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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (33)

  • F尺度 - 我が九条

    昨日やった分、どの設問にどのような回答をしたのか忘れたのでやり直した。 「F尺度は: 1.84 です。あなたは『無気力人間』です。社会や政治、そして自分への無力感を持っていることが特徴です。 」という結論。私は無気力人間らしい。 細かい分析は次の通り。 因襲主義: 2.10 中産階級の諸価値に対する執着。 権威主義的従属:  1.89 内集団の理想化された道徳的諸権威に対する無批判な態度 権威主義的攻撃:  1.80 因襲的な諸価値を侵犯しようとする人々を探し出し、非難し、拒絶し、処罰しようとする傾向性 反内省性:  2.40 主情的で、想像力に富んだ、柔軟な考え方への敵対 迷信とステレオタイプ:  1.40 個人の運命について神秘的な規定要因を肯定しようとする信念。 固定したカテゴリーで考えようとする専有傾向。 権力と「剛直」:  1.50 支配者-服従者、強者-弱者、指導者-追随者、と

    F尺度 - 我が九条
  • 「組織的」な「工作員」 - 我が九条

    「荒らし」や「ネットイナゴ」と言われる行為について、しばしば「組織的」とか「工作員」とか言われる人々が出現することがある。「組織的」とか「工作員」という概念はどういう状態を指すのか、ということについて考察を加えてみたい。 まずはじめに言っておきたいのは「組織的」な「工作員」相手に論争は基的に無益である。相手はこちらの説得に耳を貸すことはない。一方的に自説を述べるだけである。しばしば「決めつけ」は「議論を閉ざす」という。しかし議論をする気がない相手に議論はできない。ここをまず念頭に置く必要がある。 「工作員」とか「組織的」とか言われた場合、一般に想起するのは、何らかの組織に所属していて、その組織のために命令を受けて行動することであろう。あるいはお互いにオフで、あるいはネット上でも連絡を取り合って役割分担をする、ということである。しかし実際そういうこともないではないが、少数派である。 「工作

    「組織的」な「工作員」 - 我が九条
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    lotus3000 2013/04/20
  • 室町時代における「日本」「日本人」 - 我が九条

    室町時代における「日人」という史料の用例を調べてみると、ほとんど見当たらない。朝鮮王朝の史料『朝鮮王朝実録』には「倭人」と「日人」が出てくるが、圧倒的多数が「倭人」である。「倭人」と「日人」は同じなのか、と言えば、実は違う。『朝鮮王朝実録』の中の「倭人」を「日人」と同一のものとして史料を解釈するのは、史料を誤読していることになる。子細に検討するとほとんど用例の見られない「日人」は室町幕府の関係者のことを指している。「倭人」は室町幕府関係者以外の人々である。朝鮮王朝と関係を持つ日列島上の人々と言えば、室町幕府関係者でなければほぼ壱岐・対馬に限定される。「倭人」というのはほぼ彼らを指しているのである。 朝鮮王朝の下で編纂された『高麗史』においては「日」と「倭」の使い分けは非常に鮮明である。室町幕府を「日」としている。「倭国」はどうも南朝の征西将軍府のことを指しているようだ。従っ

    室町時代における「日本」「日本人」 - 我が九条
  • 華夷秩序 - 我が九条

    華夷秩序とは「中華」と「夷狄」の間に取り結ばれる関係で、しばしば「東アジア国際秩序」と目されるものである。しかし厳密に言えば「華夷秩序」は「国際関係」ではない。そこを混同することで冊封関係にあることを「属国」とする誤認が起こるのだ。「属国」とは近代国家の「主権」の一部を外国によって制限されている国のことである。近代以降の「国際関係」は「対等」な「国家」間に取り結ばれる関係である。これはあくまでも「国民国家」が成立した後の概念であって、国民国家がフランス革命で成立する以前にはそもそも「対等」な「国家」による関係など存在しない。西洋では神聖ローマ帝国を中心とした「帝国」による統合が存在したのだ。 中華帝国を中心とした華夷秩序は、皇帝と国王の君臣関係を軸とした統治理念であり、そこには「内」と「外」の区別はない。要するに「外交関係」ではない。「天」の下での共通の「文化」を前提としたあくまでも相対的

    華夷秩序 - 我が九条
  • 中世の北海道史と一次史料 - 我が九条

    歴史学においては一次史料を中心に書くのが基である。 とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。 『満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録

    中世の北海道史と一次史料 - 我が九条
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    lotus3000 2012/08/28
    歴史学とは語学のことだを示すエッセイ。
  • 外山恒一氏の「ネット右翼」論 - 我が九条

    いささか旧聞に属する話題だが、備忘録代わりに。(「http://ascii.jp/elem/000/000/122/122938/index-2.html」) 外山 僕はネット右翼はいないと思うんだよ。これまで文章が面白くなかったり、頭が悪かったりで、発表の場がなかった普通の人たちが馬鹿なことを書いてるだけで、単純な右傾化では無いと思うんだよね。昔から発言してこなかった一般の人というのはああいう感じだろうし、それを世間がまるで重大な右傾化のように捉えるから、かえって調子に乗るわけで。 ああいう馬鹿な人たちに発言させたくないから、民主主義反対なんだけどね(笑)。頭のいい人はいったんは左に行くから。正しさを追求すると、論理的な能力があれば左翼に行くのが当たり前だと思う。でも、「正しいことが必ずしもいい結果に結びつくわけじゃない」というところに至って、初めて右翼思想が意味を持つわけ。 一種の極論

