顔回の暮らしぶりは極めて質素であったという。『論語』雍也篇などによれば、わずか一杯の飯と汁だけの食事をとり(「箪食瓢飲」「一箪の食一瓢の飲」[5])、狭くてみすぼらしい町に住んだ(「在陋巷」[6])という。 『論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べたことが記載されている。顔回は孔子から後継者として見なされていた。それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆した。 顔回が貧しく、食物を手に入れるのすら難しかったとき、欲のない顔回に「聖人の道に庶い」と評価し(先進第十一)[7]、「顔回は私を助けることはせず、ただ黙っているがしっかりと私を理解していると評価した(先進