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画伯と考え方に関するhonehonerockのブックマーク (4)

  • 最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学的超自我、写真と説明とか

    最近は土曜日が朝稽古、大荷物を背負って神社仏閣の業務写真を撮りつつ他の写真、夜ワークショップという流れが多いけれど、とにかくこの大荷物が半端ではない。 普段でも化粧ポーチやらやら荷物が多い人なのに、着替え一式に加えカメラ、パソコンまで持っていくと凄い重量。これをかついで三時間歩くというのはなかなか骨が折れる。 日曜日はグッと軽装備で二人で行動することが多いのだけれど、まったく楽しさが違う。 特にこのところ土曜日は都心オシャレエリア、日曜日は郊外や下町を巡ることが多いので、土日の温度差が激しい。 ダー氏と先日浅草を歩きながら「浅草はいいよねぇ、良い壁がたくさんある」とか話していたけれど、この会話が成り立つ関係が異様と言えば異様。良い壁ってなんだ。 綾瀬のタリーズで対談みたいに話が盛り上がった。録音しておけばよかった。 発達障害的なルールの絶対視と前提の不問、従わない人間は排除されて当然とい

    最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学的超自我、写真と説明とか
  • 静かにそっと軽い蓋をする

    「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすことのつづきのようなお話を少し。 先にも書きましたが、「世の中に強者と弱者がいる」というのではなく、強者弱者という枠組みでものごとを考えてしまう、というところに呪いがあります。 当のところ、何らかの尺度で比較すれば、確かに強い弱いというのはあるでしょう。でもそれがあるということと、強者弱者という枠組みが前景化していることとは、全然違います。 例えば、世の中には爪が丸っこい人と細長い人がいますが、「爪の丸いヤツと細長いヤツがいる、自分は丸いから選ばれた民だ!」とかいう人はいません。比べたり並べたりしようと思えば、世の中には無数の尺度がありますが、そこに価値判断が乗せられ意識の前景で支配するかどうかは別問題です。 芥川の鼻ではないですが、一度それが気になってしまうと、もうそこから目が離せなくなってしまう、という状態です。 もちろん、こうした文

    静かにそっと軽い蓋をする
  • 理解を求めてもどうしようもないんじゃないの、とか諦めて楽をすることとか

    「世の中には色々な人がいて、共存しなくてはいけないから、お互いに理解を深めていきましょう」的なことが言われることがある。 あるいは、ある受け入れがたい価値観や行いに対して「理解できない!」という反応がある。 こうした言い回しを眺めるたびに、何か釈然としない気持ちになる。そこで問題になっているのは「理解」なのかしらん。 世の中に色んな人がいて、ぶっ殺すわけにもいかん、というなら、確かになんとかやっていくしかないのだけれど、別に相手の価値観やら何やらを「理解」しなければいけないわけではない。よく分からない、理解できない、そのままで結構なので、とりあえずぶっ殺さなければいいはずだ。 しばしば指摘されるように、「理解できない!」という人は要するに「嫌い!」と言いたいだけなのだけれど、「嫌い!」と言ってしまうといかにもキカンボウっぽくて説得力がないし、「生理的に受け付けない!」とか言うと女叩き勢にフ

    理解を求めてもどうしようもないんじゃないの、とか諦めて楽をすることとか
  • リンクではなく画面キャプチャでシェアすること

    最近の若い人たちが、リンクではなく画面キャプチャで情報をシェアしようとする、という話を目にした。 若年世代の情報シェアはリンクではなくキャプチャで行われる? | スラド IT これは非常に面白い! このリンク先でも、色々な理由が推測されて議論されている。 キャプチャで共有するのがスマホ操作上実は簡単だから、会員制ページなどURL共有で見られないものがあるから、ニュースサイトなどだとリンク切れになることもあり、そもそもリンクが禁止されていたりする、環境による差異、等々。 もちろん、実際にキャプチャで共有している人たちにも色々いるだろうし、大方はそれほど深く考えずに慣習的にキャプチャを使っているのだろう。 それでもやはり、URLが来の同一性を(仕様で期待されたほどには)保てていない、ということがまずあるように思う。ニュースサイトのリンク切れはもちろん、一つのURLの中で何を特に指示したいのか

    リンクではなく画面キャプチャでシェアすること
    honehonerock
    honehonerock 2015/10/07
    スクショが記念撮影をみんなに見せる的な体験共有である、かも。というお話。なるほど。
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