賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
*最近、この読書ノートの改訂版を、拙著『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、に第一一章、一二章として収録した。しかし、元のノートと改訂版の間には若干の異同があるので、このノートは元のままの形でここに残しておくこととした(二〇〇四年五月)。 いうまでもなく歴史研究入門の古典中の古典である(1)。私は若い時期にそれほど大量の古典を読まなかった人間だが、本書については、大学入学後まもない時期に読んだ。正確な時期や印象などについては記憶がおぼろになっているが、およそ一九六〇年代末のことであり、本書が元来刊行されてから数年後ということになる。それ以来、何度となく折りに触れて読み返したが、特に全体を精読したのは一九八〇年代末頃(これも正確な時期については記憶が曖昧になっている)と今回(二〇〇〇年)とである。およそ二〇年ぐらいおきにきちんとした再読に取り組んだということになる。 一九六〇年代に
この古典的な著作(原著は一九五七年、邦訳は一九六一年)のことを私がはじめて知ったのは、あまり記憶が定かではないが、おそらく一九六〇年代の後半、私が大学に入って間もない頃だったと思う。どういう文章を読んでポパーのことを知ったのかも覚えていないが、ともかく何かの解説を読んで、ある程度関心を引かれ、何となく分かったような気になり、しかし敢えて本そのものを読もうとは思わずに、うちすぎてしまった。 当時の私がこの本を読もうと思わなかったのは、反撥のせいではない。と書くと、事後的な自己正当化の気味を帯びてしまうかもしれない。かつて反撥して読まなかった本について、後になって、実は大事な著作なのだと気づき、過去の自分の不明を押し隠すために、「昔から、別に反撥していたわけではない。ただ何となく読む機会がなかっただけだ」と言訳する、というような心理作用はよくあることだ。私は、できるだけそうした自己正当化はすま
min2fly 言葉で煽るのも好きだけど、研究においては有無を言わさぬデータでガツンと攻めて、言葉はむしろ控え目くらいの方が好きだったりする *Tw* http://twitter.com/min2fly/statuses/846939022 min2fly 「こんなんなりました。どよ?」「ざわ・・・」みたいな *Tw* http://twitter.com/min2fly/statuses/846939816 _Ag_ @min2fly データでガツンで寡黙ってかっこいいよねー。歴史はそういうの考古学くらいしかできないのかな。「史料」も文献だと客観的データだと言い切るのが難しいから。 http://twitter.com/_Ag_/statuses/846945918 klov 客観的データでガツンという難しい。データは現状認識。その後どういう思索をすべきなのか、そこんところは言葉で煽る
その昔。 子どもが貧乏学者になることに、父はあこがれていたらしいのだが、実際に子どもが貧乏学者になってみると、唖然としているのか、そんな過去には触れなくなった。 今日、キトラ古墳壁画の展示を見に行ったのだが、1000円の図録が買えない。 貧乏って本当にイヤ。 当然ながら、一番必要なキトラの発掘報告書(どんな発掘も、報告書が出るまでは「仮説の仮説」)も買えない。 研究者が本が買えなくなると、サイテーだ。 まあ、この身体で勉強を続けているから、普通より身体の維持費がかかるのはしょうがないのだが、最近ちょっと度を超してないか。健康に関する出費は、予定通りに行かないから、突然、図録が買えないくらい貧乏になったりする。元々甲斐性がないのだから、先を見越して少し蓄えておけばいいのだが、そこら辺の知恵が足りない。 それにしても、今年は生き延びられるのか。いくら勉強してても、死んじゃったらおしまいだもんな
早稲田大と筑波大は20日、教育や研究の面で協力する包括的な協定を結んだ。早大の生命科学を含む理工学と、筑波大の医学の両学士課程を履修することで、両方の学士号を取得できるプログラムなどを検討。医学部のない早大の学生でも医学の学士号が取れることになる。 プログラムは、遺伝子診断や人工臓器など、理工学と医学の橋渡し的な研究をする人材を育てるのが目的。履修期間は最短で8年だが、学士入学と比べ、卒業前に両方の大学を行き来して学べるのが特徴だ。夏休みなどの利用を想定している。当面は、筑波大の学士編入学制度(定員5人)を利用する。早ければ来年度からの実施となる。 早大は研究分野では既に7大学と協定を結んでいるが、白井克彦・早大総長は「(今回のプログラムは)学生を共同で育成していくところまで踏み込んだのが新しい」と話す。筑波大との協定ではこのほか、古代オリエント学の単位互換や、情報・ロボット工学での共
