豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、おいの関白秀次が邪魔になって切腹させた−。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明) 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付があ