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ブックマーク / khideaki.hatenadiary.org (26)

  • 事実(知識)の面白さと理論(考察)の面白さ - 数学屋のメガネ

    森達也さんの『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)を読んで以来、またかつてのプロレス熱が甦って、今プロレスに関するをいくつか読んでいる。主に読んでいるのは、新日プロレスでレフェリーとして活躍したミスター高橋さんが書いた一連のだ。僕がプロレスファンであったということもあり、しかもかつて夢中になった頃のプロレスについて書いてあるので、高橋さんのはどれも面白く読んだ。 森さんのの面白さを考えたときもそう思ったのだが、事実の面白さを書いたはとても分かりやすい。そこには自分の知らないことが書いてあり、しかも知りたいと思うことが書いてあるので、それを知ること自体が楽しいという、知識を得ることの楽しさを感じることが出来る。それは知らなかったことを知るだけであるから、そのことについて深く考えるという複雑さがなく、そのためにとても分かりやすい。 僕は数理論理学などをやっていたので、かなり理屈っぽく考

    事実(知識)の面白さと理論(考察)の面白さ - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2009/03/12
    社会がエリートの書いたプロレスのようだと?どこまでが筋かは、自分が関わらねば見極められないし、関わっても極められないことを人は暗に求めるとしたい。どこまで嘘を覆面をまかり通らせる?私は書きあがく。
  • 『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート - 数学屋のメガネ

    仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。 民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがい

    『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2009/03/11
    >実際に影響力を行使<できることもまたエリートの条件とするなら、「それ以外」の人々とともにいて先導ならぬ「煽動」することも能力のうちでは?そういった面での「エリート」を軽く見過ぎているということは?
  • タダ乗り平和主義 - 数学屋のメガネ

    今週配信されているマル激では、テロ特措法との関連で国防問題あるいは安全保障の問題が議論されている。そのときに宮台氏が語っていたのが「タダ乗り平和主義」というものだ。これは「タダ乗り」という言葉に、「払うべきコストを払わない」というニュアンスが込められている。 これは、宮台氏が「祝 安倍晋三内閣終焉に寄せて」というブログエントリーで書いている「教条主義左翼」という言葉といっしょにして理解すると分かりやすいのではないかと思う。「払うべきコストを払わない」という姿勢は倫理的には間違ったものなのだが、その間違いに気づかないメンタリティというのは、「教条主義」というものがそれに気づくことを邪魔するからだろう。 また、「教条主義」がなぜ生まれてくるかという過程を考えると、それは「法則性」の認識の仕方と深くかかわっているのを感じる。武谷さんが指摘するように、現象論が不十分なまま質論にまで突っ走ってしま

    タダ乗り平和主義 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/09/30
    集団的自衛権を一般に認めるというのはありえない。国連の「専権」を踏みにじってもいけない。影響力が行使できる大きな「国」は事後正当化を許されない。人を支えるべき。企業社会保障の充実が答えではない。…
  • 運動の弁証法性 - 数学屋のメガネ

    ゼノンのパラドックスについて考えていたとき、板倉聖宣さんの解釈をとても面白いものだと感じたことがあった。板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で「運動は矛盾である」ということについて書いているのだが、この「矛盾」というのは、弁証法的な意味での「矛盾」であって、形式論理的な意味での「矛盾」ではないということを指摘している。 ゼノンのパラドックスでは、「飛んでいる矢は止まっている」というものがある。飛んでいる矢というのは、運動している矢のことだが、これを瞬間という時間で捉えてみると、ある瞬間の時間にはその矢は空間のどこかに位置を占めていなければならない。そうすると、その瞬間を記述すれば、その矢はそこで止まっていると言わざるを得ない。 しかし、運動している矢が止まっているというのは、運動という概念に反する。これは、「運動している矢は運動していない」という肯定と否定とが同時に成り立つという「矛盾」

