人によっていろいろ勘違いしていたことというのがあるようで、わたしは高校生の頃、夏目漱石の「三四郎」を柔道の姿三四郎を書いた小説と勘違いしていた。 「三四郎」は、熊本から上京する三四郎の、汽車の車中のシーンから始まる。 “これから東京で講道館に入り、柔道で大活躍するのだなあ”などとワクワクしながら読み始めたのだが、東京へ着いてからの三四郎はどこかを訪れたり、訪れられたり、人とあれこれ会話を交わすばかりで、いつまでたっても柔道を始めない。 小説の半分頃にさしかかっても、柔道の柔の字すら出てこないのだ。“嘉納治五郎先生はいつ登場するのであろうか”などと、いささか困惑した。 どうやらこれは姿三四郎とは無関係の小説らしい、と気づいたのは巻も三分の二あたりまで来てからであった。何か、取り返しのつかないことをしてしまった気になったものだ。 あのときの悔しさは今でも忘れられない。ってほどでもない。 友達の