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ブックマーク / mizunohosi.jugem.jp (13)

  • ブログで文章能力が上がると言う錯覚 | Blog向上委員会

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    hatayasan
    hatayasan 2009/05/15
    「何かを見て、何かを聞いて、何かを感じた際にアウトプットする目的でブログを書いているほうが遥かに有意義だ」
  • Blog向上委員会 | 感情のある文章

    先日、「あなたの書く文章には感情が無い」と言われた。書かれていることすべてが表面的で、全体的に薄いと。感情のある文章とはなんだろうか、と考えた。私の思うこと、考えたこと、喜怒哀楽、それらを「言葉」として表す。私は自分の感情を日ごろから押し殺しているのか、それとも感情の起伏のゆるい人間なのだろうか。考えに考え、悩みは悩んだ。そもそもテーマが「人間」だった。人を書く場合、人の感情なしにどうやって文章が書けるのか。書く文章すべてに自分の感情を込めるのも、それまた悪い。しかし、作文として、さらに言うなら自分のブログ上で書くのだから好きなように書いたらいい、とも思える。むしろ上っ面だけなら誰にも読まれないし、誰も私のプライベート空間に足を踏み込めない。上っ面だけの、どこかで聞いたような台詞ばかり書き連ねる。それ前にも聞いたよ、なんて。 最近、インプット量が増えすぎて何も書けない状態に陥っている気

    hatayasan
    hatayasan 2008/05/21
    「見たもの、聞いたもの、触ったものに対してもっと自分を出してもいいんじゃないか。それらを人の目に見える形として表すために「文章」は存在するのだと。」
  • Blog向上委員会 | 文章に書き手は現れるのか

    コメントの多いブログの特徴テーマがはっきりしている。 その人が「見える」。 ブログペットを付けている(冗談)。 人とのコミュニケーションを主体にブログを運営している。 よく、記事の最後に疑問を投げかけている。 「読者層」がはっきりしている。誰に向かって書いているか。 人のブログに頻繁に書き込みしている。 実生活で交友関係が広い(リアルでもてる奴はネットでももてる)。 コメントの少ないブログの特徴その人が「見えない」。自分を出していない人。 ブログとある程度、距離を置いている。 文章が自己完結。 独り言が多い。 文章を書くことに主体が置かれている。 誰に向けて書かれているのか分からない。 人のブログに書き手自身が興味ない。 実生活で交友関係が狭い。 こうやって列挙していくと、上で書かれている理由のほとんどに当てはまる。かと言って

  • Blog向上委員会 | 閉鎖

    何だか最近、「書かされている」という意識があった。また同時に、「書くために読んでいる」という意識もあった。確かに文章を書くことは楽しい。だが、ブログ論のための文章でも無くてはいいのではないか、と思うようになった。閉鎖に伴い、多少惜しい気持ちもあるが、過去ログはすっぱりと消したいと思う。ここにこのブログが存在する限り、「書かなくては」と意味も無く迫られるのだ。さらに同じようにブログ論を読みつづけてしまう、という危惧もある。 いままで時間を取られすぎていた。このブログを考える時間が比較的多かった。その時間を別に当てたいと思った。結局、また新たにブログを作ることになるのだが、おそらくブログ論は書いていかないだろう。 このブログの閉鎖の最大の原因は「無駄を省く」ということ。WEB世界で自分が行なっている事を整理したかったという気持ちが強い。だから移転前のブログもすでに消してあるし、ゆくゆく

    hatayasan
    hatayasan 2006/08/03
    「「書かされている」という意識」に追いつめられるということ。
  • Blog向上委員会 | 簡単簡単って言うけれど

    ブログなんて簡単だよ、なんていうのはよく目にする。だけど、私たちブロガーが当たり前にしている簡単な事が出来ない人たちも居る。分からない人にモノを教えるということは、考えている以上に難しい。そして教える側も「どうしてこんな簡単な事が」とつい思ってしまっても無理はない。 ブログを開設した。しかし何を書けばいいか分からない。書き出したはいいが、繋げる文章が思い浮かばない。考えれば考えるほど、底なし沼のように思考は沈んでいく。沈んでしまった思考は明け方の起床と共に消え去ってしまった。あの時はあれほど更新する気があったのに、どこに行ってしまった更新意欲、探せどやっぱり見つからず。得てして更新する意欲は外に居る時ほどあるものなのだ、と一人納得させる自分。 話は飛んで。 書き手も読み手もブログの記事に完璧を求めてはいけない。向上心は大切だけど、振り回されてはいけない。主に私が……。 また飛ん

    hatayasan
    hatayasan 2006/07/31
    「分からない人にモノを教えるということは、考えている以上に難しい。」ネットに浸っているとリアルなコミュニケーションにかえって敷居を感じることがある
  • Blog向上委員会 | ブログの登場によって情報は探し難くなった

