのは、ワトソンの指導教官であるジャック・セワードと、その恩師であるエイブラハム・ヴァン・ヘルシング。 死者が甦る瞬間に立ち会った後、ワトソンは、ヘルシング教授とセワード教授の2人に連れられて、多くの屍体たちが乗合馬車の御者として働くロンドンの街を生者が御者の馬車に乗って移動し、モンタギュー街で探偵をしている弟のいるMという男に会い、

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    gitanez 2019/10/18
  • 花のノートルダム/ジャン・ジュネ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    クリエイティブ。 その言葉が視覚表現偏重にあるのは、どうにも気にくわない。 特に、言葉で表現された小説や詩などが置き去りになっている傾向は、クリエイティブの言葉を深みのないものにしてしまうようにも思える。 視覚表現のように、それほど時間的な労力や思考をするという労力をかけずに済むものに対して、書かれたものを読むという作業を伴う言語表現芸術はなるほど時間も思考コストもかかる。 けれど、だからといって、それらをそれだけの理由で鑑賞の対象から除外して、コストのかからないものにばかり逃げる怠惰さによって、言語表現芸術がクリエイティブという領域の外へと忘れ去られる事態はなんとも馬鹿げていると思う。 いまは拡大解釈されてしまって意味がよくわからなくなってしまっているが、そもそもリテラシーとは読み書きの能力を指す言葉だ。けれど、読み書き能力が乏しく、そこに時間も労力もかけられない人が平気でリテラシーを語

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    gitanez 2019/10/15
  • 英雄視しない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    週末、岸田劉生を観たこともあって、明治期の知識人のことについて考えてみたくなった。 明治期の知識人たちの現代人とは比べものにならない知への欲望、自己研鑽の徹底について、もうすこしちゃんと知った上で、考えてみたくなったからだ。 それで、いまこそ、そのタイミングと思い、1年くらい前に買っておいた夏目漱石の『文学論』を読みはじめた。 青年の学生につぐすると、「序」にさっそくこんな一文を見つけた。 青年の学生につぐ。春秋に富めるうちは自己が専門の学業において何者をか貢献せんとする前、先づ全般に通ずるの必要ありとし、古今上下数千年の書籍を読破せんと企づる事あり。かくの如くせば白頭に至るも遂に全般に通ずるの期はあるべからず。余の如きものは未だに英文学の全体に通ぜず。今より2、30年の後に至るも依然として通ぜざるべしと思う。2年間のロンドン留学をしていた漱石が最初の1年間をあらゆる英文学作品を読破しよう

    英雄視しない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/10/09
  • 没後90年記念 岸田劉生展@東京ステーションギャラリー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    学び、自己鍛錬に関しては、昔の人にはかなわない。 それにくらべれば、今の僕らの学びに対する姿勢など、ないにも等しいと自己嫌悪的に思えるくらい、たとえば、明治期を生きた人たちの当時の学びへの姿勢をみるとその覚悟と実際の学びの結果の強さを感じる。 これは当にもうずっと前から事あるごとに感じていたことで、だからこそ、なんとかすこしでもそれに近づこうと学びは怠らないようには日々過ごしているつもりだ。 だが、それが「つもりでしかないかも」と思えたのは、昨日も東京ステーションギャラリーで行われている「没後90年記念 岸田劉生展」での岸田劉生の「絵を描く」ということへの取り組み、その結果を目の当たりにして、昔の人々の学びの姿勢の強度をあらためて感じたからだ。 38歳という若くして死ぬことになる長くはない人生のなかで、岸田劉生という人がみずからの身体を蝕む病と付き合いながらも、絵画というものに対して、実

    没後90年記念 岸田劉生展@東京ステーションギャラリー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/10/09
  • 怪物的なものを愛でて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    Goodとは何か、Truthとは何か。 何が正しいとか、何が当のことだとか、というのは、どうやって決められると思うのか。 そして、それを決める必要はどこにあると思っているのか。どういう想定で、そうした行動の指針になるような価値観が必要だと考えているのか。 とかく、そうした固定した価値観を置きたがる傾向が世の中全般にあると思う。 だが、それが当にどういう想定で必要なのかを検討せずに、「それがないから行動ができない」とか、「それがないからこの悪い状況が生まれている」とか、といった主張を何の分析も反省もないまま、感覚的に発する人が多いのはしょうしょう気持ちが悪い。 と同時に、同じくらい気持ち悪いのが「表現の自由」への主張なのだけれど、それが気持ち悪く思えるのは、先の正しさや良い悪いということにひとつの規範を求めるものとは真逆だと思えることが同時に主張されているように感じられるからだ。 一方で

    怪物的なものを愛でて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi