最近プロ将棋の「型」というものが、いままで以上になくなってきていることを強く感じる。そしてそれは、より本質的な意味において、将棋というゲームの原理に近づいているのではないかと思えてならない。 「どうぶつしょうぎ」のヒットは、より少ない枚数・より弱い種類の駒たちによっても、(本)将棋に近いゲームになりうる可能性を示唆した。その奥行きが最終的にどの程度あるかは今後の研究を待つとしても、少なくともいまの自分には、具体的な解は得られていない。あの狭い空間でそれだけの奥があることには驚く。 どうぶつしょうぎにはまだ定跡のようなものは整備されていないはずだから、頼りになるのは自分の「読み」だけである。見たこともない局面を前に、「こう行く、こう来る」という読みを繰り返していくしかない。しかるに普通の将棋だとどうなのだろう。 将棋は長い歴史の中で、たくさんのセオリーが整備されてきた。その多くは「戦法」とな