百万遍で某学会。だめ。わたしも含めて(ちょっと反省)あそこにいた人みんながそれぞれの立場でだめ。ある立場を批判したレポもあってあのことはあのことでもちろんだめだけど(レポ書いた人もだめ。書くならどんなにひどくても最後までいなかったのは失敗だと思う。あと、細かいけど重要な事実や文脈を排除してあるところもちょっと気になる。もちろんそんな事実や文脈を考慮しなければ誤解されるような発言がいろんな人が集まる会場でなされたのは問題)、わたしは別の立場の人たちも同じようにだめだと思う。ところで、多くの人はなんであんなに「BL」や「腐女子」に対して肯定的(というか距離が取れない)なんだろうか。自分が「リベラル」であるという振る舞いができるから? もちろん評価できるところもあるけど、わたし自身はある点が気になって、どうしても諸手を挙げて評価することができない。 というか評価を保留しているようなところがある。
ぼくは、ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、*1 申し訳ありません。 〈異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場〉である記号学会の室井先生から見ると、 「どこに〈境界〉があるのか」 ということについては〈異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たち〉が全員一致している、というふうに見えるのかもしれません。 室井先生から見たら、永久保・石田・私が「一味」に見えるんでしょうね。でも永久保さんと石田さんと私とでは「なにが重要な境界なのか」についてはたぶんズ
昨今の気候変動などを「地球を守る」といっているニュースがあるが、つまるところ環境学は人類のための人類による研究だと思う。 経済学と生態学の学位を同時に取ったが、非常に似たような論理やモデルをみた。双方とも、基本的には行動学的に論理的にマクロから積み上げるか、統計的に相関関係からマクロから入るかで似ていた。しかし、当時違うかなっと思ったことは、「主観の入り方」である。 経済学は「効用」の最大化を最も効率よく行うことを目標にしているので、環境経済学も「人類の主観」を元に語られていた。たとえば、ある特定の動物(例えば、鯨とかイルカ)を人格化又は神格化して、彼らの「効用」を考えた場合、「他の動物には与えないのか」ということになる。まだ発見されていない深海の魚や小さい虫などは完全に無視されることになる。だから、主観的にしか環境を考えられない。 しかし、当時この「主観の入り方」が経済学と生態学の環境を
ホームページ/書き殴りINDEX / Living Will/友人のYONOSUKE君./傲慢な友人のkallikles君./ 小言 /last.fm/アンテナ ふと感じたことの書き殴り 2008/05/01 (木) 我が社は臨時休業日なる日。前々から予定されていて臨時休業とはこれいかに。 単に時に臨んで休むっていう意味なのか、それとも一時的であって倒産したわけじゃないという 表明のためか。 ごくろうさまなことに事務系は動いている。休業しているのは 教員だけみたい。火曜日と木曜日の授業回数をそろえる工夫なのだろう。 無理して14(あれ、15か?)にそろえる必要もないのではないかと思う。 14か15のどっちか、ぐらいでいいじゃんね。 東大路はバスが遅くていやなんだよな。京阪使った方が早いとかってことあるだろうか? さすがにそれはないわなあ。 百万遍。 なんか4月にはいって読書量が減ってる。連
日本記号学会第28回大会 遍在するフィクショナリティ 期日: 2008年5月10日(土) ,11日(日) 会場: 京都大学文学部 (京都市左京区吉田本町) 5月10日(土) 14:30‐17:30 シンポジウム・「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティーの現在」 http://www.jassweb.jp/2008/04/post_8.html なんかすごいシンポジウムだった。参加料1500円を払って参加したのに、「オヤジ(たち)の猥談」を延々聞かされた。あ、ありえねー。別に目ざさなくたって、このシンポジウムは十二分に腐っていた。悲惨。 真面目に書くと、セクシュアリティについて論じられている、基本的な主題についてすら、踏まえられていないトークが続いたという、あまりにもレベルの低いシンポジウムだった。クィアのクの字が登場するどころか、無頓着に「普通」という言葉が飛び交う。私か
