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  • 橘は実さへ花さへ・・・巻第6-1009 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 橘(たちばな)は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜(しも)降れどいや常葉(とこは)の木 要旨 >>> 橘という木は、実も花もその葉さえも、冬、枝に霜が降っても枯れることのない常緑の樹である。 鑑賞 >>> 天平8年(736年)11月、葛城王(かずらきのおおきみ=橘諸兄)らが、姓(かばね)と母方の橘の氏(うじ)を賜わったときの聖武天皇の御製歌。左注には「このとき、太上天皇( 元正天皇)、聖武天皇、皇后(光明皇后)が共に皇后宮においでになり、宴を催されて橘を祝う歌をお作りになり、併せて橘宿祢らに御酒を賜った」旨の記載があります。 橘の木そのものを讃えることによって一族を祝おうとする意をあらわされた御製です。この時の諸兄は53歳。これ以後、最高権力者へとかけのぼる出発を記念する歌として載せられています。「橘」は、当時きわめて賞美された木で、『日書紀』には、垂仁天皇の御代に、田道間

    橘は実さへ花さへ・・・巻第6-1009 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/16
  • 妻もあらば摘みて食げまし・・・巻第2-220~222 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 220 玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 足り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 那珂(なか)の湊(みなと)ゆ 船 浮(う)けて 我が漕(こ)ぎ来れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)とり 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶(かじ)引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に 蘆(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺(はまへ)を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家知らば 行きても告(つ)げむ 知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまぼこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき

    妻もあらば摘みて食げまし・・・巻第2-220~222 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/15
  • 【為ご参考】『万葉集』の時代背景 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    『万葉集』の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集まり住む都市となりました。 一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。 この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日にもたらしまし

    【為ご参考】『万葉集』の時代背景 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/14
  • 遣新羅使人の歌(13)・・・巻第15-3595~3599 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3595 朝開(あさびら)き漕ぎ出(で)て来れば武庫(むこ)の浦の潮干(しほひ)の潟(かた)に鶴(たづ)が声すも 3596 我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)に見むを印南都麻(いなみつま)白波(しらなみ)高み外(よそ)にかも見む 3597 わたつみの沖つ白波立ち来(く)らし海人娘子(あまをとめ)ども島隠(しまがく)る見ゆ 3598 ぬばたまの夜(よ)は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり 3599 月読(つくよみ)の光を清み神島(かみしま)の磯廻(いそみ)の浦ゆ船出(ふなで)す我(わ)れは 要旨 >>> 〈3595〉朝早くに船を漕ぎ出してきたら、武庫川の河口あたりの干潟に、鶴の鳴く声がしていた。 〈3596〉を偲ぶよすがと思って印南都麻の方向を見ようとしたが、白波が高くて、遠くからではよく見えない。 〈3597〉海の神が沖に白波を立てている。折しも、海人乙女ら

    遣新羅使人の歌(13)・・・巻第15-3595~3599 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/13
  • 大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(4)・・・巻第5-861~863 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 861 松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)速(はや)み紅(くれなゐ)の裳(も)の裾(すそ)濡れて鮎か釣るらむ 862 人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島を見ずてや我(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ 863 松浦川(まつらがは)玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)らを見らむ人のともしさ 要旨 >>> 〈861〉松浦川の川瀬の流れが速いので、娘たちは紅の裳裾を濡らしながら、今ごろ鮎を釣っていることだろう。 〈862〉だれもが皆見ているであろう松浦の玉島なのに、一人見ることもかなわず、私はこんなにも恋し続けていなければならないのか。 〈863〉松浦川の玉島の岸で若鮎釣っている娘たち、その美しい娘たちをを見ているであろう人々が羨ましい。 鑑賞 >>> 題詞に「後の人の追和する歌三首」、その下に「帥老」とあり、大宰帥大伴旅人を尊んでいう語で、一連の歌が旅人ほかの共作であるこ

