新田義重の四男・義季(新田義兼の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の四郎太郎頼有に与え、世良田郷は次子頼氏に継承させた[注釈 1]。頼氏は世良田弥四郎を称し、世良田氏の名を興した。義季は禅寺長楽寺を建立したという。 義季・頼氏父子は世良田近辺の所領の開発を進め、世良田氏は新田一族中の有力者として台頭する。本宗家の新田政義が幕府の禁忌に触れて新田氏の惣領職を奪われると、岩松氏とともに世良田頼氏が惣領職を分担するに至った。頼氏は幕府に重きをなしたが、1272年に失脚して佐渡に流された。 長楽寺も北条得宗家に奪われて、皮肉にもその支援によって関東十刹(鎌倉十刹)に数えられる繁栄を遂げることになる(北条氏滅亡後に新田一族が奪還する)。 頼氏のあとは嫡男の教氏、その子・家時と継承された。 鎌倉時代末の争乱が始ま