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ブックマーク / dain.cocolog-nifty.com (79)

  • 文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

    患者と医者はすれ違う。たとえばこんな風に。 医者「いつ頃から、お酒をたくさん飲むようになったのですか?」 患者「夫が亡くなってからです」 医者「それは何年前のことですか」 患者は腹痛を訴えており、医者は彼女のアルコール摂取量が多いことに気づいている。医者も患者も、腹痛と飲酒量の関係性を疑っているが、それをどのように聞こう/語ろうとしているのかが異なっている。 医者は深酒をしていた期間を聞こうとする一方で、患者は、なぜ深酒をするようになったかを、自分の人生の物語として語ろうとしている。 夫が生きている間は飲まなかったとか、夫の死後は苦労が重なったといった話をさえぎり、医者は、最終的に知りたいことを聞き出せるだろう。だが、患者が語りたいことは残されたままだ。 彼女は、自分のたった一つの身体に起きた異変に戸惑い、恐れ、不安に感じている。痛みや苦しみに耐えながら、なぜそれが、よりにもよって自分の人

    文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』
  • 「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

    「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。 味覚というものは、べ物が体に入ってくる時に最初に感じるセンサーの役割になる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。 では、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。 さらに、昔からべ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。 書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、べるとは何かを探求したもの。 家系ラーメンがおいしい理由は、モルヒネと同じ 最も興味深かったのが、「油」の存在だ。料理に不可欠で、かつおいしくさせる油脂

    「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』
  • 今の中を生きるために歌がある『えーえんとくちから』

    歌がうれしいのは、過去でもなく、未来でもなく、いまの、この瞬間に自分を合わせてくれるから。 昔を後悔するとき、自分の何%かはその昔にいる。 将来を思い悩むとき、自分の何%かを将来に配分している。未来への心配事の大部分は実現しないし、過去の出来事は変えられないのに。つまり、変えることも実現することもない昨日と明日に、リソースを配分した結果、今日の自分がボヤけてしまう。 そこから自分を取り戻すために、歌が効く。 歌をよむ、なぞる、つぶやく、くちずさむ、その瞬間に集中することで、自分自身に焦点があわさる。車の運転に集中したり、皿洗いに専念したり、ひたすら畑仕事に没頭するのと同じ。わたしが詩を手にするのは、そういう機能を求めているから。 『えーえんとくちから』は、まさにこれ。 26歳で夭折した笹井宏之さんの詩集だ。透明度の高い、解放された空間をのぞき込むように、言葉と向き合える。その一句と「今の」

    今の中を生きるために歌がある『えーえんとくちから』
    ivory_rene
    ivory_rene 2020/07/13
    そうすてきですよねっと思うし、短歌は句じゃ…ない…とも
  • 意味が分かると『しびれる短歌』

    この短歌、あなたは、どう感じるだろうか? ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる 鈴木美紀子 同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくともは冷めきっているのが分かる。 「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。 放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。 夫婦はホラーだ。これなんかもそう。 湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう 横山ひろこ 風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。 この場合

    意味が分かると『しびれる短歌』
  • 検索する情報と、咀嚼する知識『人文学概論』

    世の中には、情報を得ると、知識を得るがあるが、これは後者だ。 情報と知識って、似たようなものに見えるが? 著者に言わせると、明確に区別する必要があるらしい。 情報は「判断を下したり起こしたりするために必要なもの」に過ぎないが、知識は「学問的な成果であって原理的に組織づけられた判断の体系」だという。情報は自分の外部にあるもので、体得され自己化されると知識になる、という構造だ。 を読むことを「インプットする」と言う人がいるが、喩えるなら、インプットするのが情報で、インストールするのが知識になるとも言える。あるいは、検索するときのキーワードは情報なら、何をキーにするかは知識になる。知識がないと、そもそも何を検索すればよいかすら分からないから。 情報としての「無知の知」 具体例で考えてみる。 たとえば、ソクラテスの「無知の知」について。 検索すればヒットする。ギリシャの哲学者ソクラテスは、知

    検索する情報と、咀嚼する知識『人文学概論』
  • 『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』という本を書いた

