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アートと歴史に関するmo_sanのブックマーク (2)

  • 美術館・アート情報 artscape

    昭和5(1930)年に春陽堂から刊行された今和次郎と吉田謙吉による共著書。「モデルノロヂオ」とは、今が提唱した「考現学」(現在進行形の風俗の変遷を考察の対象とする学問)をエスペラント語に翻訳したものである。今は、大正12(1923)年の関東大震災後、復興とともに急速な変貌を遂げていく東京の風俗を観察、記録する作業を開始し、東京美術学校で今の後輩だった吉田もまたこの作業に加わった。彼らは、都市の「明」の側面のみならず、所深川の貧民窟をはじめとする「暗」の側面についても克明なスケッチを残しているが、同書はそうした観察記録の集大成と言える。同書に収められた膨大な情報のなかでも、大正14(1925)年に銀座で行なわれた定点観測調査に基づく「和装の女性99%に対して洋装の女性はわずかに1%」という数字は特によく知られており、「洋装」「断髪」のモダンガールのイメージでとらえられることの多い当時の女性

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    mo_san
    mo_san 2015/05/11
    この本を図書館で見かけたので読んでみた。実に細かい! 大正から昭和になったばかりの、東京の人々の風俗を、通行人の服装や表情までも仔細に記録している。
  • 歌川国芳 - Wikipedia

    画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。 寛政9年(1798年)、江戸日銀町一丁目[3][注釈 2](現在の東京都中央区日石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋[3](染物屋)を営む柳屋吉右衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。壮年時には向島に住む。 三囲神社碑文[注釈 3] によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で

    歌川国芳 - Wikipedia
    mo_san
    mo_san 2010/09/16
    生まれる時代が早すぎたひとだったのか。
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