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ブックマーク / ish.chu.jp (13)

  • 恋愛と郷愁

    ある男友達(もうずっと連絡も取っていませんが、厚かましく友人とさせて頂きます)から、すごいセリフを聞いたことがあります。 「子供は要らないけれど、自分のクローンを作りたい」。 わたしは「クローンを作りたい」という人の気持ちがまったく理解できないので、「なぜ?」と尋ねたところ、返ってきたのが、 「今まで人生で色々な選択をしてきた。あそこでああしていれば、と思うこともある。別の選択をしていたらどうなっていたのか、それが知りたい」 という答えでした。 そもそも、仮に遺伝子がまったく同じであったとしても、それは<わたし>とは全然関係のない人間なわけで、クローンに「パラレルワールドの自分」を託すことは馬鹿げた空想ではあるのですが、そのことは脇に置いておきましょう(当の彼もわかった上で「自分大好きっぷり」の半偽悪的表現としてこう語ったのではないかと思います)。 今、気になるのは、「あり得たかもしれない

  • webは「砂の文明」である

    『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松健一 松健一さんの著作の中でも、超一級に面白い文明論。 非常に大雑把に言えば、ヨーロッパ的「石の文明」、中東・中央アジア的「砂の文明」、東アジア的「泥の文明」という枠組みを立てた上で、各文明がいかなる性質を持ち、「文明の衝突」なるハンチントン的言説がいかに欺瞞的かを論じ、かつ「泥の文明」における日を考察する、という内容です。 こうした枠組みが模式的であり、十把一絡げ的であるのはもちろんですが、捨象があってこそ思考は進められる以上、仮構であれ「叩き台」を提出することは極めて重要です。加えて、松氏の議論は平明かつ説得力があります。 石の文明とは、「外に進出する力」です。 これは、表土の乏しい土地における牧畜という生活様式に由来します。牧畜は広大な牧草地を必要とし、生産力を上げようとすれば「外に出て行く」しかありません。 また、貧しい土で農作物を得よう

  • 革命家は制止を振り切ってゴミを拾え

    しあわせのかたちさんに個人主義者は「公園のゴミ」を拾えるか?というエントリがあります。「公園に落ちているゴミを拾うか否か」を素材に、「個人主義」の立場とそこで見落とされている視点を整理したものです。 「公園をキレイにしたい人もいれば汚くても構わないという人もいる。キレイにしたい人が多数派なら、議会等で決めて清掃員を雇えばよい」という「個人主義者」の論理には「人が社会を作る以前に社会が人を作るという視点」、つまり広義の教育的見方が欠落している、という論旨です。 「見落とされている」視点にツッコむ、というテクストですが、そこでさらに見落とされている重要なポイントをツッコませて頂きます。 といっても、別段反論でもなければ、個人主義を巡る議論を発展させるものでもありません。 テクストの題とは全然関係ない、細部への混ぜっ返し、「ゴミを拾う」こと自体の意味についてです。 このテクストでは、「ゴミを拾

  • 「めちゃモテ」と世界最強

    内田樹さんの「めちゃモテ日」というエントリが、ちょっと前に注目を浴びていました。 弱者が生き残る道はあまり多くない。論理的に導かれる回答は二つしかない。 一、「強い個人の庇護下にはいる」。 いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。 二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」 結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの方向を採択した。 なるほど、合理的です。 大変納得できました。だからわたしは友達がいないんですね。友達いなくて当に良かったです。 この議論でストンと抜け落ちているように見えるのは、「

  • スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由

    『人権と国家―世界の質をめぐる考祭』 スラヴォイ・ジジェク 岡崎玲子 ジジェクの試論二篇とロング・インタビュー。二目の試論「人権の概念とその変遷」は必読。短いからサクサク読めます(笑)。 インタビューについては色々批判もあるようですし、実際、日語がヘン、ジジェクの言葉を受け止められていない箇所が多々見られる、などの難はあるのですが、岡崎氏の若さと根性、兎にも角にもジジェクのを新書で出した、という功績を考えればお釣りが来るでしょう。 注目すべき点は多すぎるのですが、まずは「寛容さと共存の何が問題なのか」で話題にしたばかりの「寛容」と自由について。 例えば、「共同体により思想や宗教が強制されることは暴力であるが、信仰自体は自由である」といった論があります。わたしたちが暮らしている世界は、建前としてはこうした西洋的多元主義を是とするもので、少なくとも「思想・信条に対する寛容さ」を示すこと

