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心と倫理に関するkurotokageのブックマーク (7)

  • あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート

    ニコニコ大会議であった例の件について。例の件について存じない方は、とりあえず「2008-07-04」を読んでくださいな。 いじめの構造 いじめというのは、ある一人の人物を他の大多数の人間が「見下す」ことで、虐める側の人間が「虐める側」としての共通意識・仲間意識を持つものである。つまり、虐める側は虐められる一人の人間を「外部」として定義することで初めて集団性・内部性を保つことに成功するのである。 ここで出てくるのが、「生け贄にされた一人」の問題である。いじめの構造上、彼は彼が有している感情の如何に問わずその集団の外にはじき出されている。いじめについては他にも様々な問題があるが、ひとまず「集団の内部と外部」という構造が見て取れる点だけを、今回は問題としてみる*1。 さて、ここで件のエントリに戻る。 ニコニコ大会議の場合 衝撃を受けた。すごい。すごいことだ。 あまりにも斬新すぎるコミュニケーショ

    あのー、それ、普通にいじめなんですけど - Thirのノート
  • いのちの奪い方 - シートン俗物記

    ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。ある時、キャンプを行って、その夕時にニワトリをシメて料理することになっていた。ニワトリは近くの養鶏場から譲り受けた廃鶏といわれる老鶏。「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。 参加した子供たちの親たちは口々に 「命の大切さを教えるために必要なことだ」 「べ物がどうやって手に入れられているのが教えてやって欲しい」 「べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」 と、立派な事を言ってくれたのだった。 ところが、いざ鶏をシメるとなった時、親たちは 「自分は血が苦手なので」 「こうしたことはやったことがないんで、慣れた方に」 「いや、ちょっと出来ないです」 と仰り、 「どうか、先生(私の事)がやって、見せてやってください」 と云い、誰一人として自分でやろう、という親は現れなかった。 み

    いのちの奪い方 - シートン俗物記
  • 「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - hokusyu’s blog

    もちろんトリアージを拡大解釈するなってことは大事なんでしょうけど、どうして人はトリアージみたいなものを拡大解釈したがって、しかもそういうエントリには賛同ブコメがいっぱいつくんだろうってのも大事では。いや、「誰かを切り捨てなければ誰かを助けることはできない」っていうのが、彼の中で事実(Wirklichkeit)を通り越して真理(Wahrheit)にまで達しちゃってる人っていますよねっていう話なのですが。 http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200308.html#02 なぜこんなに「月宮あゆが助かる〜」という考えを僕が憎むかというと、「誰かが助かることで、他の人は助からない」という考えというのが、ある種の奇妙な「社会性」みたいなものを他人に押し付けるために使われることが多いからなのかも。 倫理的な問題を考えるときに、「思考実験を構成して、選択肢のどれを選ぶかについ

    「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - hokusyu’s blog
  • 「殺すな!」と「殺せ!」 - 過ぎ去ろうとしない過去

    光市母子殺害事件とチベット問題に関するはてな村*1の反応は、サヨク批判はまあ一緒だが、他に関しては一見異なるように見える。だが、実はコインの裏表の関係にすぎないと思う。 ネットを巡回したところ、チベット問題に対して共通して掲げるべき唯一のスローガンは「殺すな!」であるらしい。確かに、複雑な歴史政治の問題が絡み合ったチベット暴動に対して、「殺すな!」だけがあらゆる正義を体現しているかに見えた。それ以上は「蛇足」として扱われた。「殺すな!」に同意してさえ、それ以上の問題について深く言及することは非難の対象になる。自明の正義たる「殺すな!」の貫徹が、最優先事項であったのだ。 しかし、果たして「殺すな!」は自明では無かった。いまやはてな村では「殺せ!」のスローガンで溢れ返っている。ここにおいても持ち出されているのは「社会正義」つまり「正義」の概念であった。「社会正義」のためには、人間を二人も殺し

    「殺すな!」と「殺せ!」 - 過ぎ去ろうとしない過去
    kurotokage
    kurotokage 2008/04/25
    “「自明」であるということは、いつ、どこでもそれが先立って妥当するということであり、時と場合において妥当したり妥当しなかったりするならば、それはまったく自明では無いのだ。”貫くために必要な心構え。
  • Something Orange -  傷口に包帯を。

    少なくとも、今まさに自分は価値の無い人間だ、自分の人生は無意味で辛いものでしかないという自己嫌悪感と戦っている人間には、自分で自分を受け入れろという言葉は、ある種の「切り捨て」でしか無いと思う。とりあえず、kaienさんがどうやって自己嫌悪感から抜け出したか、その経緯を知りたいです。 ――「「不幸」と「幸福」と」 聞きたいですか? ま、べつに話してもいいんだけれど、長くて暗くて退屈な話だよ。それに、まったく、自分でもうんざりするくらいよくある話でもある。 ぼくはふだん、日記では自分語りはしない。だって、仕事で失敗して怒られただの、今日の夕飯はチキンカレーだっただの、そんなことを書いてもおもしろくないだろうから。 ぼくの日記はエンターテインメントである。読んだひとがおもしろいと思わないだろうことを書く気はない。 ただ、まあ、今回は特別に自分のことを書いてみることにしよう。たまにはいいだろうし

    Something Orange -  傷口に包帯を。
    kurotokage
    kurotokage 2007/07/26
    共感できると書くのは傲慢かもしれないけど、共感できる。
  • ことばの構造 ペットについて

    やはりペットの扱いについてまだ気になるのでもう少し書いておく。 ペットが人間の生活圏の中でなければ生きていけないとしても*1、ペットの扱いがまったくの「自由」であっていいということはないと思う。 家畜であれば上質の肉やらミルクやら耐病性やらの「実用的な」問題としてそれらを扱うということがあると思うが、ペットというのはそういう「実用的な」ところからは離れた場所に存在している。 僕はアニメ「ドラえもん」の中でスネ夫が血統書つきのを自慢していたせいか、血統書つきのペットというものに対して昔から大きな嫌悪感情を持っているのだが、ペットの血統書というのはいったい何の意味があるのだろうか。あるいは僕が無知なだけでペットの血統書というのはそれなりの合理的な理由があって価値があるのかもしれないが、どうもそうではなくてそこにはなにか人間社会において「血筋」をことさら重要視する下劣な感情と似たものがあるよう

    ことばの構造 ペットについて
    kurotokage
    kurotokage 2006/09/05
    自称動物(爬虫類・昆虫含む)好きの私には避けては通れない問い。
  • + C amp 4 +

    去る09年7月16日のトムラウシ山での遭難事故で亡くなられた方へ心よりご冥福をお祈りいたします。 はじめてご訪問の方はこちら(自己紹介および投稿リスト等)をご覧ください。

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