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sfに関するinmymemoryのブックマーク (510)

  • 今読みたいSF100 2000年以降に刊行・復刊・文庫化されたSF/SF的小説100作 「紀伊國屋カルチャー・トリップ」第2期第3弾 : 紀伊國屋書店新宿本店

    SFという言葉が何を指すかと言えば、通常は「サイエンス・フィクション」の略ということになっております。しかし実は他にもいろいろな解釈があって、例えば1960年代には従来のSFの意味を拡張した「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」という言葉が提唱されたり、近年では「ストレンジ・フィクション」と解釈する動きがあったり、はたまたここ日では藤子不二雄による「すこし・ふしぎ」という珍しい解題もあったりします。SFというものが、長い歴史の中で多様なスタイルや内容を呑み込んで来たことの現れと言えるでしょう。 企画者が「最近なんだかSFが盛り上がっている気がするな」と感じたのは、国書刊行会からの「未来の文学」シリーズと、河出書房新社からの「奇想コレクション」シリーズが話題になり始めた2000年代中頃だったかと思います。単行形式での、今までのSF小説のイメージとは少し違った装丁に包まれたこれら

  • 銀の知識人たち(サンリオSF文庫の部屋)

    last update 2006.11.12 異装版あれこれ その3を追加。 青方偏移についての考察です。 2006.11.5 異装版に各追加分を加筆。 リストや表記の一部を改訂しました。 2006.10.4 残り1冊です。 「真のコンプリートの全貌」「サンリオSF文庫完全リスト」公開。 2006.9.28 真のコンプリートまでマジック2です。 もういい加減どうでもよくなってきました。 2006.8.31 「真のコンプリートへの道程」を追加 さあカウントダウンです(笑)。 2006.8.12 異装版あれこれ その2を追加。 もはやあら探しの領域です。 2006.7.29 異装版あれこれのサンリオ文庫の項を大幅改訂。 この項は検証が困難で正確かどうかはわかりません。 2006.7.22 異装版あれこれに「ラプソディ・イン・ブラック」を追加。 探せばあるものです。こういった推測はおもしろいです

  • ソノラマ文庫データベース : 銀の知識人たち

    1. モンスター伝説 ロバート・ブロックほか 仁賀克雄編・訳 2. 10月3日の目撃者 エイヴラム・ディヴィドスン 村上実子訳 3. 機械仕掛けの神

  • サンリオSF文庫データベース : 銀の知識人たち

  • 意識変容がテーマのSF映画、ギャラリー | WIRED VISION

    前の記事 iPhone 4問題:Appleの主張に他社が反発する理由 意識変容がテーマのSF映画、ギャラリー 2010年7月22日 カルチャー コメント: トラックバック (0) フィードカルチャー Scott Thil 画像は『インセプション』より クリストファー・ノーラン監督の新作『インセプション』は、意識の世界をテーマにしているという点で、ハリウッドには珍しいタイプの貴重な作品だ。覚醒した世界と非合理的な夢の世界の曖昧な境界についての思索的な探究が、エレガントな視覚効果と雷のような音楽と一緒になって、印象的な仕上がりになっている。 以下、刺激的な「思索的なSF作品」を紹介しよう。 『未来世紀ブラジル』 テリー・ギリアム監督のダークコメディ『未来世紀ブラジル』は、1985年に公開時されるやいなや、誰もが認める名作となった。 メディア、テロ、官僚主義、暴動などをテーマにして、カフカとオー