    運動の弁証法性 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/06/16
    ツッコミどころ多し。何かを「弁証法的」に導こうとしているのでしょう。それが何なのか今のところはわからない。微分を弁証法として(止揚の内在化?と)捉えるのは興味深い。
  • 形式論理における矛盾と弁証法的発想における矛盾 - 数学屋のメガネ

    萱野稔人さんをゲストに招いたマル激で、萱野さんの文章の書き方が非常にジャーナリスティックなものであることが話題になった。まずは事実の指摘があり、そこから判断されることも、誰もがそう認めざるを得ない事柄だけにとどめておき、主観的な意見というものをすべて排除しているという指摘だった。「〜<政治>の思考〜」というコラムの「第10回 「流動化する労働力」と「新利権の構図」」の中でも、 「たとえば、郵政民営化によって郵政公社は日郵政株式会社となるが、それにともなって奥谷禮子氏が社長をしている人材派遣会社が職員の研修や派遣業務を受託することになった。奥谷禮子氏といえば、すこし前に「過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います」と発言したことで話題になった人だ。彼女は日郵政株式会社の社外取締役であり、また厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会の分科会(労働条件分科会)でも委員をしている。かつて

    形式論理における矛盾と弁証法的発想における矛盾 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/06/12
    >利権の構図がここにはある。<労働団体も利権はない?特定の側とか断片しか見ないというのは批判(?)の一種だと思うが…。異和感をすぐに反駁につなげるのではなく、別の視座を与えるのが弁証法ってところか?
  • 理論展開における形式論理的理解と現実解釈における弁証法的理解 - 数学屋のメガネ

    ある種の理論的命題を理解するというのは、その理論が前提としていることから、論理的な整合性を持った展開を理解するということである。つまり、理解において必要不可欠なのは、そこに語られている論理を読み取ることになる。僕が、数学の学習においてまずは論理の基礎を身につけようと思ったのも、それは理論の理解において大きな威力を発揮すると思ったからだ。 論理だけでは理論を創造することは出来ない。理論の創造には、何を基的な前提としておくかという、数学で言えば公理の選択に当たることが重要だが、論理というのは、理屈として整合性を持ったものの考え方の形式を教えるものだから、具体的な対象に関する属性はすべて捨象されている。だから、論理で何かの対象の質を抽出するなどということは出来ない。論理は、対象が持っている具体性をすべて捨象してしまうので、具体的な理論を展開するような質はすでに捨てられているからだ。 論理は

    理論展開における形式論理的理解と現実解釈における弁証法的理解 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/06/10
    いやいや、資本の増殖も近代以前からある。労働者が農民の上前をはねているとは考えない?ペーパーワーカーは?インセンティブを維持するだけなら貧富の差はあまり必要ないとは私も思う。精神論で弁証法するのは…
  • 資本主義的搾取の不当性 - 数学屋のメガネ

    萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の中で、資に関して「他人を働かせて、その上前をはねる」ということとの関連を語っている。これは、かつてのマルクス主義的な用語で言えば、「資主義的搾取」と呼ばれるものになるのではないだろうか。 マルクスは、この「資主義的搾取」が、資主義に質的に伴うものであることを証明した。萱野さんがここで語っていることも同じことのように見える。「他人を働かせて、その上前をはねる」という行為を伴わない資主義などは考えられないという記述が見られる。萱野さんは、 「企業の仕組みを例にとろう。企業とは、まとまったカネ(資金)をもとに事業を起こし、従業員を雇って利潤を上げようとする経済主体のことである。 この場合、企業は売上のすべてを従業員に給与として与えることはない。ある程度の売上は、事業をさらに展開するための資金として(あるいは出資者への配当として)ス

    資本主義的搾取の不当性 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/06/02
    資本主義はまず富の集中が必要だと思うが…。元労働者の年金資金が株式投資に使われるようになった時代がゆえの意見…なわけないか。「搾取」という言葉を超克しようという試み。資金的な組合についてどう考える?
  • 萱野稔人さんの国家に関する考察を方法論として読んでみる - 数学屋のメガネ

