国家の起源に社会契約があるとする社会契約論は、統治権力の正統性を社会と国家の相互契約という契機に求めたが、権力の正統性を保障する自発的服従は実は社会そのものの作動のプロセスの中にあるのというのがフーコーのディシプリンであったと思う。フーコーの『監獄の誕生』で描かれていたのは王制のもとでの身体刑のスペクタルと近代におけるパノプティコンのエコノミーの対比である。前者の場合、死刑囚の身体に加えられる過剰な暴力は王の身体に取り集められた過剰な権力の影絵に他ならず、それを通して超コード化の働きをくっきりと浮かび上がらせていた。脱コード化によって王の首が落ち、権力が顔を失って非人称化されるとき、そこに集中されていた過剰な力は社会全域に拡散し、日常生活の隅々にまで浸透する権力と転化する(浅田彰『構造と力』)。非人称化された視線により自らを監視するというこの図式は、我々はここ(社会内)にいる限り権力から逃