    誰もが簡単に作れるブログの登場によってロングテールは飛躍的に伸びたかも知れない。検索の仕方が悪いと言ってしまえばそれまでだけど、検索してもブログばかりが引っ掛かり、また、私自身もその対象の中に居ると思うと気軽に記事を書いていいものか、と頭を悩ませてしまうのだ。と言ったところで実際に頭を悩ませる事はなく、キーボードを打つ前に自己完結しているに過ぎないのだが……。 気軽に更新できてしまい、さらに記事単位で読まれるブログ。一旦、記事をアップしたらよほどの事でもなければ修正されないそれらの記事。小説を読んで面白かったと記事にすれば、そののタイトルで検索してきた訪問者に失礼ではないか、と思ってしまう。 ブログだけで自分の希望を全て賄おうとする事自体が間違っているのかも知れない。だからと言っていまさらWEB1.0時代に使われていたサイトを作る気もしない。おっと、WEB1.0と言う言葉は気にしない

    hatayasan
    hatayasan 2006/07/31
    「「1バイト単位で軽くするHP作り」が日々懐かしくて仕方がない」ブログへの移行によって、職人が芸を発揮する領域も移った、というのはあるかな
  • Blog向上委員会 | 無意味

    どこからか記事を引っ張って来て、それに感想を付けて記事にするブログの書き方。もしくは似たようなものとして読書感想文、映画の感想、ドラマなどなど。あとで読み返すために、今そのときを刻む思いで更新されるブログ。仮に読み返さなくても、少なくても私は読み返さないだろう、今を書き記していく事に意味はあるのかどうか。 無意味と題した今回の記事。このブログの存在。無意味な事は無駄なのか、いま無意味と思っていても将来、意味のあることに変わるかも知れない。ただ、そんな将来の漠然とした不確かな存在のためにブログを書きつづけるのか。 ブログ論、と世間で言われている文章を書いてきたが、ブログ論を書いて何になる、というのが今の私の現状。自分でも読み返さない、あとになって何も残らないブログ論に何の意味があるのか、そんな事を「また」思ってしまう。10代の、何でも興味を持っては手を出していたあの頃とは違って、将来、自

    hatayasan
    hatayasan 2006/07/28
    「無意味な事は無駄なのか、いま無意味と思っていても将来、意味のあることに変わるかも知れない。ただ、そんな将来の漠然とした不確かな存在のためにブログを書きつづけるのか。」
  • Blog向上委員会 | ブログを非公開にする

    ただ自分のためだけの場所。誰一人として他人には見せたくない、自分だけの日記。だったらネットの世界に置くな、というのはよく見かける反論。メモ帳にでも書いていればいいではないか、と私もつい最近まで非公開ブログを作る人に対して思っていた。 そんな私が非公開ブログを作ったわけ。ただ、自分の今の気持ちを風化させないため、記録しておきたいと切実に願ったから。人に見られなくてもいい、むしろ誰にも見せたくないことを書き綴った日記、今の私にはそれがある。ネットに上げなくても良かった。ただ、利便性を考えてネットという場所を選んだに過ぎない。 忘れないわけにはいかない。どんなに思い出深いことでも時間の経過とともに忘れ去っていく。だから残したい、自分のために。いま感じているこの気持ちをどこかに刻んでおきたい。 匿名なんだから公開しても良いじゃない、と思う人もいるかもしれない。私も思った。でも書かれている内

    hatayasan
    hatayasan 2006/06/15
    「ネットに公開するにはあまりにも無防備すぎる気がしたからブログを非公開にした。私のやっていることは矛盾を孕んでいるかも知れない。」情報を発信するならそれくらいの慎重さがあって然るべきとも思う
  • Blog向上委員会 | みんなが認める当たり前なんてない

