飯田勉もいなくなってしまった。 誰のことだかわからない、という人も「飯田馬之介」という名前でならわかるのじゃないか。 だが、我々の仲間内では、誰も馬之介だなんて呼んでなかった。我々というのは例えば、はらひろしだとか、今では多摩美の先生になっている片山雅博、斎藤紀生、同業のアニメーション監督・本郷みつる、角銅博之、それから出版業界の島谷光弘、さらにはなみきたかしだとか。 通夜、葬儀に集ったり、あるいはあまりに遠すぎて来られずメールでやり取りする中で、みんな「ウマノスケ」だなんて呼ばず、「勉」「つとむちゃん」「飯田君」といっていた。まだ「馬之介」でも「飯田監督」でもない、それどころか駆け出しのアニメーターにさえまだなっていなかった19歳、20歳の彼のことを知っていたからだ。葬儀場に飾られていた個人の写真何点かを眺める中にも、「ああ、これがいちばん勉らしいやね」と、口々にいっていたのが、1980