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先日夜中テレビをつけたら、たまたま小田実の番組をやっていて、すでに番組開始から20分ぐらいたってしまっていたのだが、その後最後まで、録画しながら見ることができた。 私が見たのは、2000年8月に放映された「正義の戦争はあるか・世界対論の旅」という番組で、追悼の意味で今回再放送されたようだ。なかなか興味深い内容だった。番組収録に関しての小田実自身の文章はこちらで読むことができる。http://www.odamakoto.com/jp/Seirai/000725.shtml この番組は、小田が、アメリカとドイツを訪れ、様々な人々と対話する、というものなのだが、対話の話題の中心となっていたのは、番組収録1年前に行われた、NATO軍のユーゴ空爆である。ちなみに、番組収録時は、アメリカ軍によるベトナムへの空爆の25年後であり、アフガン空爆の1年前、イラク空爆の3年前、ということになる。ユーゴ空爆は、
呉氏は、小田氏が「単純な反戦派」ではない、つまり、「単純ではない」と指摘する。それを指摘する自分ももちろん「単純ではない」と言いたそうである。 では、呉氏が言う「単純ではない」とは、果たしてどういう意味なのだろうか? 実はそれは、非常に「単純」なのである。呉氏は、どういう意味で「小田は単純ではない」といっているのか? それはつまりこういうことだ。「小田は大東亜戦争の二面性を40年前に強調していた。だから、小田は二面性をもっていたのであり、単純ではなかったのだ」。呉氏は、小田氏の主張を引用しつつ、こう言う。 日露戦争でアジアの新興国日本が大国ロシヤを破ったことはトルコなどを力づけた。太平洋戦争(大東亜戦争)も、結果的には敗北であったが、日本の奮闘はアジア・アフリカ諸国の励みになった。 ここから見ると、呉氏が言う「大東亜戦争の二面性」とは、どうやら「大東亜戦争は良い面と悪い面の二面があった」と
小田実さんが亡くなった。小田さんが30代で私は大学生になったばかりの若い頃、小田さんや鶴見俊輔さんらが作ったべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモによく合流した。学生運動が高揚していた時期で、革マルや中核といったセクトのデモ隊には入れないし、民青は嫌だしといった具合だったので、私のようなノンセクトは、べ平連に合流した。御堂筋でフランスデモをして、解散地点の難波近くに来るとジグザグデモになる。そうすると、機動隊の盾に鋏まれて、最後の100mが悲惨な状態になる。なにしろ、大阪府警の若い機動隊員は学生を目の敵のようにして、盾で押し、足を蹴飛ばしてくるので、倒れないようにするのに必死だった。倒れたら圧死するかもしれないからだ。べ平連でもこんな状態なんだから、セクトのデモ隊なんか入れるもんじゃない。京都府警は、学生に対しては寛容だった。円山公園で集会をして、坂を下りながら八坂神社から四条大橋まで
2003年12月23日号 アポロンの矢は大王に当たらない 兵士の犠牲強いる「大義なき戦争」 私は戦争というと、よくホメーロスの「イーリアス」のことを考える。ことに、自衛隊のイラク派遣が始まろうとしている今、考える。 私自身の試訳を使うが、「怒りを歌ってくれ、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの破滅の怒り。それはアカイア人に数知れぬ苦しみをもたらし、雄雄しい勇者の魂をあまた冥王のもとに送り、残されたむくろはだだ犬ども、ありとあらゆる鳥どもの餌食になった」(「アカイア人」はギリシア人の意)の詩句で始まってトロイア戦争を描いた「イーリアス」は、この冒頭の詩句が示すように、決して戦争賛美の叙事詩ではない。のっけから戦争の悲惨を歌い上げている。そして、ホメーロスによれば、彼の過去数百年前にあったはずの実在の戦いはいざ知らず、詩人が想像力を駆使してでっち上げたこの架空の戦争は、当世風に言えば、まったく大
今朝、選挙の結果はどないなったか思て、テレビをつけたらいきなり「小田実氏、癌で死亡」いう報せ。外はどしゃぶりの雨やんか。 小田さんが癌で入院してはるいうのは知ってた……。 小田さんは、痛みをこらえながら、夜中の選挙速報をきいてはったんやろか。民主党の圧倒的な勝利は夕べのうちにわかってたから、それをどんな思いで聞いてはったやろ。 それにしても小田さんの今朝未明の死いうのは、なんとも暗い先行きのまえぶれような気がする。 * わたしは小田さんと個人的な付き合いは全くなかったけど、小田実と聞くと、思い出せばいろんなことがあった……。 高校一年のときや。学校のかえり、本屋で「何でも見てやろう」を偶然手にして、買ったんやった。それ以来小田実の熱烈なファンになった。雑誌でもなんでも、小田実という名を見つけると、まるで恋人の名をみつけたように胸がキューンとした。本も雑誌もみな買った。 高校を卒業した夏、小
先日小田実さんの「随論」を読んで司馬遼太郎評に関して大いにうなずいたばかりだったので 亡くなられたのは本当に残念。 昨日お隣ブログになったところを読むと有名になった「何でも見てやろう」を 北杜夫か吉行淳之介か誰かが否定的にとらえていたのを初めて知ったが、 こういう都会的な繊細な神経の作家にとっては熱く人を促す言葉に反発を覚えるのも 無理からんことだろうと思う。バッグパッカーの増殖が小田さんのせいだったといえるのなら それにいらだちを覚えたのもわからないでもないけど バッグパッカーはもう時代の流れみたいなもんじゃなかったのかな、 一つの意識の突破口を開いた人として私はそれでも小田さんを評価する。 選ばれた人だけが海外に行ける、なんて選民意識から出る発想だよね、 私は自分探しのバッグパッカーより、さも選ばれた人間だと海外で同国人を 冷ややかに見ていた日本人の方を嫌悪する。 「箔」だけつけにきて
おやおや朝日新聞が社説で。そういうものかと読む。ベ平連の話から「その後」でイラク戦争が接合されている文章というのは珍妙なものだなと思った。文革もポルポトもない戦後左翼の歴史か。 こうした市民運動のやり方は、さまざまな住民運動のほか、のちの非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動にも影響を与えた。その原点をたどれば、組織よりも個人の自由な発想を大事にする小田さんの個性があった。 小田さんはその後も、阪神大震災の被災者救援や、憲法を守る「九条の会」などで、いつも社会にかかわっていくという姿勢を貫いてきた。 いま、イラク戦争に反対する声が世界に満ち、反戦デモもあちこちで見られるが、日本では大勢の人々が加わる反戦デモは影をひそめた。ベ平連が活発に動いていた時代の熱気は失われた。 沖縄で暮らしながら私は私なりにベトナム戦争の傷跡を探った。沖縄はベトナム戦争の当事者に巻き込まれていた。内地人に
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