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ブックマーク / yoshikogahaku.relove.org (8)

  • 正義の蕩尽

    何度も同じようなことばかり書いているけれど、「正義の蕩尽法」というのは現代的に非常にシビアな、わたしたちが向き合わないといけない問題だ。 あまりにも同じことばかり言っているので、先に関連してるお話を貼っておく。 正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代 理不尽に対する怒りと楽をしたい一心 人類の未来について心配したい欲 皆んな、びっくりするくらい「正しいことがしたい」。 そのこと自体は、責められるものでもない。誰だって「正しく」ありたい。問題は、この「正義欲」に多くの人が無自覚なことだ。それがある種の欲、自分を支えるために必要な営みの一つだとわからず、正義そのものが自分の外に頑然とあると感じてしまう。すると正義は身の丈を越えて、時々無制限に膨らみ暴走していく。 わたしたちはある程度「正しく」ないと生きていけないが、無限に「正しい」必要はない。そんなにべても太るだけだ。 正しくないと生

    正義の蕩尽
  • 正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代

    理不尽に対する怒りと楽をしたい一心やら色んなところで書いているけれど、正義と怒りというのは背中合わせのもので、何らかの「正しさ」(とその時その人だけは少なくとも信じているもの)なしに怒りというものはあり得ない。つきつめていくと、正義と必要悪というのはほとんど同じようなものだ。正義はなるべく少ない方が良いけれど、まったくなくしてしまうということもできないので、正義のうまい蕩尽法、正義の安全な燃やし方というのがキモになるかと思う。 非常に多くの人々は、びっくりするくらい「正しく」ありたい。 なんかこの例えを何度も何度も書いているような気がするけれど、シャーリーズ・セロン主演の映画『モンスター』の最後の方で、主人公が涙ながらに「わたしは・・わたしは良い人間なんだ・・」と言うところがある。この映画の主人公は連続殺人犯だから、常識的に考えて「良い人」ではない。映画のストーリーを追ってみれば、情状酌量

    正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代
    honehonerock
    honehonerock 2015/12/27
    原発事故のとき、わざわざ壊れた村を復活させなくてもと言った人に誰かが、そういう村のお年寄りとかはその土地に自生してる植物みたいなもので、さこじゃないと死んでしまうんだよって言ってた思い出したな……
  • 静かにそっと軽い蓋をする

    「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすことのつづきのようなお話を少し。 先にも書きましたが、「世の中に強者と弱者がいる」というのではなく、強者弱者という枠組みでものごとを考えてしまう、というところに呪いがあります。 当のところ、何らかの尺度で比較すれば、確かに強い弱いというのはあるでしょう。でもそれがあるということと、強者弱者という枠組みが前景化していることとは、全然違います。 例えば、世の中には爪が丸っこい人と細長い人がいますが、「爪の丸いヤツと細長いヤツがいる、自分は丸いから選ばれた民だ!」とかいう人はいません。比べたり並べたりしようと思えば、世の中には無数の尺度がありますが、そこに価値判断が乗せられ意識の前景で支配するかどうかは別問題です。 芥川の鼻ではないですが、一度それが気になってしまうと、もうそこから目が離せなくなってしまう、という状態です。 もちろん、こうした文

    静かにそっと軽い蓋をする
  • 「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすこと

    「弱いヤツは勝手に死ね」という言説を指摘する、こんなTweetがありました。 例の画像はクソだが、海外で「レイシズム」と報じられていると聞くと、海をまたげば誤解も生じるものだなと。あれはレイシズムとは遠く、「弱者は国家や社会に助けを求めず大人しく死ね」という一種の実力主義の延長ですよ。同胞が外国で人質になっても自己責任で済ませる邦を舐めてもらっては困る。 — ystk (@lawkus) 2015, 10月 15 まぁ確かにそういう流れ、そういう類の言説というのはあるかと思います。 で、以下はこの発言の主の意図とはあまり関係なく、わたしの勝手に連想したお話です。 そう言われてこの画像を眺めてみて、「なんやこのチビのオッサン、ほならウチと相撲でもとって負けたらお前弱いから死ねや!」などと直情的な感想を持ってしまったのですが、落ち着いて考えてみると、「(要するに)弱者は勝手に死ね」という言説