    外山恒一氏の「ネット右翼」論 - 我が九条
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    lotus3000 2012/06/04
  • アイヌ勘定 - 我が九条

    鮭を商う時に「はじめ、1・・・10、おわり」と言って二匹ちょろまかす。落語の時蕎麦みたいなこの商い方法を「アイヌ勘定」といい、和人(アイヌ以外の「日人」のこと)の非道さを見事に言い表している。これがひどくなると、和人からの交易の品はふるぼけた漆器や粗悪な刀などを高価に売りさばき、中には竹光を「抜いたら罰が当たる」と言って売りつけたひどい和人商人もいたという。このような極悪非道な和人との交易で原始共産制社会に生きていた純朴なアイヌは滅亡の淵に立たされた。 などという言説を時々目にする。これほどアイヌをバカにした言説はない。このような「純朴なアイヌ」像の解体が必要である。 我が身に引きつければわかりやすい話なのだが、ブランド物、あれも一種の搾取だ。私は阪神タイガースのグッズをかなり高価で買う。単なるクリアファイルであれば一枚十円で手に入る。それを百円以上で買うのだ。タイガースのマークが入った

    アイヌ勘定 - 我が九条
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    lotus3000 2011/11/14
    アイヌ史の良エントリー
  • 現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条

    「現代の価値観を過去に持ち込むな」という議論がある。私は思う。そんなに悪いことか?と。 私は郷和人氏の次の指摘に全面的に従いたい。 次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実は確たる定めがない。 a、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈することは有効である。 b、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。 aもbも決して間違

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    lotus3000 2011/07/26
  • 中世における天皇家の分裂 - 我が九条

    天皇制が順風満帆に進んできたわけではないのは、歴史を見れば一目瞭然だ。古代の天皇制は非常に不安定であった。その点平安時代中期以降は天皇制は安定する。幼児が天皇に即位しても、システム自体は何の問題もなく動くのだ。これこそレジームとしての天皇制は強固であることの証左である。 中世においては危機が三度あった。 一度目の危機は治承・寿永の内乱である。安徳天皇在位のころ、木曽義仲の攻撃に備えて平氏は西国に落ち延びることを決意、天皇と治天の君を擁立して西国に落ち延びる、つもりであった。しかし治天の君の後白河が平氏の手を離れてしまったことから、思い掛けない天皇制の危機を迎えることになる。 後白河は安徳から異母弟の後鳥羽に皇位を移す宣言をする。三種の神器は安徳の手元にある。しかし治天の君の意向が三種の神器に優先するのだ。しかし平氏がそれを認めるわけもない。ここに安徳と後鳥羽という二人の天皇が並立する時代を

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    lotus3000 2011/06/22
  • 鈴木邦夫氏の国旗・国家論 - 我が九条

    天皇を政局に利用する似非勤王家もしくは勤王家もどきを見ていて、同じような似非愛国主義者を非難した鈴木邦夫氏の文章をみかけた(「http://d.hatena.ne.jp/furisky/20110606/1307373237」)。備忘録のため引用。 しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日の旗は日の丸ですよ。日の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。 「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。

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    lotus3000 2011/06/22
  • 史料論 - 我が九条

    Aという史料がある。Bという史料がある。これらの史料は書かれていることが矛盾する。この場合、AかBかどちらかの史料は信用できない。どちらを信用すべきか、という問題が出てくるわけだ。一番信用できるのが古文書である。そして古記録となる。編纂物は史料としては信用性が低いとされる。後世の著述になれば、信用性はもっと下落する。 何が書きたいか、というと、津軽安藤氏の出自についてである。津軽安藤氏が得宗御内人であったことはほぼ史料上動かないとみてよい。これは当時の文書史料でほぼ確かめられる。津軽安藤氏の内訌を管理しているのが得宗公文所だからである。あるいは得宗領の地頭代官職を世襲していたことも、譲状から明らかである。で、現在の通説では津軽安藤氏は土着の豪族を得宗が登用した、ということになっている。系図には長随彦や安倍氏を先祖とする、とある。しかしこれらの系図はいずれも室町時代から江戸時代に編纂されたも

    史料論 - 我が九条
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    lotus3000 2011/06/19
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

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    lotus3000 2011/06/11
  • デブの言い訳 - 我が九条

    高血圧治療に乗り出した。デブの「頑張っています」アピールがことごとく粉砕された。事療法は減らした分は覚えても、増えた分は頭から消える。運動療法は頑張った分はアピールしても、さぼった分は抜ける。一週間ならすとあまり増えていない。そういうものらしい。普段の事を一口か二口残す、ということと、毎日の通勤であと十数分歩く領を増やすことが必要なようだ。降圧剤で減らすのは簡単だが、三十年、四十年服用を続けることを考えると金がもったいない、といわれた。とにかく一ヶ月で0.5キロ減らせ、とのこと。