  • Je t'aime, je t'aime (1968) 監督:アラン・レネ : 映画評論家緊張日記

    監督:アラン・レネ 脚:ジャック・ステンベルク 音楽:クシシュトフ・ペンデレツキ 日仏学院のアラン・レネ全作上映にて。 30年間見たかった映画をついに見た! 大袈裟に聞こえるかもしれないが、この映画のことを最初に知ったのはSFマガジンの映画紹介のコーナー。そこで紹介されているのを見て観たい!と思ったのはたぶん中学生のころである。当時、ゴダールは『アルファヴィル』を、トリュフォーは『華氏451』を作った。なぜかヌーヴェルバーグでSFが流行っていたのである。しかるにわが最愛の監督だったレネの作だけはなぜか日公開されず、見る機会もないまま現在にいたったのである(今回見てわかったが、これ、FOXの製作だったんだね。おそらくそのせいで日の会社が買えなかったものと思われる)。それが、ついに! 自殺未遂をしたところを救われた主人公クロードは研究所で時間旅行の実験に志願する。四分前の過去に戻るはず

    Je t'aime, je t'aime (1968) 監督:アラン・レネ : 映画評論家緊張日記
  • 『グラックの卵』に見るユーモアとは - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    ラファティを読んだ勢いで手をつけたのが、買って積みっ放しだった『グラックの卵』。 矢野徹先生亡き今、翻訳SF界最大の巨星と呼んでも過言ではない浅倉久志氏が 自ら偏愛するユーモアSFを選りすぐったアンソロジーである。 刊行後1年経過したの後に、6ヶ月前に出たの話をするのもどうかとは思うが タイムリーさと無縁なのは毎度のことなので、特に気にせず紹介してみたい。 ・ボンド「見よ、かの巨鳥を!」 ―宇宙の果てから太陽系へ飛来する謎の物体。それはまぎれもなく巨大な鳥だった! 惹句とあらすじを聞くと完全なナンセンス小説だけれど、実際に読んでみると バカバカしい中にも緊迫感があり、普通にハラハラした話。 結局のところ、この作品の発想自体が「特撮怪獣映画」と同じなのだと思う。 ナンセンスな部分に目をつぶれば、破滅SFの佳作として十分楽しめる。 物理法則はさておき、でかい鳥が宇宙から飛んでくるという異常

    『グラックの卵』に見るユーモアとは - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 奇絶、猥褻、『ゴーレム100』! - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    ベスターの『ゴーレム100』を読了。うん、これは最高にイカしただ。 このいい感じのぐちゃぐちゃさ加減をどう説明したものか悩ましいが もしキャッチコピーをつけるなら、懐かしの横田順彌調を少しもじって 「奇絶、怪絶、また猥褻!」とでもしたいところ。 狂った描写と異様な言語感覚の中にも乾いたユーモアと冷徹な論理が 感じられる、破格の傑作と言ってよいだろう。 変幻自在の怪物ゴーレムに託したエロ・グロ・スカトロ趣味が作中を 縦横無人に跋扈しまくるものの、作者の視線にはどこか醒めたものが 感じられ、それが陰惨な描写をユーモラスな物に変換している。 メチャクチャ、ナンセンス、やりたい放題と思わせる内容をこれでもかと 詰め込みながら、一方でそれらにごくまともな科学的説明をつけてみたり 狂った乱交シーンの後に感動的な女性論をぶちあげてみたりと、はたして どこまで計算ずくなのか読めない胡散臭さが、また面白い

    奇絶、猥褻、『ゴーレム100』! - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 『虐殺器官』の存在意義 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『虐殺器官』。このタイトルのインパクトと、帯に書かれた大森望氏による派手な紹介文 「イーガンの近未来で『地獄の黙示録』と『モンティ・パイソン』が出会う」という部分が やたらと気になったので、読んでみた。 読後の感想を言えば、大森氏のあの惹き文句は嘘ではないが、適切とも言いかねる。 イーガンを引き合いに出すほどのぶっ飛んだ科学や難解な話はなく、エスピオナージュ的作風は むしろアレステア・レナルズやチャールズ・ストロスのものに近いだろう。 『地獄の黙示録』も『モンティ・パイソン』も引用されてはいるが、前者は類型としての引用であり 後者は作中の遊びとしての要素が目立ちすぎ、皮肉として成立していないうらみがある。 といっても、別にこの小説がつまらなかったというわけではない。 事前に予想していたほど抽象的な話ではなく、より生々しいテーマを直截的に描いた作品だった、 というだけのことである。 作を例

