『1968』小熊英二を読んだのですが、こんなにツライ読書というのは、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読んだ時以来じゃないかな、と感じています。まったく救いがない、というか…。 「でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」という女子学生の言葉で始まり、その言葉で終わる"物語"を2000頁も読ませるという著者の力量というのは、すごいな、と感じます。 著者の言いたいことは、当時の若者たちの叛乱は、高度成長に対する集団摩擦現象・表現行為であり、政治運動としては稚拙だったのは当たり前の実存的自己確認運動だった、ということ。そして、それは高度成長を前提とした安全な冒険だった、ということ。でも、だからこそ、その前提が崩れたいま、現代的不幸に初めて遭遇してそれに対して少なくとももがいてみせた彼らの失敗から、学ぶべきではないか、というものでしょう。 この結論に対しては、全共闘を経験し
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