  • 自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」

    『倫理21』 柄谷行人 柄谷行人「オールドファン」にとってはおなじみのテーマ、というか前にも読んだ気がするのですが、書店でブラブラしていたら文庫になっていたので買ってしまいました。柄谷行人を読む快楽は何と言っても「美文を愉しむ」ところにあるので、何度でも読んだら良いのです。柄谷さんの著書の中でもとりわけ入りやすいトーンなので、大学一年生にもお勧め。 ここでは「ムッソリーニ、人種、自由」で「人種を選ぶ」という形で取り上げた「自由」と「自己決定」について、柄谷さんのお力を借りて再度整理してみたいです。 英米系の倫理学では、自由とは、他人に危害さえ与えなければ何をしてもよいということです。カントがそれに反対したのは、伝統的規範を重視したからではなく、そのことが別に「自由」ではないという理由によってです。自由な選択と見えるものは、実は内的・外的な、様々な原因にもとづいている。つまり、他律的である。

  • ish - 『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン

  • Google Mapsがニューオリンズの写真をハリケーン以前に戻している

  • 交流、直流、コミュニケーション

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。 確かにごっちゃになっています。 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、

  • ish☆走れ雑学女ブログ 2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識

    絵文録ことのはさんの「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」というエントリが話題になっていましたね。ちょっと気になってキチンと書こうと思っていたのですが、まとまる目処がちっとも立たないので、以下、とりあえず非常に乱暴にメモ。 はじめにおことわりしておきますが、わたしはこのエントリで素材として取り上げられている2ちゃんねるや「2ちゃんねらー」の行動や思考様式、「炎上」「祭」現象自体についてはそれほど興味がありません。また、絵文録ことのはさんの主張を正面から受け止めて論駁しようとか同調しようとかいうつもりもありません。 わたしが気になったのは善意と悪意についての論点で、しかも著者の意図とはおそらくかなりかけ離れた視点によるものです。ですから、以下は絵文録ことのはさんのエントリに触発されてわたしが勝手に連想した妄想だと思って頂いて結構です(絵文録ことのはさんの「好き嫌い」の趣味については個人的に

    kenjeen
    kenjeen 2007/01/23
    「暴走する善意」は、しばしば「事実認識だと信じられたもの」であるからこそ、強力な力を発します。
  • ソフトウエア開発の「更地主義」と憲法九条 - ish☆走れ雑学女ブログ

    少し前にITproでソフトウエア開発者の危うい「更地主義」という記事がありました。 (...)「もしアプリケーションを最初から書き直せば,アプリケーションの既存問題のほとんどを解決できる。現状のコードを更新して問題を解決するよりも,一から書き直す方が労力は少なくてすむ」こういった認識は,当だろうか? (...) 何が言いたいかというと,アプリケーション開発者の多くが「最初から書き直す」ことを一番良いと信じていることを問題視しているのだ。最初からやり直せればもっとうまくできるだろうという考えが間違いであることは再三証明されてきた。間違わないでもらいたいが,ビジネスの状況や技術的な理由によって,アプリケーションを捨ててしまわなければならないこともある。しかし,その方がいいと思ったからといって,(既存の機能を書き換えるのではなく)アプリケーションを最初から書き直すのは,十中八九間違っている。

  • webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望

    昨日のエントリの続きです。 前回の内容をものすごい端折ってまとめてみると、 1 テクストは常に「誰か」が書いたもの(「誰か」を想定することなしに、わたしたちは意味を意味として受け取ることができない) 2 そのテクストを「誰が」書いたかは質的ではないが、「誰か」がテクストの有意味性を保障する唯一の砦であるため、「誰か」はすぐさま「誰が」を呼び出してしまう。 といったところでしょうか。 あるいは次のように言うこともできるでしょう。 「誰か」は「誰が」に対し論理的に先行するが、わたしたちは「誰が」抜きで「誰か」を認識することができない。 こういう「厳密には間違っている具象」と「正確だがわかりにくい抽象」が制しあっているような風景というのは色々なところに見られて、わたしはよく三角形のことを考えます。 わたしたちは三角形を見たことがあるでしょうか? 中一くらいまでの子供にそう尋ねると、大抵はき

    kenjeen
    kenjeen 2006/11/01
    実際のwebは匿名どころかすごくフラットで、しかもこのフラットさこそが匿名性以上の危うさを孕んでいる
  • ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる

    最近吹風日記さんの「最近の若者は当にいたか、とカントは言った、皆がを書いている」というエントリでベタ褒めな紹介のされ方をしてしまって、ちょっとキンチョーしています。この吹風日記さん、根が暗いのでリファラを辿って発見したのですが、ウチのようなヘンなブログを評価してくださるだけあって、極私的にかなりヒットでした。 件のエントリは、引用の適切さ・信憑性といった論点を切り口にして展開していくものですが、まず「最近の若者は・・」というネタからしてヤラれました。ツカミが上手いですよね(笑)。 このテクスト後半に以下のような下りがあります。 理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を

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