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blogとphilosophyに関するhyougenのブックマーク (4)

  • ララビアータ:田島正樹(哲学者)

    山形新聞への投稿 「高名な楽人はこう歌ったが、オデュッセウスは打ち萎れて、瞼にあふれる涙は頬を濡らした」 (『オデュッセイア』第8歌) 10年に及ぶトロヤ戦争に勝利したのち、ギリシア方の司令官の一人オデュッセウスは、故郷イタケーに向けて帰路に就くが、さらに10年にわたって流浪する運命にあった。その最後の流浪地がパイアケス人の国である。引用は、その宮殿にもてなされた彼の前で、吟遊詩人がトロヤ戦争のことを歌い、それに聞き入った彼が思わず落涙する場面である。 面白いのは、ここで歌われているのがオデユッセウス自身の体験してきた冒険だということだ。ここには、英雄の偉業を詩人が歌うというギリシア人の根経験が、くっきりと刻まれているばかりではない。当の主人公が、それを聴くことで深い感慨を催す点に、ギリシア人にとっての叙事詩の意義が示されているのだ。時とともに風化し、移り過ぎてゆく儚い人生を、ただ流れる

  • http://homepage3.nifty.com/thinkers/

  • 宇波彰現代哲学研究所

    われわれは望む、望まぬに係わらず、日という国に生まれ、日語という言語を母語とし、日国民として生きていくことを担った存在者である。この当然の事柄は、必然的に日という国の根底に位置するある一つのレジームと、肯定するにしろ否定するにしろ、あるいは、賞賛するにしろ嫌悪するにしろ、向き合わざるを得ない状況の中にいることを示している。そのレジームとは天皇制である。天皇制は一般的には確固として不変的なレジームであると思われているが、実際には幾重にもベールに包まれ、その実態を覆い隠そうという何らかの意志を持っているようにさえ感じられる捉えどころのない不可思議なレジームである。 子安宣邦氏は、最新書『天皇論 「象徴」と絶対的保守主義』(以後、サブタイトルは省略する) の中で、この謎に満ちたレジームと論争的に (polémique) 対峙している。論争的であるのは、象徴という覆いによって隠された不鮮明

  • だらだら日記

    なんと岡太郎はパリであのコジェーヴのヘーゲル精神現象学の講義に参加していたというのだ。 コジェーヴの思想は「ヘーゲル読解入門」として訳されているが、歴史の終わりには弁証法は正と反が止揚せずに、矛盾が矛盾のまま対立し引き裂かれた状態になると言ってよかろう。 バタイユにも影響を与えたこの解釈を太郎が知っていて、あの対極主義を唱えたのではないか、というのがこの展覧会の主張の一つだ。 川崎市岡太郎美術館「岡太郎の絵画」だ。 現存する太郎のもっとも古い絵画、慶応義塾の13歳のときの「敗惨の嘆き」から18-29歳のパリ留学時代の影響を受けた芸術家たちの作品、万博の時代を経て建築へ、そして太郎千恵蔵という人とのコラボレートと大回顧展だ。カタログをみると後期は横尾忠則とのコラボレートがあるようだ。 さて画家の涙とは具体的にはパリ留学時代に二回涙したことがあると、太郎自身エッセイ、絵の前で泣

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