    萱野さんの国家論というのはたいへんユニークで面白いものだと思う。国家論というのは、どちらかというとこれまではマルクス主義的な観点から論じられたりすることが多く、イデオロギー的な前提を強く持っていたように感じる。国家というものが民衆にとってどのような存在である「べき」かという「べき」論の観点から語られることが多く、対象の客観的認識よりも価値判断のほうが先行してきたように感じる。 マル激で宮台氏が語っていたが、「べき」論で考えてもいいのだが、それが現実にそうなっていなければ、いくら「べき」論を主張してもあまり意味がないということが出来る。価値判断的に、そのような方向である「べき」だと考えたとしても、現実には客観的法則性を認識して、その法則に従う方向で変革を考えなければ「べき」も実現しないと考えなければならない。 価値判断よりも客観的認識のほうを優先させて、まずは対象理解を徹底させるというのは、

    萱野稔人さんの国家に関する考察を方法論として読んでみる - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/06/01
    税は国の「購売力」を基に強要してるというのが私の意見(「JRF 日銀カード 構想」で検索)。>このような観点を認めることに免疫性をつけるためにも、「徴収する」といわずに、あえて「奪う」という表現を使っている<
  • 社会主義国家の誤りについて - 数学屋のメガネ

    社会主義国家が崩壊したとき、その現象をどう解釈するかというのはマルクス主義の陣営にとっては深刻な問題だっただろうと思う。これが、マルクス主義の理論的な誤りを証明する実験と捉えるのか、理論には誤りがなかったが、その現実の適用において失敗した実践的な誤りと見るのかは大きな違いがあるだろうと思う。 マルクス主義を信奉して、そのパラダイムで自分の思想を形作っていた人々は、その理論が間違っているという前提そのものの否定はなかなか出来なかっただろうと思う。目に付くのは、現実の社会主義国家の指導者たちの具体的な失敗のほうだ。スターリン主義に見られるような大衆の弾圧と強権的な政治に失敗を見たり、特権的な指導者層の物質的な贅沢さに個人的な堕落を見たりすることのほうが多かったのではないかと思う。 マルクス主義理論そのものの間違いを認識するというのはかなり難しいことだったに違いない。理論が間違えているのではなく

    社会主義国家の誤りについて - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/23
    >それを真似できないフラストレーションを感じる時代がくるかもしれない。<中国に関して感じないかもしれないが、小さい「後進国」に対してそう感じるようになって欲しい…と思ってる人はけっこういたりして。
  • 学校教育の「第四の目的」 - 数学屋のメガネ

    ジョン・テイラー・ガットさんは、『バカをつくる学校』の中で「アメリカの伝統的な教育制度には、建国当初から次のような明確な目的があった」と語って、次の3つの目的を挙げている。 1 善良な人間を育てること 2 善良な市民を育てること 3 生徒一人ひとりの能力を最大限に伸ばすこと これはまことに理想的な目的で、1と2は社会のために有用な教育という面での目的であり、3は個人のために有用な教育という面を語っている。個人と社会の両方にとって利益となる、調和的な存在となるような理想的な目的である。この目的が当に実現されるような学校ならば、学校も混乱することなく、社会の腐敗堕落も招かなかっただろう。 しかし、「1890年以降に導入された新しい集団教育には、さらに第四の目的が加わり、先の3つの目的を脇へ追いやった」とジョン・テイラー・ガットさんは語る。「この第四の目的とは、ドイツの学校のように、子どもたち

    学校教育の「第四の目的」 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/07
    プロパガンダ臭いです。>以前は、弊害を持っていたとしても、完全な管理が出来なかった<。塾やネットの影響はどう考える?少人数学級もほとんど実現してない。先生達が圧迫感を感じているならそういうべきでは?
  • 学校という制度の欠陥 - 数学屋のメガネ