    大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(4)・・・巻第5-861~863 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/12
  • 大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(3)・・・巻第5-858~860 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 858 若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川なみの並(なみ)にし思はば我(わ)れ恋ひめやも 859 春されば吾家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走(ばし)る君待ちがてに 860 松浦川(まつらがは)七瀬(ななせ)の淀(よど)は淀むとも我(わ)れは淀まず君をし待たむ 要旨 >>> 〈858〉若鮎を釣る松浦の川の川波の、なみに(ふつうに)思うだけなら、どうして私が恋などいたしましょうか。 〈859〉春が来ると、私の里の川の渡し場では子鮎が走り回ります。あなたを待ちあぐんで。 〈860〉松浦川の七瀬の淀は淀んで流れないことがあっても、私は淀むことなく、ずっとあなたをお待ちしましょう。 鑑賞 >>> 853~857からの続きで、乙女らがさらに返した歌です。858が857に、859が856に、860が855に応じており、実作者は大伴旅人、あるいは別の大宰府某官人で

    大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(3)・・・巻第5-858~860 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/11
  • 大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(2)・・・巻第5-855~857 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 855 松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)光り鮎(あゆ)釣ると立たせる妹(いも)が裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ 856 松浦(まつら)なる玉島川(たましまがは)に鮎(あゆ)釣ると立たせる子らが家路(いへぢ)知らずも 857 遠つ人松浦(まつら)の川に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)が手(たもと)を我(われ)こそまかめ 要旨 >>> 〈855〉松浦川の川の瀬は光り輝き、鮎を釣るために立っているあなたの着物の裾は水に濡れています。 〈856〉松浦の玉島川で鮎を釣ろうとに立っているあなたたちの家へ行く道がわからない。 〈857〉松浦の川で若鮎を釣るあなたの腕を枕に寝るのは、私の願いです。 鑑賞 >>> 「蓬客(ほうかく)等の更に贈りし歌3首」。857の「遠つ人」は「松浦」の枕詞。旅人が、このような神仙の女たちとの恋愛譚ともいうべき創作をなしたのは、もともと旅人が神仙に対する憧れを抱

    大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(2)・・・巻第5-855~857 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/10
  • 大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(1)・・・巻第5-853~854 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 松浦川(まつらがは)に遊ぶ序 余(やつかれ)、暫(たまさか)に松浦の県(あがた)に往(ゆ)きて逍遥(せうえう)し、聊(いささ)かに玉島の潭(ふち)に臨みて遊覧するに、忽(たちま)ちに魚を釣る女子等(をとめら)に値(あ)ひぬ。花の容(かほ)双(なら)びなく、光(て)りたる儀(すがた)匹(たぐひ)なし。 柳(やなぎ)の葉を眉(まよ)の中(うち)に開き、桃の花を頬(つら)の上に発(ひら)く。意気(いき)雲を凌(しの)ぎ、風流世に絶えたり。僕(やつかれ)問ひて曰く、「誰(た)が郷(さと)誰が家の児(こ)らそ、けだし神仙(しんせん)ならむか」といふ。娘等(をとめら)皆 咲(ゑ)み答へて曰く、「児等(われ)は漁夫(あま)の舎(いへ)の児、草の庵(いほ)の微(いや)しき者(ひと)なり。郷(さと)も無く家も無し。何そ称(あ)げ云ふに足らむ。ただ性(ひととなり)水に便(なら)ひ、また心山を楽し

    大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(1)・・・巻第5-853~854 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/09
  • 梅花の歌(3)・・・巻第5-823~825 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 823 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ 824 梅の花散らまく惜(を)しみわが園(その)の竹の林に鶯(うぐひす)鳴くも 825 梅の花咲きたる園(その)の青柳(あをやぎ)を蘰(かづら)にしつつ遊び暮らさな 要旨 >>> 〈823〉梅の花が散るというのは何処のことか。この城の山には雪があとからあとから降ってくる。 〈824〉梅の花が散っていくのを惜しみ、私の庭の竹林で、ウグイスがしきりに鳴いている。 〈825〉梅の花が咲いているこの園の、青柳を髪飾りにして、終日のんびりと遊び暮らそう。 鑑賞 >>> 823は、大伴百代(おおとものももよ)の歌。 824は、阿氏奥島(あしのおきしま)の歌。 825は、土氏百村(とじのももむら)の歌。 大宰府での宴で詠まれた「梅花の歌」全32首のうちの5首です。32首の内訳は、前半の15首が上席、後半の17首が下席の歌となっ