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  • グローブとボールをめぐる旅 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    かつて福武書店から刊行されていた『エンジン・サマー』が、扶桑社より 文庫となって復刊された。 いまやファンタジーの巨匠となったジョン・クロウリーの名を知らしめた 異世界ファンタジー風SFであり、青春ロードノベルの傑作だ。 訳者あとがきによると、作者にとってはこれが最後のSF作品となった そうだが、それがもったいないくらいの完成度を誇るメタSFでもある。 時は遥か未来、人類世界を壊滅させた「嵐」の後に生き残った人々が暮らす 「リトルベレア」という村で生まれた少年が、自らの生い立ちを語り始める。 かつては人は「天使」だったという。彼らは世界の全てを欲しがり、そして 全てを手に入れ、やがて全てを滅ぼした。 生き残った者は天使の遺物を隠し、あるいはそれらを破壊して故郷から去り、 やがて今のような人間となって「リトルベレア」を築いたと、少年は語る。 アメリカインディアンを思わせる村での暮らしぶり、ミ

    グローブとボールをめぐる旅 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『デス博士の島その他の物語』をはじめて読んだのはいつだったか、 今では覚えていない。 その後『20世紀SF』に収録されたのを読んだが、感想としては 地味なファンタジーだな、というくらいでしかなかった。 一見して非常にわかり易く書かれているので、こちらとしては書いてあるとおり 「小説の人物が現実に現れ、ちょっとした大人の秘密を垣間見せる話」だと 受け取っていた。これだけでは、べつに驚くような話ではない。 小説がうまいとか、叙情的だとかいう部分は今ひとつ感じず、 けっこうそっけなくてあっさりした話にしか見えなかったのだ。 今回『ケルベロス』を読み、『アメリカの七夜』を読み、『ショウガパン』を読んで 中短編でのウルフの曲者ぶりを思い知らされた。 さらに若島氏の「デス博士ノート」の中で少し気になるところがあったので、 今回はこれを手がかりに、「デス博士の島」を再び廻って見ようと思う。 (以下、若島

    『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ウルフ群島沖を漂流中~セトラーズ島再訪編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    さて、『デス博士の島その他の物語』。もちろん書の表題作である。 波と風に洗われる半島を舞台に描かれる、少年期の終わりの物語。 静かな日々の下で蠢く獣性、物語と現実が侵しあう世界の姿。 若島正氏のノートを参考にこの作品を読んだときの驚きと興奮、 見えている世界がガラリとその光景を変えていくときの感動は、 今でも鮮烈に覚えている。 その時の経験については、以前にこのBlogで書いたとおりだ。 小説を通じて感覚や意識の変容、さらには身体的な変化までを ここまで見事に、しかもこの紙数で書ききっているというのは、 やはり恐るべきことだと思う。 作中でタッキーのママはクスリでトリップしているが、この作品は 読書というものがクスリと同等か、それを超えるトリップなのだと 誇らしげに宣言しているようだ。 そして読書という行為はまさに、その世界への「トリップ(旅)」なわけである。 (ウルフ作品の多くに「旅

    ウルフ群島沖を漂流中~セトラーズ島再訪編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ウルフ群島沖を漂流中~アイランド博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    「あなたはまだどこかで怒ってるのね、心のずっと奥底で」 『アイランド博士の死』とは『デス博士』を構成する要素にさまざまな操作を加えて 生み出された「姉妹作」であり、『デス博士』と直接の関連は無いものの、テーマ上は 明らかに「続編」にあたる作品である。あらすじについて、以下にまとめてみた。 外科手術で脳を分断されたニコラス少年が送り込まれたのは、景色が囁きかけてくる 不思議な島だった。潮騒も樹の葉擦れも動物の鳴き声も、全て島の語りかける声となって 彼に届くのだ。 自らを「アイランド博士」と名乗るその島で、ニコラスは他の「患者」であるイグナシオや ダイアンと出会い、彼らの導きで島の当の姿を目の当たりにしてゆく。 しかしそんなニコラスを待ち受けていたのは、彼らもアイランド博士も決して語らなかった 絶望的なまでに残酷な「真実」であった・・・。 この物語の読後感を率直に言うと、とにかくやるせなくて

