どうもはじめまして。 ヨーロッパ企画という劇団で、お芝居をやっております、上田誠といいます。 ヨーロッパ企画という名前ですが、拠点は京都にあります。 拠点というか、活動の中心がもう、がっつり京都ですね。 あと、AVの制作会社みたいな名前ですが、劇団です。 10人ぐらいで、群像劇をワイワイやっているような感じです。 たとえば、マッサージ屋さんとか散髪屋さんとかで、 「お仕事なにされてるんですか?」みたいに聞かれたときに、 「作家です」と答えるのが、なんとなく気後れしてしまって、 かといって、嘘をつくのも、はばかられるので、 そんなときは、「書く仕事です」と、どうとでも取れるような答え方で、 のらりくらりと、やりすごすようにしているのですが、
2011年09月25日 終末以降。 整理せずに一気に書く。論文ではない。雑記。 「奥様お尻をどうぞ」を無事閉幕し、「ケラリーノ・サンドロヴィッチ・ミューヂック・アワー#004」を終了したとたん、怒涛のように、やりきれないことが次々と襲い掛かってきた。 多くは大人の事情でここには書けない。 「やりきれない」といっても、致命傷という程のことではなく、であるなら、実はやりきれなくなんかない。 ひとつには、譲り受けたばかりの猫が病気になった。 数日間、高熱が続き、あれほど「みゃー」だの「にゃん」だのよく鳴いていたのに、ほとんど声を出さなくなった。原因は定かではないが、なんらかの感染症の疑いが強い、と医者は言い、予防接種は受けたものの、完全に防ぎきれるとは限らないのだ、と彼は続けるから、素人としては「はあそうですか」と言葉少なに頷くしかない。 なにしろ生まれて二ヶ月の子猫だ。高熱が何日も続くだけで、
黒田喜夫氏の詩「ハンガリアの笑い」の、1956年の「ハンガリア事件」から68年の「五月革命」に至るまでの経過について、この3回のブログで私の触れた文化と芸術の様相を、私の拙い文章ながら鵜飼さんといっしょに考えてみようと思ったのですが、それはとても無理なことであることに気付かされてしまいました。そこで私としては別の観点からこの時代の流れを観察してみることに方針を変えました。 私はあの「日本の68年」の頃を振り返ってみたのですが、それは確かにあの頃の「反体制の空気の中でも、あの“68年”という年はその前後の継続された時間の中でも、“切迫した息苦しさ”を感じさせられた記憶を呼び起こされました。 そこで居たたまらず、私は書棚の中から、ちくま文庫の高野慎三の『つげ義春1968』を取りだしてみたのです。そして、つげ義春のあの傑作「ねじ式」が1968年に、この本の著者高野慎三氏のすすめによって作られ、そ
西堂行人 (にしどう・こうじん) 演劇評論家。 近畿大学文芸学部芸術学科(演劇・芸能専攻)教員。 1954年10月東京生まれ。早稲田大学文学部(演劇専修)卒。同大学院中退。 HMP(ハイナー・ミュラー・プロジェクト)代表。日韓演劇交流センター・副会長。2004年から06年まで第二次「シアターアーツ」編集代表。 著書に、『演劇思想の冒険』(論創社/1987)『見ることの冒険』(れんが書房新社/1991)『小劇場は死滅したか』(れんが書房新社 /1996)『ハイナー・ミュラーと世界演劇』(論創社/1999)『ドラマティストの肖像~現代演劇の前衛たち』(れんが書房新社/2002)『韓国演劇への旅』(晩成書房)『演出家の仕事—六〇年代・アングラ・演劇革命』(日本演出者協会;れんが書房新社〔発売〕/2006)『現代演劇の条件』(晩成書房/2006)『劇的クロニクル—1979~2004劇評集』(論創社
本日、13時より劇場の入口のモニュメントの解体作業が始まりました。 晴天に恵まれ、桜の開花も順調です。 ずっと難波の町並みを見守り続けてきた、精華小学校の校章が取り外されました。 たくさんの方々が見守る中、どんどんと作業は進みます。 精華のロゴのデザインをしてくださいった、東學さんも駆けつけて下さいました。 門を支えていた一番の柱は、企画委員長の小堀氏とコーディネーターの丸井の手に。 全ての作業が終了し、取り外された校章は予想以上に大きく、ずっしりしていました。 精華は残り1日です。 ご参加頂いたみなさま、ありがとうございました。
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