さて、3日に唐組の初日に顔を出してからそのまま水戸入り。 4,5,6と三日間のバッタ公開も最終日の青空に救われて無事終了。 いろんな人が来てくれていろいろなことがあった。が、それはまた後日。 そのまま、息継ぎする間もなく週末は京大での日本記号学会の大会。 いやあ、今回もいろいろ考えさせられた。 今回は河田学君に企画を任せていたのだが、なかなかまとまらず、四月の初めに日帰りで京都に行き、急遽決めたのが初日の企画、 シンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティの現在」 だった。 遍在するフィクショナリティということから、携帯小説やblog小説、BLなどを扱おうということになり、「腐女子」に詳しい清田友則君に電話で相談。『やおい小説論』の著者である永久保陽子さんを迎えて、BLや腐女子についてのセッションをやることにした。基本的には永久保さんに30分くらいレクチャーしてもら
BLを「わかってる」ことについて、私は室井先生ほどの絶大な自信・確信はありません。私は自分がBLを「わかってない」ことを前提に、永久保さんに質問しました。それがなぜかジャンルの内輪の話をする〈「データベース型消費」者〉*1に見られてしまった。これは研究に値する、たいへんおもしろい現象だと思います。 シンポジウム中、以下のような会話(記憶により再現)が。 室井先生「パチンコが好きだからって、研究しないでしょう」 永久保先生「パチンコの研究もあると思いますけどね」 ここでいう研究は《パチスロ必勝ガイド》を買って勝つために研究する、というのとは違うものだと思いますが、それはともかく、室井先生は 「BLは批評に値しない」「BLなんて屑だ」 と何度も明言されました。上記パチンコをめぐる相違から推して、こういうことだと思うのです。誤解だったらごめんなさいね。 ・室井先生=世のなかには批評・研究に値する
本名で、日本記号学会初日のシンポジウムに聴衆として参加し質疑の時間に発言して司会者に罵倒され、2日目に石田美紀・奥泉光両氏とともにシンポジウムで討議しました。 初日の司会者である室井尚先生に、初日の質疑と2日目の討議の内容をブログ「日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了: 短信」で改変・改竄されております。 室井先生、まあそう力みかえらなくてもいいじゃありませんか。BLは先生が怯えてらっしゃるほど怖いものではありませんよ。そんなに怯えてらっしゃるから、永久保さんや石田さんや奥泉さんや私が言ってもいないことをブログにお書きになってしまうのですよ(先生のご名誉のために、ご記憶違いと判断いたします。大学人が理解できないほど難しい話をしてはおりませんので、これを理解力不足と言っては先生に失礼ですものね)。 日本記号学会にはお気の毒ですが、当方のおこなった発言を会員ブログにおいて
晴天の価値 2月中旬に出張で千葉へ行った。5日間の滞在中はずっと快晴で、気温は20℃に迫る春のような暖かさだった。仕事は朝から晩まで現場を走り回る過酷なもので、身体的にも精神的にも追い込まれた。毎朝、京葉線から見える美しい景色を眺めて正気を保っていた。太平洋へ燦々と…
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正直、突っ込もうかどうか悩んだというのもあるのだが。 周知の通り、はてな界隈には(俺を含め)情報技術者とか理系大学生が結構いるのだけど(以下略) ほとんどはてブで突っ込まれてしまっているので特に言うことはない。が、この辺の断絶というのは、ステレオタイプ化しているだけに意外に根深い。実際には、理系といっても工学と医学では大きく違う(最近は両者の架橋も進んでいるのだけれど)。まして数学あたりになると、領域が理系なだけでディシプリン的な部分は人文系に近い。 他方、この手の「理系コンプレックス」「文系コンプレックス」の根っこにあるのは、実は文系の方の問題。工学やプログラムの連中に言わせれば、世の中を仕切っている「ブンケイさん」のおかげで、自分たちの仕事は正当に評価されていない、まともな予算配分がなされない、このままでは世界に後れをとる一方、ということになる。だが、文系の中でも特に哲学や文学などの人
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