    心を揺さぶり、頭にガツンとらわせ、世界の解像度を上げるは、確かにある。 読前と読後で自分を一変させる、すごい(スゴ)だ。から得られた知は、行動を変え、習慣を変え、人生を変える。これホント、なぜならわたしの身に起きたことだから。そんな「人生を変える運命の一冊」は、実は何冊もある。 このブログは、そうしたを中心に紹介してきた。これに加え、どのように探し、どう読み、何を得て、どんな行動につなげたかをにした。タイトルはブログと同じ、『わたしが知らないスゴは、 きっとあなたが読んでいる』だ。 ここには、あなたにとっての「運命の一冊」を見つける方法を書いた。あなただけのスゴと出会うパーフェクトガイドだ。3行でまとめると、こんな感じ。 を探すのではなく、人を探す方法 お財布に優しく(ここ重要)、スゴに出会い、見合い、結婚する方法 (良書なのは分かってるのに、なかなか読めない)運命の

    『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』という本を書いた
  • 宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』

    極大の世界で「果てしない宇宙」というが、観測可能な宇宙には果てがある。それは、ここから1027m先になる。これより向こうは、観測できないため、あるとかないとか分からない。ゼロを並べるとこうだ。 1,000,000,000,000,000,000,000,000,000m いっぽう、極小の世界だと、人類の想像の限界のサイズになる。それは、10-35m)の「場」に満ちた世界になる。これより奥は、理論で説明できる範囲外となる。ゼロを並べるとこうだ。 100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 分の1m 「いま・ここ」から究極にまで遠ざかった場所から、限りなく近づいた世界まで、極大~極小を一冊にまとめたのが書だ。ページを開くと、宇宙の果てから出発し、1/10ずつスケールダウンしながら、近づいてゆく。 極大から極小への旅 最初は、すごいスピードだ

    宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』
  • 惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

    惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。 ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。 アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。 Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link モデル=世界の一部? これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験

    惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』
  • 秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

    精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか? そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。 バーチャル師匠とは あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。 700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。 彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。 誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウ

    秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ
  • 女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

    目はそむけることができる。 耳は塞ぐことができる。 だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。 匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。 匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。 だから、匂いを支配する者は、人を支配する。 そんなことができればだが。 これは、そんなことを目指した男の物語である。 男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。 超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。 舞台は18世紀のパリ。 通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくな

    女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』
  • 映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

    フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。 図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。 図書館とは何か 「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人がに没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。 そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただを集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。 NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できる

    映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える
  • 君と僕の壊れた世界『沙耶の唄』

    見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った――― グロゲーに見せかけた純愛に、何度も胸を潰されたが、ノベライズされたこれで、さらに古傷を抉られることになる。 手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか? 『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされてい

    君と僕の壊れた世界『沙耶の唄』
  • 生きる目的なんて無いが、生きがいは有る。問題は、2つを混同させることにある。

    生きる目的なんて無い。だが、生きがいは有る。問題は、2つを混同させることである。 「誰かに誉めてもらうため」に生きているのなら、誉めてくれる人がいなくなった時点で、生きる目的がなくなる。しかし、それはおかしい。したがって、「誉めてもらうことを生きる目的とする」前提がおかしいことが分かる。 たとえば、誰かに誉めてもらうために努力し、「良い子」「良い生徒」「良い社会人」「良い夫」をするのもいい。だがその努力は、「誉めてもらうと嬉しい」のであって、そのために生きているわけじゃない(ここ重要)。「誉めてもらうこと」を目的にしてしまうと、誉めてもらうためにする「良い〇」に飽きたり疲れたりした時点で詰む。「良い〇」でないからといって電車に飛び込む必要なんて無いし、誉めてくれなくなった誰かを憎むのもおかしい。 そして、「誰かに誉めてもらうため」の代わりに、「社会に貢献するため」「子孫を残すため」「家族を

    生きる目的なんて無いが、生きがいは有る。問題は、2つを混同させることにある。
  • 知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』

    知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。 美とは何か たとえば、「美」について。 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと

    知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』
  • 「すでにご存知のとおり」←これ

    完全に新しい話を、「すでにご存知のとおり……」で始める奴がいる。知らんがな、としかいいようがない。だが、この前置きで始めることで、あたかも題を「ご存知=ご承知」であるかのごとく扱うのはやめてほしい。そのハゲかけた髪をいっぽんいっぽん抜きたくなる。 仕事場で使われる罠として、「題より先に前提を混ぜ、あたかも前提が合意されたかのように話を持っていく」という技がある。 つまり、伝えたい主張(題)に入る前の導入部で、「合意されていない前提」を混ぜ込むことで、題に反応したら、前提に同意したことにするテクニックだ。フェアじゃないし、卑怯なやり方なのに、空気を吸うように使う奴がいる。 たとえばこう。 「この額で受注を獲得するために、さらに機能を2つ追加し、納期を4週間前倒すことが絶対だ」というやつ。するっと流して聞いてしまいそうだが、ポイントは、「この額」は社内で合意された見積でもなんでもない点

    「すでにご存知のとおり」←これ
  • 「古典は本当に必要なのか」討論会

    「社会に出たら三角関数なんて使わない」とか、「漢文は仕事の役に立たない」という議論が、ネットで繰り返されている。わたしの中では結論がついており、以下の寸言に集約されている。 「人生で必要なことは教科書に書かれてない」っていう奴、それお前が教科書ちゃんと読んでこなかっただけだろ(tumblrより) 他人のアラ探しをしてる間は自分の姿を見なくて済む(三島由紀夫) つまり、「〇〇が役に立たない」という人は、〇〇を使わない人生を選んできただけであって、それ以上でも以下でもない。あるいは、〇〇が理解できない貧しい想像力の持ち主か。それでいて、〇〇を貶めている間は自分の浅学を見なくて済む。 ただし、これをリアルでやると面白い。それぞれの学問やビジネスの第一線にいるにもかかわらず、わざわざ出てくるのはすごい。専門を極めていれば自ずと知的な謙虚さが身につく―――というのはわたしの思い込みで、他の学問領域が

    「古典は本当に必要なのか」討論会
  • 良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

    死に方に良し悪しはあるのか? 書の結論は「ある」になる。 上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。 それにもかかわらず、書を著した。理由は分かる、「悪い死に方」が多すぎるのだ。書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ。 普通の死 「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。 事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれ

    良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
  • 「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

    古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部]、[第二部])で見ることができる。 3行でまとめる+問題の質 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情 そして、この問題の質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである。 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていな

    「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた
  • 物語を書く「前に」知るべきこと『工学的ストーリー創作入門』

    もちろん葬った原稿が沢山ある。 うぬぼれ&創作欲に突き動かされ、勢いだけで書き始め、そのうち行き詰まる。なんとなく良くないのは分かるが、それが人物なのか構成なのかシーンなのか分からない。描写を直すと人物が色褪せ、シーンを変えると構成が崩れる。結果、原稿を書くたびに一からやり直すハメになる。最後まで書き上げられるかは運まかせで、最後まで行けた試しがない。 問題は書く「前に」ある これは、やり方が間違っている。何年かけても完成しない。『工学的ストーリー創作入門』を読まなくても知っていたが、書でとことん思い知らされる。わたしの努力は無駄ではないかもしれないが、非常に効率が悪い。問題は、書くことそのものよりも、その「前に」存在している。 『工学的ストーリー創作入門』(Story Engineering)は、物語を書き始める「前に」知るべきことを整理するだけで、ストーリーは工学的に作り上げることが

    物語を書く「前に」知るべきこと『工学的ストーリー創作入門』
  • これが教養だ! 『これは水です』

    書店に行くと「教養」を謳う雑誌やの多いこと。 ひと昔前のマジックワード「品格」「大人の~」と一緒やね。来ソレが足りなかったり欠けていることを指摘して、その雑誌なりを「買う」ことで補完できるというレトリック。あるいはソレに価値を見いだしている自尊心をくすぐるテクニック。騙されるほうが馬鹿なんだが、わたしもよく騙される(レジまで騙されたら負け)。 つまり「教養」を人質に、コンプレックスを煽るビジネスなのだ。 エセ教養人の手口 「ビジネスリーダーに求められる教養」とか「人生を豊かにする教養」という惹句で、人間関係を円滑にしたり信頼関係を築くためのツールとしての「教養」が重要だという。で、よくよく聞いてみると、ただの雑学や豆知識だったりする。要するに、アイスブレイクや知的マウンティングに使える小話のことを、「教養」と呼んでいるにすぎぬ。 そうやって「教養人」を名乗り、まとめサイトやWikip

    これが教養だ! 『これは水です』