    ウルフ群島沖を漂流中~アイランド博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ウルフ群島を漂流中~死の島の博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『死の島の博士』を読了。姉妹、じゃなくて島医3部作中では 一番ストーリーラインがわかりやすく、深く突っ込まなくても 面白く読める作品だと思う。 ビジネスパートナーを殺害した罪で服役中の男がガンを患い、 その治療法が確立されるまで冷凍保存されることになった。 彼が目覚めたのは40年後。医療の発展でガンは治ったが 不死療法の確立した世界は、どこか奇妙な変貌を遂げていた。 やがて彼は懐かしい、そして懐かしい人々と再会する。 しかしそれらもまた、奇妙な姿へと変貌していたのだった…。 『アイランド博士の死』を怒れる=イカれる青春小説とすれば、 こちらはビジネスあり不倫ありの、ほろ苦い大人向けロマンスか。 あるいはネガティブ版『夏への扉』といった趣きもある。 『アイランド博士』とは対照的に、こっちはある程度の歳を 重ねている人のほうが、すんなり共感できる点が多いかも。 を人に見立てたり、不死と芸術

    ウルフ群島を漂流中~死の島の博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • アメリカの七夜を再訪する - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    へぇ~、これがSFマガジンに載ってから、もう1年以上経つのか。 なんだかずいぶんと長いこと取り憑かれているものだと思う。 忘れたころにこの作品のことを思い出し、そのたびに読み返すということを 今までずるずると続けてきたものだ。 まるでアーディスに取り憑かれたナダンのようなありさまである。 このたび単行となったことで、SFマガジンの2段組で細かい活字から ずいぶんと読みやすくなった事は、非常にうれしい変化だった。 どうせウルフを読むなら、できるだけ快適に読める形が望ましい。 そのほうが読者もリラックスして読むことができるし、新しい発見に 思い至るだけの余裕も生まれるかもしれないからである。 さて前述の効果かどうかはともかく、今回読み直した際にもいろいろと おもしろいことに気が付いた。 一番の注目は「ナダンがなぜアメリカに来たのか」という動機について。 ナダンがアメリカに来たのに「目的」があ

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  • 眼閃の奇跡 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    3回続けて読み直して、ようやくその凄さの一端が垣間見えた作品。 ウルフにはめずらしく、読者に見えるところでいろいろと説明をつけているし ラストも一応きちんとしているので、さらっと読んでもきっちり泣ける。 その一方、再読を重ねることによって物語の見え方がどんどん変わってくる またもや底の見えない作品でもあるのだ。 こういう凝りに凝った作品が書けたのは、むしろ兼業作家だった強みかも。 小説で家族を養うには、ウルフの作風はちょっとマニアックすぎる。 やっぱり「ゲイマンほどのお金持ち」になるのは、なかなか難しそうだ。 例によってあらすじの紹介。 盲目の少年ティブと狂った教育長パーカー、そして教育長の召し使い役で 学校の用務員だったというニッティ。 社会からはみ出したこの3人が、コンピュータとロボットに管理された ディストピア感に満ちたアメリカを旅していくというのが、この話の おおまかな筋である