    デブの言い訳 - 我が九条
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    lotus3000 2010/09/17
  • これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条

    ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。 関係部分を引用。 1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事にな

    これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条
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    lotus3000 2010/08/30
  • トラックバックへの返事 - 我が九条

    id:HALTAN氏からトラックバックが来ていた。 私の蕪雑なブクマに対して「はは・・・idにid:Wallerstein とか付けるようなマジメな人には、自分のような輩はそりゃ嫌われるだろうねえ・・・。」ということで、「嫌われるだろうねえ」と思われるような蕪雑な言葉遣いになったことに対してはご海容を請うしかない。一応付言しておくと私はidHALTAN氏のことを嫌ってはいない。むしろ自分の思考のきっかけとなったことに感謝している。 せっかくidHALTAN氏が機会を設けてくださったので、私の疑問をもう少し詳細に展開しておくことにする。 私がブクマを付けたのは以下の記事に対して(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080806/p1」) 自分がサヨクを嫌いなのは、 (1)階級闘争史観で何でも説明できるのか? (2)仮に(1)が正しいとして、その論理の貫徹が不徹底で

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  • HALTAN氏への質問状 - 我が九条

    HALTAN氏に対してそもそも私が最初に蕪雑な言葉を投げつけたことからHALTAN氏との論争が始まったのだが、その結果HALTAN氏には不快の念を与えたであろうことに対しては反省せねばなるまい。私がHALTAN氏の言い分に対して不快感を持っているのは事実だが、実際責任の大部分は私が最初に「階級概念が分かっていない」とかみついたところにある。これはもう少し正確に表現する必要があった。HALTAN氏は階級闘争史観という概念を不正確に恣意的に使って、自分の左翼嫌いの正当化に使っている、と。 もう一度引用したい(「http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080806」)。 自分がサヨクを嫌いなのは、 (1)階級闘争史観で何でも説明できるのか? (2)仮に(1)が正しいとして、その論理の貫徹が不徹底ではないか?(中略) 主にこの2点です。難しいことは何もない。簡単でしょ? 階級

    HALTAN氏への質問状 - 我が九条
  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

    鎮魂の寺院 - 我が九条
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    lotus3000 2010/08/17
    「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい」
  • エミシとは何か - 我が九条

    アイヌ史をいかに記述するべきか。ブックマークにあった次の議論から説き起こしたい。id:m-matsuoka氏の「歴史は、物事を記録しておくという歴史文化を持つ民族にしかつくれないわけで、歴史文化をもたなかったアイヌの歴史を認めろというのは変。」というブクマ。氏の歴史とは何か、というのを聞きたい。少なくとも歴史学研究者の考える「歴史」とは全く違うものなのだろう。 私の所属する歴史学界の定義する歴史学における歴史叙述とは幾重にも限定を受けた文字資料を題材として、ある史観に基づいて過去を再構築する試みである、と考えている。歴史的現実はそれこそ無数にある。極端に言えば今起きていることも「歴史的現実」である。過去に起こった「歴史的現実」を叙述する時に残された痕跡から過去を復元するのが広義の歴史学である。その時に使う資料によって次の3つに分かれる。文字史料によって「歴史的現実」を復元するのが狭義の歴史

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    lotus3000 2010/07/14
  • 源実朝の暗殺 - 我が九条

    1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士の源仲章も殺された。仲章の役目は来執権の北条義時が務めるはずであった。実朝の首を持った公暁は乳母夫の三浦義村の下に向かうが、義村は義時に知らせ、公暁を討ち取る。 実朝がなぜ暗殺されなければならないのかについては、その暗殺の黒幕を含めて議論が存在する。 北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、公暁単独犯説、後鳥羽上皇黒幕説である。 従来有力視されてきたのは北条義時説である。義時は儀式の直前に体調を崩して式を抜け出している。陰謀を知っていたからこそ抜け出したのだろうと考えられていた。それに対し、義時が務めるはずであった太刀持ちを務めていた源仲章が殺されているところと、公暁が三浦義村の下に

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  • 武士とは何か - 我が九条

    朝廷は長い間常備軍を持たなかった、と言われる。朝廷の常備軍に替わって朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉の強力機構として機能したのが武士団である。武士とはどうやって発生したのだろうか。地方の乱れに対応して大名田堵などの有力農民が武装して在地領主=武士となったのだろうか。実は違う。それでは単なる「武装した有力農民」である。「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる。 「武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である。かつて拙ブログで軍事貴族に触れたとき、「軍事貴族は貴族なのか」という疑問があった。そもそも「貴族」とは何か。 「貴族」とは端的にいえば官位を持つ人々である。事実上従六位以下は事実上機能していなかったので、六位以上が「貴族」となる。五位以上で清涼殿への昇殿を認められた人々が殿上人で、それ以下が地下人である。殿上人にな

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    lotus3000 2010/06/26