    「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすこと
    honehonerock
    honehonerock 2015/10/19
    非寛容であること、馬鹿であること、は弱いことでもある。我々はそれを許すことができるのか。弱者強者が一つの軸で測れないように、許せる者を許していくしかないんだろう。その多寡がまた弱き者を生むとしても。
  • 理解を求めてもどうしようもないんじゃないの、とか諦めて楽をすることとか

    「世の中には色々な人がいて、共存しなくてはいけないから、お互いに理解を深めていきましょう」的なことが言われることがある。 あるいは、ある受け入れがたい価値観や行いに対して「理解できない!」という反応がある。 こうした言い回しを眺めるたびに、何か釈然としない気持ちになる。そこで問題になっているのは「理解」なのかしらん。 世の中に色んな人がいて、ぶっ殺すわけにもいかん、というなら、確かになんとかやっていくしかないのだけれど、別に相手の価値観やら何やらを「理解」しなければいけないわけではない。よく分からない、理解できない、そのままで結構なので、とりあえずぶっ殺さなければいいはずだ。 しばしば指摘されるように、「理解できない!」という人は要するに「嫌い!」と言いたいだけなのだけれど、「嫌い!」と言ってしまうといかにもキカンボウっぽくて説得力がないし、「生理的に受け付けない!」とか言うと女叩き勢にフ

    理解を求めてもどうしようもないんじゃないの、とか諦めて楽をすることとか
  • リンクではなく画面キャプチャでシェアすること

    最近の若い人たちが、リンクではなく画面キャプチャで情報をシェアしようとする、という話を目にした。 若年世代の情報シェアはリンクではなくキャプチャで行われる? | スラド IT これは非常に面白い! このリンク先でも、色々な理由が推測されて議論されている。 キャプチャで共有するのがスマホ操作上実は簡単だから、会員制ページなどURL共有で見られないものがあるから、ニュースサイトなどだとリンク切れになることもあり、そもそもリンクが禁止されていたりする、環境による差異、等々。 もちろん、実際にキャプチャで共有している人たちにも色々いるだろうし、大方はそれほど深く考えずに慣習的にキャプチャを使っているのだろう。 それでもやはり、URLが来の同一性を(仕様で期待されたほどには)保てていない、ということがまずあるように思う。ニュースサイトのリンク切れはもちろん、一つのURLの中で何を特に指示したいのか

    リンクではなく画面キャプチャでシェアすること
    honehonerock
    honehonerock 2015/10/07
    スクショが記念撮影をみんなに見せる的な体験共有である、かも。というお話。なるほど。
  • 現フランス国王はハゲである

    大学一回生の時、あるゼミ、というかはっきり言えば忘れもしない冨田恭彦先生の教養向けゼミに出席していた時、「検証可能性を明示できない言明は無意味である」という分析哲学系のお話をするのに、「現フランス国王はハゲである」という、確かラッセルか誰かの例を出した。 その時、同じ一回生の別の学生が、きょとんとして「ハゲなんですか?」とボケをかましてくれた。 これには冨田先生も苦笑い。 ウチも若かったので、内心「こいつアホか!」と思ったのだけれど、今思うとこの状況はなかなか味わい深い。 念の為にクソ無粋なことを言えば、現フランス国王なんてものはいないので、それがハゲとかハゲじゃないとかそんな言明は真偽以前に意味がないッスよ、みたいな話をしたかった訳だけれど(当はそれで話は終わらないのだけれど)、この学生は要点が掴めず、「フランスの王様ってハゲてるのかなぁ?」とポワーンとしたことを考えていた訳だ。 でも

    現フランス国王はハゲである
    honehonerock
    honehonerock 2015/09/27
    この話は分かった!フランスに国王はいない!
  • メレ子さん、FUGU、徳山村、まなざし、誰か

    honehonerock
    honehonerock 2015/09/24
    眼差しの話を読むと、どうにも観測者効果が思い浮かぶ。電子は「観測されたから影響を受ける」とも言えるんだけど、「観測行為から逃げる存在」でもある。ここに「逃げる」を見る我々の「目」を…ちゃうな。うーん。
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