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ブックマーク / hajic.hatenadiary.org (4)

  • はじめてのC お試し版 - after the Rain - -エロゲはなぜ神に近づくのか

    萌え理論Blogさん 4/22付け 「泣きゲにおける原罪としてのヒロイン」を読んで。 http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060422/p4 先日の「おたく神学」とも密接に絡む話なのですが、エロゲーを含む近年の日のおたく作品たちは、どういうわけか仏教化せずに、むしろ西洋の神、及びその存在を証明するために生み出された理論に近づいていっているように思えます。もちろん、味付けとして神道関係者・仏教関係者を登場させる物語はしばしば見受けられますが、その質的なところでは間違いなく神学に近い。エロゲーはある意味でおたく作品を最も先鋭的に代表している(だってこんなのは日にしか、そして我々の中心にしか存在しないし、できない)ものだと思いますから、ひとまずエロゲはなぜ、という題で考えてみましょう*1。 ここでは「エロゲーは肉欲を扱うが故に神学化せざるを得ない」という理屈を

    はじめてのC お試し版 - after the Rain - -エロゲはなぜ神に近づくのか
  •  彼らの感想 - はじめてのC お試し版

    Amazon.comにて『GUNSLINGER GIRL』の読者コメント(単行1〜3巻分)を読む。国内Amazon.jpで少なからぬ数を占める「ペドフィリア嗜好が酷く吐き気がする」という手の投稿が見受けられないのは興味深い。言うまでもなくその傾向について指摘している投稿は数点存在するため、彼らは少なくともそれに自覚的ではある。ただ彼らにとってあの物語の持つ設定(premise)は、取り立ててヒステリックになるほどのものではないらしい。あるいは、ジョゼとヘンリエッタの関係がしばしば「父娘」に例えられるところから察するに、彼ら(アメリカンおたくたち)は意外と健全なのかもしれない。彼らにとって二人はあくまでもアサシンとハンドラーであり、けして紫の上と光源氏ではないようにも思える。現実にはそれなり以上に陰惨な現実を抱える米国の読者が、そのような読み方をし、比較的のどかな日の読者がしばしばヒステ

     彼らの感想 - はじめてのC お試し版
    hyakdaivsgm
    hyakdaivsgm 2006/04/19
    現実にはそれなり以上に~のくだり
  •  悲しいお話 - はじめてのC お試し版

    「我々にとっての物語の定義とは何か」に関しては既にあちこちで考察がなされている上に、今ひとつ焦点がぼやけているように思えるので、物語に結末を与えるという行為にまつわる問題について。”結末”の姿を単純化するため例えばドラゴンクエストをに代表される典型的なRPG系のストーリーについて考えてみると、その構造は「主人公が魔王をやっつけたことで世界は幸せになりました」という具合。さてここにはいかにも明確な結末が与えられていて、何かといえば明白な幸せの獲得である。物語はその世界の幸せの獲得によって結末をむかえる。ゆえにこの文脈で考えるなら、当初(明かであろうと、隠蔽されていようと)物語内部に存在する不幸の根が深ければ深いほど、そこに結末を与えることは難しいということになる。 困ったことに幸せとはしばしば主観的なものであって、これを普遍的客観的に証明することは難しい。ところが不幸というものはどういうわけ

     悲しいお話 - はじめてのC お試し版
  •  マブラブに思うⅡ - はじめてのC お試し版

    『君が望む永遠』の悲劇は愛情と憐憫を取り違えたところにあり、我々おたく少年たちの想像力過多と、にもかかわらずの他者性の欠如がその要因である。それは80年代から続く少年誌ラブコメの系譜のある側面での終着点であって、だからこそ「あの状況選択」は間違いであることを明確にした。すなわち「彼女を切ったら彼女は悲しむだろう」という不遜極まりない主人公=読者の思い上がりは、ラブという物語ジャンルのうわべを滑る言葉とはほど遠いものであって、結局あんな歴史的結末にしかたどり着けなかったことこそが、何よりの証拠としてそれを我々に語りかける。 その高慢。当に傷つくのは誰かを見つめようとしない臆病、それを受け入れる勇気の欠如、そして”彼女”という独立した他者存在(理解できないものとしてのあなた)の完全無視*1、そう言ったものをコメディという言葉で誤魔化していたラブ・コメは、その後半を削除するだけで簡単に破綻する

     マブラブに思うⅡ - はじめてのC お試し版
    hyakdaivsgm
    hyakdaivsgm 2006/03/09
    実質君望の論考
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