「14歳で終戦を迎えて、疎開先の富山から東京の荒川区に戻りました。とにかく食わなければいけないわけです。15歳で千葉の浦安まで自転車で行って魚を仕入れ、みかん箱の上に置いて売りました」 梅の花本舗社長の高林博文氏は当時を振り返る。ただ、鑑札(営業の許可証)はなかったので、地元のテキヤがやってきた。「ショバ代払ったのか?」と睨まれ、木箱を蹴られ、革靴で額を割られた。高林少年は散らばったイワシを拾い集めて帰宅。水道水で傷口を洗っていると、父親が心配そうに声を掛けてきたが、理由は言わなかった。 「心配は掛けたくなかった。言えないですよ」 その後、イワシは「訪問販売」にして、雷魚やさつまいも売るようになる。そんな中、父親の友人から「リンゴの粉がある」との言葉。高林氏はこの粉末を「麦こがし」(はったい粉)のように売れないかと考えた。売り先は紙芝居屋だ。 「当時はヒマができると、自転車に乗って周囲を探