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  • 『迷える巡礼』に迷ってみる - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    SFマガジン4月号掲載、ウルフの短編『迷える巡礼』を読了。 またも手記パターンで書かれた一人称の物語。書き手の存在を強く意識させると同時に 翻って読者自身をも強く意識させるスタイルである。(要するに、いつものウルフだ。) ある航海に参加する使命を帯びて過去へやってきた男。しかし彼が加わってしまったのは、 全く違う船の、全く違った航海だった・・・。 著名なギリシャ神話を元にしたストレートな冒険活劇にして悲劇なのだが、見方を変えれば そもそも出るべき物語をまちがえた登場人物が、いつのまにか物語の中に溶け込んでいき、 英雄たちの一員になりきってしまうという『アメリカの七夜』的な「変容譚」の味わいも感じられ、 読みやすい中にもウルフ流に捻った感じが楽しめる、なかなかの佳品になっている。 それにしても、『デス博士の島その他の物語』の背後にも感じられた「アルゴナウティカ」 という物語、ウルフの中ではか

    『迷える巡礼』に迷ってみる - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 葉と花の帝国 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    「地図」に続き、「《新しい太陽の書》読」掲載の「葉と花の帝国」を読む。 セヴェリアンがウルタン師から預かり、旅の間も持っていた「茶色の」に 収録されていた物語のひとつとされるのが、この「葉と花の帝国」である。 これも『新しい太陽の書』の別バージョンなのだが、とりわけユニークなのは この物語がかつての「新しい太陽」について書いている、という点だ。 植物の名を持つ賢者(セージ)のうちでも最高とされるタイムという人物が、 西への旅の途中でエンドウマメ(ピース)で遊ぶ少女と出会う。 彼女は賢者タイムが連れ去り、そして再び連れ帰ることを約束されている者だった。 二人はともに旅を続け、少女は西へ進むにつれて美しい娘へと成長していく。 やがて「東の国」の王都に着いた娘は、その国の王子と一夜限りの恋に落ちる。 東の国と西の国との戦争で父を奪われたという娘は、王と王子に平和を請い願うが それは聞き入れら

    葉と花の帝国 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 素晴らしき真鍮自動チェス機械 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    国書刊行会の『モーフィー時計の午前零時』所収、ジーン・ウルフ1977年の作品。 編者は若島正、訳者は柳下毅一郎というウルフ好きには鉄板の組み合わせである。 物語の舞台となるのは、かつての大戦争によって文明が退行した世界。 ドイツの片田舎と思われる辺鄙な村に、フリークの小男と香具師の乗る馬車がやってきた。 彼らは古代の遺産であり、いまや世界で唯一の稼動するコンピュータとなった全自動式のチェス機械を 持参しており、この機械は誰と指しても決して負けないという。 これに挑んで完敗を喫した大学教授のバウマイスターは、法外な値でコンピュータを買い取るが、 その中身は手のこんだイカサマ仕掛けだった。 落胆する教授に対し、機械を操っていた小男の「足萎えハンス」は、逆に香具師を騙そうと持ちかける。 酒場女のグレートヒェンを巻き込んだ計画はうまくいきそうに思われたが・・・。 文明の遺物とそれを操る流れ者、さら

    素晴らしき真鍮自動チェス機械 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号) - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    SFマガジン2010年1月号で、ウルフの「風来」を読む。 個人的には「デス博士の島その他の物語」「眼閃の奇跡」に連なるテーマを持つ作品であり、 そして両作品に勝るとも劣らない傑作であると感じた。 閉鎖的な社会の中で孤立していく少年と、いわゆるマレビトである「風来」の子との交流、 さらに唯一の肉親である祖母との絆を描いた小説で、これらの外面的な部分を読むだけでも 十分に感動できる作品だ。 しかし、なんといってもジーン・ウルフの作品。当然だが、これだけでおわりではない。 解説で柳下毅一郎氏が「ややもすると難解と言われることが多いウルフだが、瑞々しい 少年小説の書き手であることを忘れてはなるまい。」と書いているが、「だから作は シンプルな少年小説で、他の読み方はありません。」などとは一言も書いていない。 難解とは言わないにしても、携帯小説的な口当たりのいい読み方で終わらせてしまうのは あまりに

    ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号) - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-