    個人ブログに書かれる文章なんてその書き手の一主張であって、それが「常識」になったりはしない。人間はそれぞれ物事に対して「こう思う」という考えがあり、その根底にはそれぞれの価値観が存在する。その考えが強ければ強いほど反対意見は受け入れ難いし、自分の考えを一般の「常識」として捉えてしまいがちになる。 ときに断定的な書き方をし、「常識」や「当たり前」という言葉で自分の文章を包み、読み手に誤解を与えてしまう。読み手も一般のネットマナーや、例えばブログなら「トラックバック論」の共通認識を過剰に求めてしまっている気がしてならない。「マニュアル人間」に似た傾向がネットにもあるということだ。仮にそのブログで「こんなの当たり前でしょ」なんて文章を目にしても、それをあなたの「当たり前」にする必要なんてどこにも無い。ネットの文章なんてコーヒー片手に「ふーん」くらいの気持ちで読めばいい。それがブログ論なんて曖

    hatayasan
    hatayasan 2006/05/30
    「ブログで「こんなの当たり前でしょ」なんて文章を目にしても、それをあなたの「当たり前」にする必要なんてどこにも無い。それがブログ論なんて曖昧なものなら尚更なこと。」
  • Blog向上委員会 | 人様のブログにコメントを残しにくい理由

    まず一つのブログを、一つの記事と言ってもいい、真面目に読んでいない。すべて流し読みしていることだ。考えれば何か浮かんできそうなものだが、何かが浮かんでくる前に「ふーん」と軽く口にし、満足してしまう。 さらにはコメントを書く際に、このコメントによって誤読される恐れはないだろうか、私が誤読している可能性はないだろうか、とつい考えてしまう。こんな面倒なことならばコメントなんて書かなくていいや、と消極的になってしまう。 出会いは別れの始めである。 ブログの開設はそのブログの閉鎖の始まりを意味する。生まれた瞬間に死が間違いなく訪れるように。このブログだっていつか閉鎖するときが必ず訪れる。いつかネットから失われるのだ。それが明日かもしれないし、一年後かもしれない。私という個人の人間が存在していた唯一の居場所が失われる。ブログを開設していた頃に人様のブログにどれ程のコメントを残しただろう、ど

    hatayasan
    hatayasan 2006/05/19
    「コメントとTB数が増えれば増えるほど、その綱は太く長く、断ち切るときにきっと勇気とそれなりの後ろめたさを感じることだろう。」
  • Blog向上委員会 | コミュニケーションをとりたくなるブログ

    ただ、ブログ論のようなものはあまりコミュニケーションに発展しないのかもしれない。と言うのも、ブログ論は実体がないし、それぞれ考え方も違うし、そもそも書いている人の人となりすら分からないだろう。ネットに放り出された記事は私の手を離れ、一瞬の輝きとともに拡散されてしまう。その一瞬の輝きをもたらせてくれるのが、いつも取り上げてくれるニュースサイトだったり、ごく稀だが個人ブログに私の記事が引っ張られ、そこに新たな記事を紡がれることなのだ。 話は変わって。そもそも日記は自分をさらけ出す行為である。ブログでは自分をさらけ出して他人に興味を持ってもらう。だけど、自分を前面に押し出したブログに誰が興味を持ってくれるだろうか。むしろ、一枚壁をはさんでちらちらと覗けるくらいの方が興味を持ってもらえるのでは、なんて考えてしまった。 確かに自分の発した何かに対する反応を読むことは楽しい。日記を書いていて見

    hatayasan
    hatayasan 2006/05/15
    「共感を呼び起こすのだ。だからこそ、そのとき感じたことをそのまま記せ。多くの人を共鳴させるのだ。必要になる普遍的な認識とともに、ゼロからも生み出すのだ。そしてあなただけの物語に読者を引き込め。」
  • Blog向上委員会 | 誰のためにブログを作っていますか。

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    hatayasan
    hatayasan 2006/05/02
    「アウトプットが記録されることに意味があるのではないかと思えるのだ。」
  • Blog向上委員会 | どこで満足するのか

    向上心という言葉を背に、空回りしている自分がいる。見えない何かが私を空回りさせている。ただ現実を見ればいい。今、目の前のことを一生懸命に取り組めばいい。 なぜ今を見ないで将来に夢を見るのか。私は自分に問いたい。いま私が立っているこの場所は、そんなにも不幸な立場なのか。ただ、足元に落ちている幸せに気づいていないだけではないか。 書ければそれだけでよかった。ブログは予期できないことが起こりうる。私の意識に関係なく突如、知ってしまった。それはまるで禁断の果実を思わせた。 果てを失った私の欲望。追い続けた、果てのない世界を。追っているつもりで全く進んでいないことに気づかないまま。次第に矛盾が生まれた。蜃気楼を思わせるその矛盾は、私の更新意欲を枯れさせた。 求めてしまう。完璧を、究極を、そして自ら破滅を招き入れる。いつになれば満足するのだ。コメントをもらえたら、一日100人訪れたら、

    hatayasan
    hatayasan 2006/04/13
    自分自身が「ここにいる」ことをつながりの中で確かめること。つながりの中で自分が変わっていくことを感じたとき、晴れやかな平穏が訪れる気がする
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