震災から15年後に初代熊谷市長の新井良作さんが建てた朝鮮人の供養塔の前に立つ山岸さん。碑文には「この尊き犠牲が同胞国民の自覚反省を促し…」などと記されている=熊谷市大原 今年は日韓併合100年。朝鮮半島の植民地支配に伴う悲劇は県内でも起こった。関東大震災後、流言に惑わされた民衆が朝鮮人の避難民を虐殺した事件だ。県内で犠牲者が多かったのは県北部だが、このうち熊谷の惨劇の地を同市在住で、関東大震災の朝鮮人虐殺に関する著作もある国際刑法学者の山岸秀(しげる)さん(65)と歩いた。 ▼徒歩で県外に移送 1923(大正12)年9月1日、大きな被害をもたらした関東大震災。都内では「朝鮮人が暴動を起こしている」といった流言が広がった。震災と迫害から逃れてきた朝鮮人を、県警察部は保護の名目で県外へと移送を始めた。川口、蕨から徒歩で中山道を北上。9月4日、熊谷に差し掛かった時は200人ほどの人数だったという
関東大震災時、流言により各地で朝鮮人が殺害される中、鶴見署内に朝鮮人約三百人を保護し、命を救った故大川常吉署長。八十七年前の事実を後世に伝え、外国人への差別をなくそうと、横浜市鶴見区の郷土史研究家らが三十一日、署長の顕彰碑がある東漸寺(同区潮田町)で、地元の児童ら約六十人に震災当時の話を聞かせた。 (水野健太) 話をしたのは「鶴見歴史の会」相談役の林正己さん(82)と、在日韓国・朝鮮人児童を支援している「ヨコハマ ハギハッキョ」実行委員の後藤周さん(62)の二人。 林さんは、一九二三(大正十二)年九月一日の震災後、「朝鮮人が井戸水に毒を入れた」といううわさが流れ、パニックになった民衆が、焼け出された朝鮮人約三百人を保護していた同署に押し掛けた。その際、大川署長は民衆に向かって「朝鮮人を殺すなら自分を殺せ」と立ちはだかったとされるエピソードを紹介した。
横浜市鶴見区の東漸寺で31日、地元の市立潮田小(佐藤隆章校長)の6年生約60人が関東大震災(1923年9月1日)と朝鮮人虐殺の歴史を勉強した。 同寺には虐殺危機にあった朝鮮人、中国人約300人を救った鶴見署の大川常吉署長の墓と顕彰碑がある。 講師は同小OBで「鶴見歴史の会」の林正己さん(82)と虐殺の歴史を研究する中学教諭、後藤周さん(60)。林さんは「混乱の中、流言を信じた群衆により、虐殺が起きた。鶴見は外国籍の人が多いが、人権問題として考えてほしい」と呼び掛けた。後藤さんは「大川署長は日ごろから彼らと接していたので『彼らは労働者だ。危険な暴徒ではない』と主張を貫けた。この石碑には、二度とこのようなことが起きないように、との願いがこめられている」とパネルを使い説明した。【網谷利一郎】
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