    我々の社会にはさまざまな問題がある。学校の問題もその一つだが、その問題を生み出した原因が個人に帰するのか・制度に帰するのかは重要な問題だ。もし学校の問題が教師という個人に帰するのであれば、それは現政府や文科省が言うように、教師の資質の向上で解決する問題になるだろう。しかし、それが個人ではなく制度に帰する原因を持っていれば、制度を改革する以外に問題を解決することは出来ない。 ジョン・テイラー・ガットさんは、学校の問題は制度の問題であり、個人の問題ではないということを主張している。実際に教師個人というのはまじめで誠実であり、善意にあふれているのは同僚として働いている人々を見るとよく分かる。そして、彼らはそれなりに有能な人間たちばかりだ。しかし、このように優れた人材がそろっていても、学校が持っている問題の解決には程遠い。 ジョン・テイラー・ガットさんも「優しく、思いやりのある多くの人々が、教師と

    学校という制度の欠陥 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/06
    結論として間接的には「ゆとり教育の方向を支持する」ということだろうか?ビデオ教材やCAIという物の変化も少子化やグローバル化という体制の変化も教育の決定的な改革に繋っていない。何かできるようになったか?
  • 義務教育における7つの教育方針 3 - 数学屋のメガネ

    義務教育学校の6つ目の弊害は「条件つきの自尊心」という言葉で語られている。ジョン・テイラー・ガットさんはまず次のように書いている。 「六つ目の教育方針は「条件つきの自尊心」である。親から無条件に愛されている子どもは、自尊心が強く、従わせるのが難しい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。そこで私は、子どもたちに、自分の価値は専門家の意見に左右されるということを教える。つまり、彼らは常に教師に評価され、審査されるのである。」 僕は子どものころから、人間の正しい評価など誰にも出来ないと思っていた。だから、たいていの評価は間違っていると思っていたので、ある意味ではどのような評価をされようともそれに驚くことはなかった。的外れな評価をする人間は、まあ「見る目がないんだな」と思っていた。 僕の両親も、教員の評価よりも自分の目で見たほうを信じていたので、学校がどのような評価をしようとも

    義務教育における7つの教育方針 3 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/04
    学校らしさを捨てる試みは私は90年代以降のものしか知らないが、各国でなされていると思う。子供時代に教育を受けるチャンスは実のところ二度ないことが本質では?そのチャンスを何とか作る社会が…試みられている?
  • 義務教育における7つの教育方針 2 - 数学屋のメガネ

    ジョン・テイラー・ガットさんの『バカをつくる学校』で語られている義務教育学校の3つ目の弊害は「無関心」というものだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、「私は、たとえ子どもたちが何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える」と語っている。それは、学校というものが、一貫性のないカリキュラムを持っているので、満遍なく全部をやらせるには、偏った関心を持たせることはまずいからだ。 この「無関心」は学校においては制度的にそうなるように工夫されている。ジョン・テイラー・ガットさんの授業が子どもたちを夢中にさせていても、チャイムがなればその気持ちをすぐに切り替えて別の学習に気持ちを振り向けなければならなくなる。そのときにいつまでも夢中になった気持ちを引きずっていれば、次の学習に支障が生じて落ちこぼれることになるだろう。天才といわれたエジソンのエピソードなどには、そのような気持ちの切り替えが出

    義務教育における7つの教育方針 2 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/04
    >(…)「劣等生」とは、教師の示した考えに抵抗し、何をいつ学ぶのか、自分でそれを決めようとする生徒のことだ。(…)」<待った!それを「教師」が導くべきなのか?親や社会に戻して何が悪い…教師しかいないか…?
  • 義務教育における7つの教育方針 1 - 数学屋のメガネ