    梅花の歌(3)・・・巻第5-823~825 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/08
  • 床に臥い伏し痛けくの・・・巻第17-3969~3972 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3969 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに しなざかる 越(こし)を治(をさ)めに 出でて来(こ)し ますら我(われ)すら 世の中の 常(つね)しなければ うち靡(なび)き 床(とこ)に臥(こ)い伏(ふ)し 痛けくの 日に異(け)に増せば 悲しけく ここに思ひ出(で) いらなけく そこに思い出(で) 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山き隔(へな)りて 玉桙(たまほこ)の 道の遠けば 間使(まつか)ひも 遣(や)るよしもなみ 思ほしき 言(こと)も通(かよ)はず たまきはる 命(いのち)惜(を)しけど せむすべの たどきを知らに 隠(こも)りゐて 思ひ嘆かひ 慰(なぐさ)むる 心はなしに 春花(はるはな)の 咲ける盛りに 思ふどち 手折(たを)りかざさず 春の野の 茂(しげ)み飛び潜(く)く うぐひすの 声だに聞かず 娘子(をとめ)らが 春菜(

    床に臥い伏し痛けくの・・・巻第17-3969~3972 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/07
  • 春の花今は盛りににほふらむ・・・巻第17-3965~3968 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3965 春の花今は盛(さか)りににほふらむ折りてかざさむ手力(たぢから)もがも 3966 鴬(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折(たを)りかざさむ 3967 山峽(やまがひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ 3968 鴬(うぐひす)の来(き)鳴く山吹(やまぶき)うたがたも君が手触れず花散らめやも 要旨 >>> 〈3965〉春の花は、今は盛りと咲きにおっていることだろう。手折ってかざしにできる手力がほしい。 〈3966〉ウグイスが鳴いては散らしているだろう春の花、その花をいつあなたと共に手折ってかざしにしようか。 〈3967〉山間に咲いている桜を、ひと目だけでもあなたにお見せできたら、何の心残りがありましょう。 〈3968〉ウグイスが来て鳴いている山吹の花は、決してあなたが手に取るまで散ってしまうことはないでしょう。 鑑賞 >>> 3965・3966

    春の花今は盛りににほふらむ・・・巻第17-3965~3968 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/06
  • 荒し男すらに嘆き伏せらむ・・・巻第17-3962~3964 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3962 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに ますらをの 心振り起こし あしひきの 山坂(やまさか)越えて 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に下(くだ)り来(き) 息(いき)だにも いまだ休めず 年月(としつき)も 幾(いく)らもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡(なび)き 床(とこ)に臥(こ)い伏(ふ)し 痛けくし 日に異(け)に増(ま)さる たらちねの 母の命(みこと)の 大船(おほぶね)の ゆくらゆくらに 下恋(したごひ)に いつかも来(こ)むと 待たすらむ 心さぶしく はしきよし の命(みこと)も 明け来れば 門(かど)に寄り立ち 衣手(ころもで)を 折り返しつつ 夕されば 床(とこ)打ち払(はら)ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむそ 妹(いも)も兄(せ)も 若き子どもは をちこちに 騒(さわ)き泣くらむ 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(ど

