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秀逸と映画に関するkurotokageのブックマーク (6)

  • 暮らし・「世界が完全に思考停止する前に」森達也さんのお話

  • 殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド | 性・宗教・メディア・倫理

    “日でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。” 『ホテル・ルワンダ』パンフレット 町山智浩著 http://d.hatena.ne.jp/kemu‐ri/20060304/1141410831より (1) 1923年9月6日、震災から6日後、千葉県東葛飾郡福田村。 午前10時ころ、5家族15人の行商の一行が、利根川の渡し場に着く。 渡し場で船頭と渡し賃の交渉にあたっていた一人のほかは、6人が神社の鳥居近くに、9人が15メートルほど離れた雑貨屋付近で涼をとっていた。 交渉にあたっていた一人に「言葉がおかしい」「朝鮮人じゃないか」との疑いが向けられた。村の半鐘がならされ、駐在所の巡査と福田村の自警団、隣村の田中村の自警団が集まった。 君が代を唄わされるなど、一行は取り調べを受けた。 不審感が拭われず、巡査は庁の指示を仰ぐために現場を離れた。 行商一行と自警団との間のやりとり

    殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド | 性・宗教・メディア・倫理
  • Apes! Not Monkeys! - まあ結局のところ…(「バターン死の行進」とか『ホテル・ルワンダ』とかをめぐって)

    まぁあれですな。大山鳴動して歴史修正主義、ですか。いろいろと参考にはなりました。 あちこちでコメントしたけれども改めて確認しておけば、問題とされた町山智浩氏の一文はルワンダ虐殺事件についてのものではなく、さらには映画『ホテル・ルワンダ』についての総合的な批評でもなく、監督テリー・ジョージが主役にドン・チードルを望んだという事情についてのものだったわけだ。したがって、あらゆる町山批判はこの文脈において自己を正当化せねばならない。町山氏はルワンダ虐殺と関東大震災時の朝鮮人虐殺があらゆる点からみて同質だなどとは主張していないし、要するに「理不尽な暴力が吹き荒れるとき、しかも傍観していれば自分だけはその暴力を逃れることができるような状況で、あえて被害者を助けることができる人間になれるか」という問いを(彼が想定した)日人の読者に身近なものとして提出するために、関東大震災時のエピソードをひきあいに出

  • finalvent氏の一連の主張について(箇条書きバージョン1) - 煙

    「ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる」において ・まず、「ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる 」においてfinalvent氏は、町山氏がパンフの文章の末尾に関東大震災の事件を持ち出すことに疑問を投げかける。 ・関東大震災の事件はルワンダ虐殺ほど酷い事件ではなく、異なるという。 ・しかし再びK_NATSUBA氏の言葉を借りると「ルワンダと同じような状況になったとき」、つまり自分が所属する集団が虐殺加害者になった時、「あなたは隣人を守れますか?」虐殺被害者を庇えるか、というのがポールさんの問いなのだから、規模や程度に差があっても「ポールさんのようになれるか」という命題において関東大震災の事件を想起させることは特に問題ないと私は考える。 ・それに対し、日はルワンダのような酷い虐殺は起こしていない以上、普遍的な「宗教的戒律」のような命題を突きつけられて、「それにただ頷くこ

    finalvent氏の一連の主張について(箇条書きバージョン1) - 煙
  • ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 「わかってもらえるさ」RCサクセション

    今年のアカデミー賞で作品賞ほかにノミネートされている映画『グッドナイト&グッドラック』は、マッカーシー上院議員による「赤狩り」が吹き荒れる50年代を舞台に、政治的な傾向のあるマスコミ関係者が次々と社会主義者と決め付けられて弾圧されるなかで、マッカーシーに敢然と立ち向かったCBSのキャスター、エド・マローの勇気を描いている(詳細)。 しかし、なぜ、今、50年も昔のことを映画に? 製作・脚・出演のジョージ・クルーニーは、赤狩りの恐怖のためにマスコミ関係者が政府批判を避けるようになった50年代が、対テロ戦争の下、マスコミがブッシュ政権を批判しなくなった現在の状況とが似ていると考え、ジャーナリストに当の役割を思い出させるためにマローのことを映画化しようとしたのだ(クルーニーは大学まではキャスター志望)。 この『グッドナイト&グッドラック』のシナリオをクルーニーと共同で執筆したグラント・ヘスロヴ

    ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 「わかってもらえるさ」RCサクセション
  • Apes! Not Monkeys! - 全てのものは同じであり、全てのものは異なっている(追記あり)

    最初は「世の中、こんな阿呆がおるのか」とあきれると同時に、町山氏の尻馬に乗って炎上させている馬鹿どもへの怒りの方がむしろ先に立って静観していたのだが、その後いや〜な方向に事態が進行してしまっているようである…。 このブログでも何度か書いたことだと思うのだが、全てのものは「同じ」であるということができると同時に、全てのものは「異なる」ということができる。任意の二つの存在者は、例えばそれが「存在者である」という点において「同じ」である。出来事を存在者としてカウントする存在論を採用すれば任意の二つの出来事について「同じ」であるということができる。「醜いアヒルの子の定理」というのがあって(渡辺慧の名著、『認識とパタン』、岩波新書を参照)、任意に選んだ二つの存在者間の類似性はすべて同じであることが数学的に証明できる。他方、誰がみても見分けられないほどよく似た二つの存在者であっても、それが「二つ」と認

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