    『バカをつくる学校』(成甲書房)からジョン・テイラー・ガットさんの主張を細かく見ていこうと思う。まずは最初の章から「7つの大罪」として断罪されているものを見ていこう。前回の最後に紹介した、「一貫性のなさ」がその第1番目なのだが、これは、教育の全体を見渡す人間がおらず、それぞれが専門分化された自分の狭い利権の範囲で重要性を主張することによってこの「一貫性のなさ」が現れていると僕は思っていた。 しかし、よく考えてみると教育の全体を見渡すなどということができるものかという疑問も湧いてくる。もともと教育というのは単純なものではなくとても難しいもので、計画的に全体を設計してもそのとおりにいかないものではないだろうか。むしろ、計画どおりに行かないものだからこそ、偶然遭遇したすばらしさを的確にキャッチしてそれを生かすことのほうが大事になってくるのではないかと思う。 そういう意味では、全体を把握していない

    義務教育における7つの教育方針 1 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/03
    >どうして好きな教科に専念してはいけないのか<?「知識」が下層にいる人の憧れと思われてたからでないか。また、今私は好きなことばかりやっているが決して効率的ではない気がする。
  • 戦後民主主義教育の欠陥はアメリカの民主主義教育の欠陥と同じだった - 数学屋のメガネ

    昨日のメーデーの集会の帰りに寄った書店で刺激的で面白いを見つけた。『バカをつくる学校』(成甲書房)というで、著者はジョン・テイラー・ガットという、ニューヨーク州で最優秀教師として表彰された人だ。ここではアメリカの義務教育学校が批判されているのだが、その批判がそっくりそのまま日の学校に当てはまるのを見て驚いた。 僕は、小室直樹氏の指摘によって、戦後民主主義教育の欠陥というものを考えるようになったのだが、それは日だけの特殊な状況ではなかったのだ。実は、日が手にしたアメリカの民主主義教育にそもそも欠陥があったために、その忠実なコピーとしての日教育にもそっくりそのまま欠陥が移されてしまったというのが、戦後民主主義教育の正しい理解ではないかと感じた。 ジョン・テイラー・ガットさんの、教師としての体験からくる欠陥の指摘は実に的確で、僕も教育の現場にいてそれを常に感じていたので、この

    戦後民主主義教育の欠陥はアメリカの民主主義教育の欠陥と同じだった - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/05/03
    私はバカを作ろうとしている「バカ」はいないと思う。いると主張することは「戦争」などの緊張を求めるファシズムへの道だと思う。が、これまでの論考を考えると、それもやむなしと思っているということか?
  • 左翼の勘違い - 数学屋のメガネ

    在日朝鮮人の「強制連行」という問題は事実の問題であり、事実を間違えているという意味で嘘という言い方がふさわしいだろう。それは意図的なものでもあるようだし。これに対して、事実の間違いから生まれた嘘ではなく、理論の間違いから生まれたものは嘘というよりは勘違いと呼んだほうがいいかもしれない。三浦つとむさんは「官許マルクス主義」と呼んで、その理論の間違いを指摘していたが、僕自身も左翼の勘違いによる間違いを感じた経験がある。 僕が経験したのは、組合を通じて学習した労働講座だった。そこはマルクス主義の理論を学習する講座だったが、何回かのレポート提出があり、そこで資主義と共産主義の比較というテーマのものがあった。僕は三浦さんを通じてマルクス主義の理論的優位というものは感じていたものの、資主義に優れている面がないわけではないと感じていた。 板倉さんがどこかで言っていたのだが、資の発明というのは画期的

    左翼の勘違い - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/04/12
    >エリート効果<は>方法がひどくてもエリートだと思い込んだ被教育者自身が勝手に勉強<。>大衆教育は(…)最低ラインの技術を保障<。大衆教育にはやらしてみてエリートの才を見つけるという>選別<もある。
  • マルクス理解の難しさ - 数学屋のメガネ