    荒し男すらに嘆き伏せらむ・・・巻第17-3962~3964 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/05
  • 高山の巌に生ふる・・・巻第20-4454 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅(すが)の根のねもころごろに降り置く白雪(しらゆき) 要旨 >>> 高い山の岩に生えている菅(すが)の根のように、ねんごろに降り積もった白雪の何と見事なこと。 鑑賞 >>> 天平勝宝7年(755年)11月、橘諸兄が、息子の左大臣・奈良麻呂宅での宴席で詠んだ歌。ここには諸兄の歌のみで、参席した人たちの歌は残されていませんが、奈良麻呂と親しい人が集まっていたはずです。上3句は「根もころごろに」を導く序詞。「根もころごろに」は、根がびっしりと固まっているさま。 この時期、前月に聖武太上天皇が発病し、すでに70歳を超えていた諸兄にとって、今後の政情への不安感は大きかったはずです。この宴の直後に諸兄が、不敬の発言があったと近侍によって密告される事件が起きました。聖武太上天皇は取り合いませんでしたが、翌年2月に左大臣を辞職して致仕せざる得なく

    高山の巌に生ふる・・・巻第20-4454 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/04
  • 葦べ行く鴨の羽がひに・・・巻第1-64 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 葦(あし)べ行く鴨(かも)の羽(は)がひに霜(しも)降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 要旨 >>> 葦が生い茂る水面を行く鴨の羽がいに霜が降っている。このような寒い夕暮れは、大和のことがしみじみ思い出される。 鑑賞 >>> 志貴皇子の歌。慶雲3年(706年)に、文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)に随行して、難波離宮へ旅した時に詠んだもの。難波宮は、天武天皇の御代に築かれた副都。難波は、古くは仁徳天皇、近くは孝徳天皇の都だった地であり、交通、対外関係において重要であると同時に、禊(みそ)ぎの地として信仰された所でもありました。そのため、天皇の行幸も頻繁に行われました。皇子が訪れた時期は当時の暦で9月末から10月初め、晩秋から初冬にかけてのころにあたります。 「葦辺」は、葦の生い繁っている水辺。難波の多く繁っている葦は、古来有名でした。「羽がひ」は、たたんだ翼が背で交わるところ。「大和

    葦べ行く鴨の羽がひに・・・巻第1-64 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/03
  • 今更に妹に逢はめやと・・・巻第4-611~612 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 611 今更(いまさら)に妹(いも)に逢はめやと思へかもここだわが胸いぶせくあるらむ 612 なかなかに黙(もだ)もあらましを何すとか相(あひ)見そめけむ遂げざらまくに 要旨 >>> 〈611〉今はもう重ねてあなたに逢えないと思うからでしょうか、私の心がこんなに々として沈むのは。 〈612〉なまなかに声などかけないほうがよかったかもしれません。どうして逢瀬を始めたのか、初めから二人が結ばれることはあり得なかったのに。 鑑賞 >>> 大伴家持が笠郎女に贈った歌。611の「今更に」は、今は重ねて。「ここだ」は、甚だしく。「いぶせく」は、心が晴れない。612の「なかなかに」は、なまなかに。「黙」は、黙っていること。「何すとか」は、どうしようと思って。「遂げざらまくに」の「まく」は、推量。 笠郎女に対する家持の返歌は、ここに掲げた、意気の上がらない2首が残されているのみです。どうや

    今更に妹に逢はめやと・・・巻第4-611~612 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/02
  • 【為ご参考】歌風の変遷について - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    『万葉集』は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。 第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代です。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。 第2期は、平城京遷都(710年)までの

    【為ご参考】歌風の変遷について - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2024/01/01
  • 近くあれば見ねどもあるを・・・巻第4-609~610 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 609 心ゆも我(わ)は思はずきまたさらに我(わ)が故郷(ふるさと)に帰り来(こ)むとは 610 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ 要旨 >>> 〈609〉私は思いもよりませんでした、再び故郷に帰ってこようとは。 〈610〉近くにいればお逢いできなくとも耐えられますが、さらに遠くなってしまったので、生きていけそうにありません。 鑑賞 >>> 笠郎女が、家持と別れた後で贈ってきた歌。609の「心ゆも」の「ゆ」は、発する場所を表す、~より。「故郷」は、平城遷都後はふつう飛鳥・藤原京の地域をさしますが、郎女の故郷でもあったのでしょう。家持に対して抱いている長い間の恨みを総括し、これを言外に置いての言い方をしています。610の「いまさば」は、居ればの敬語。「有りかつましじ」の「あり」は、生きる、「かつ」はできる、「ましじ」は、打消推量。いったん見切りをつけた

    近くあれば見ねどもあるを・・・巻第4-609~610 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2023/12/31
  • 【為ご参考】『万葉集』について - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    『万葉集』が、いつ誰によって編集されたか正確には分かっていません。序文も跋文もなく、同時代のほかの文献にも『万葉集』について書かれたものがないからです。 作歌年月が明記されている歌で最も新しいのは、天平宝字3年(759年)正月一日の大伴家持の作です。したがって、今の形の『万葉集』が759年以降に成立したのは間違いありません。それでは、それ以後のいつであるかとなると、平安時代初期まで下る説もあってはっきりしません。だいたい奈良時代の末と見る説が有力となっています。 編者についても、橘諸兄とする説、大伴家持とする説、橘諸兄と大伴家持であるとする説があります。『万葉集』は全20巻からなっていますが、巻々によって編集様式がさまざまであることから、一人の手で集中統一的に編集されたとは考えられません。しかし、巻第17から巻第20までが家持の歌日記のような形になっていることや、巻第16までにも家持の父・

    【為ご参考】『万葉集』について - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2023/12/30
  • 庭に降る雪は千重敷く・・・巻第17-3960~3961 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3960 庭に降る雪は千重(ちへ)敷(し)くしかのみに思ひて君を我(あ)が待たなくに 3961 白波の寄する礒廻(いそみ)を漕(こ)ぐ舟の楫(かぢ)取る間なく思ほえし君 要旨 >>> 〈3960〉庭に降る雪は幾重にも積もりました。けれども私は、そんな程度ぐらいにあなたのお帰りをお待ちしていたのではありません。 〈3961〉白波が寄せてくる磯のあたりを漕ぐ舟が、梶を操る手を休める間もないほど、ひっきりなしに思い続けていたあなたです。 鑑賞 >>> 題詞に「相(あい)歓(よろこ)ぶる」とある大伴家持の歌。家持が赴任した越中には、幸いなことに、彼の下役に同族の大伴池主がいました。池主との詩文の贈答はすぐに始まっており、ここの歌は、天平18年(746年)8月に、所管の地域の戸籍に関する報告書(「大帳」)を朝廷に提出するため、大帳使となって上京した池主が、11月になって無事に帰還したの

    庭に降る雪は千重敷く・・・巻第17-3960~3961 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2023/12/29
  • 馬並めていざ打ち行かな・・・巻第17-3953~3954 - 大和の国のこころ、万葉のこころ

    訓読 >>> 3953 雁(かり)がねは使ひに来(こ)むと騒(さわ)くらむ秋風寒みその川の上(へ)に 3954 馬(うま)並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波(なみ)見に 要旨 >>> 〈3953〉雁たちは都へ使いに行こうと鳴き騒いでいるようだ。秋風が寒くなってきたので、あの川べりで。 〈3954〉さあ、馬をつらねて行こうではないか、あの渋谿の清らかな磯へ寄せる波を見に。 鑑賞 >>> 大伴家持の歌。天平18年(746年)3月の人事で、29歳の家持は宮内少輔に任命され、次いで6月に越中国守に任命されました。当時の越中国は、射水・礪波・婦負・新川郡のほか、羽咋・鳳至・能登・珠洲郡を含む8郡からなり、国の等級では「大国」に次ぐ「上国」にランク付けされていました。ここの歌は、越中国に赴任して間もない8月7日の夜に、国守の館で宴が行われ、その場で詠んだ歌です。こ

    馬並めていざ打ち行かな・・・巻第17-3953~3954 - 大和の国のこころ、万葉のこころ
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    ma2no_z32 2023/12/28