    僕はマルクスの『資論』に何度か挑戦してその都度挫折している。それは、マルクスの叙述の抽象度の高さにあると今までは思っていた。抽象のレベルが高すぎるので、その過程を追うことが難しく、現実のどの面が捨てられていっているかを理解することが難しいのだと思っていた。しかし、大塚久雄さんの『社会科学の方法』を読んだら、抽象レベルの高さに加えて方法論的にも難しさがあるのではないかということを感じた。 抽象度の高さから言えば数学などは最高レベルの抽象度を持っている。だが、数学の場合は、抽象度は高くてもその過程が短い場合は理解が容易なので、そのようなものから抽象化の過程に慣れていって、その過程が複雑で長いものの理解へと進むような学習をしていく。いきなり複雑な過程を持つ高い抽象レベルの対象へ行くことはない。 『資論』などは、数学的に言えば最高度の複雑性を持った抽象度がその難しさを与えていると僕は感じていた

    マルクス理解の難しさ - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/03/01
    ちょうど自分の昔の「論考」を読み返していたときの時宜を得た記事だった。数学やプログラムの「再帰自覚的不易読性」は異常。だが、自覚しないだけで社会科学的なものにもそれはあり、自覚できなさが問題になる?
  • 社会にも法則はあるか - 数学屋のメガネ

    仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白いを手に入れた。新書程度の軽いなのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。 哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。 科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出

    社会にも法則はあるか - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/02/23
    >(…)人の体そのものに、(…)をたくさん生むような属性があるのなら、(…)時代が変われば、この法則が変わるということが何を意味しているかと言えば、<この30分前にジャングル・ビートという番組がやっていました。
  • 新たな「構造的弱者」 - 数学屋のメガネ

    内田樹さんの『下流志向』というの中から気になる部分を抜き出して考えてみようと思う。その一つは、「構造的弱者が生まれつつある」という一節だ。「構造的」という言い方には、個人の努力にもかかわらず、それを越えた大きな枠組みの力によって影響されているというニュアンスがある。個人の責任に帰する以外に、社会的な原因があって弱者になっているというニュアンスを感じる。 そういう弱者は今までもいただろうし、階級社会と呼ばれるところでは今でもたくさんいるに違いない。封建社会は、生まれついての身分に縛られてそこから離れることは出来なかった。典型的な階級社会だっただろう。そこでは、どれほど優れた資質をもっていようと、社会の下層の身分であれば、そこから抜け出ることは出来ない。そして、下層身分ゆえの弱者として生きるしかない運命を持っている。 江戸時代の封建制が崩れて、明治維新によって社会が大きく変わったという点は、

    新たな「構造的弱者」 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/02/21
    いつかキット、以前ブックマークした記事で「ポイント不可」のものから検索して「ポイント済」にしよう。
  • 『下流志向』が指摘する隠された真理 - 数学屋のメガネ

    内田樹さんの『下流思考』が指摘する、今までの常識とは違う、かえって反するような事柄を考えてみたいと思う。子どもたちが勉強をしなくなったと言うことや、若者があまり仕事に関心をもっていないように見えることに対して、世間の見方というのはもっぱら子どもや若者の心の問題に帰しているように感じる。 勉強をしない子どもや仕事をしない若者は、心がけが悪いと言うことだ。それは道徳の問題であり、規律を確立し厳しくすることによって問題が解決するのではないかと考えている大人(これは大部分が男ではないかと思うのだが)が多いのではないだろうか。教育法の「改正」や、教育制度の改革などは、このような方向での発想から考えられていることが多いように感じる。 それに対して、そのような処方箋はほとんど効果を持たないと内田さんは語っている。子どもや若者の問題は、各個人の心がけの問題ではなく、社会という大きな単位に根的な問題が

    『下流志向』が指摘する隠された真理 - 数学屋のメガネ
    jrf
    jrf 2007/02/21
    >(…)有効性を保つためには、(…)捨象ではなく、統計的なセンスを元にして、なにが末梢的なことであるかを考え(…)<。強烈な違和感を感じる(ちょっと嘘)。ここのアクセス解析ってできたかなぁ?あとで調べよう。