タグ

ブックマーク / call-of-history.com (25)

  • 歴史の中の『女王陛下のお気に入り』の時代と登場人物たち

    1603年、女王エリザベス1世の遺言によりスコットランド王がイングランド王を兼ねる同君連合が英国に誕生しますが、その支配は不安定でした。1640年、国王の専制的支配に反抗して議会派とプロテスタント派の同盟による清教徒革命が起きて国王を処刑。しかし、その革命政権が独裁化すると、1660年、亡命していた国王の王子を復権させて王政復古が行われ、かと思えば復古した王政がカトリックを重視しはじめたことに反抗して、1688年、国王ジェイムズ2世を追放してオランダの君主オラニエ公を王に迎える名誉革命が発生と、十七世紀の英国は大きく揺れ動きました。 1688年の名誉革命によってスコットランド王兼イングランド王となったのがウィリアム3世です。彼は追放された王ジェイムズ2世の長女メアリの夫で、と一緒に即位しました。国王がウィリアム3世で女王がメアリ2世です。前国王ジェイムズ2世はカトリックを重視して、軍事力

    歴史の中の『女王陛下のお気に入り』の時代と登場人物たち
    morutan
    morutan 2019/02/02
    2019年2月15日より全国公開される『女王陛下のお気に入り』は、十八世紀初頭、フランスとの戦争状態にあるイングランドを舞台に、病弱なアン女王と女王の幼馴染で彼女に代わって政治の実権を握るレディ・サラ、サラの
  • 「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中世・近世を中心に日において人身売買がいかにして無くならず生き残り続けたか、を通史として浮き彫りにした文字通り「身売り」の日史の概説。 古代から中世にかけて、人はものとして売り買いの対象だった。鎌倉・室町時代を通して時の政権も例えば無理やり誘拐や騙して売り飛ばしたりといったものは不正とされたが人身売買そのものは禁止されなかったし、戦国時代は文字通り「人取り」という奴隷売買が国内のみならず海外向けにも行われていた。江戸幕府になっても禁止されたのは人商い業と人をかどわかして売る行為であって人身売買そのものは禁止されなかった。ただ、譜代下人から年季奉公へと雇用形態が変化したことによって人身売買の対象は大きく縮小したが、男性の人身売買はほぼ無くなったものの、いわゆる遊女・売女など苦界に沈めるという行為を通しての女性の人身売買は残り続けることになった。 何故江戸時代に女性の身売りは無くならなか

    「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    morutan
    morutan 2018/12/29
  • 「食糧の帝国――食物が決定づけた文明の勃興と崩壊」

    人類史における都市の繁栄を生み出したもの、それは糧の余剰と交易であった。余剰糧が富を生み、富が都市と社会、そしてそこで暮らす人びとの生活を繁栄させる。書は、その歴史上様々なかたちで現れてきた「糧を礎とした社会」、すなわち「糧帝国」の盛衰を通して、現代もまたその歴史上の「糧帝国」と共通する特徴を備え、それゆえに巨大なリスクを抱えていることを浮き彫りにする一冊である。 「糧帝国」成立の3つの条件1) 農民が自分たちでべる以上の糧を生産できること 2) 買い手に売るための取引手段が存在すること 3) 経済的利益をもたらすまで糧を保存できる手段があること 書によれば、古代メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマ、中国から大英帝国まで「糧帝国」は上記の3つの条件が成立することによって誕生してきた。すなわち、余剰糧の生産、取引の仕組み、保存と輸送である。歴史上、この料の生産

    「食糧の帝国――食物が決定づけた文明の勃興と崩壊」
    morutan
    morutan 2017/02/12
    食料生産における窒素固定の重要性とハーバー・ボッシュ法の解説。帝国的食料生産ということだとアメリカ他の巨大な胃袋とそれを満たす場所、システムとの関連から読み直してもおもろいかもしれない
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
    morutan
    morutan 2015/11/11
  • 「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著

    ビスマルクというと最近はすっかり第二次大戦中のドイツ海軍の戦艦、しかも美女ということになっているが、元々は鉄血宰相として知られた十九世紀プロイセンの政治家、ドイツ帝国建国の立役者で、芸術的な外交手腕で欧州にビスマルク体制として知られる勢力均衡を生み出したオットー・フォン・ビスマルク(1815~98)のことだ。彼の存在感は絶大で、日の明治維新の元勲たちもこぞって彼に憧れ、彼を範として近代国家建設に邁進した。 ビスマルクは確かにすごかった。十九世紀欧州政治に冠絶した存在であった。しかし、その手腕や影響力は実際どんなものだったのだろうか。ビスマルクの評価についてはその死後から、国民的英雄として神話化するものから後のヒトラーに繋がるナチズム的支配体制を築いたと断罪するものまで紆余曲折、激しい論争を経て、実証的なビスマルク像が形成されてきたのだそうだ。書は、近年の研究成果を踏まえて、等身大の政治

    「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著
    morutan
    morutan 2015/10/17
    『近年のビスマルク研究動向はどんなもので、ビスマルクはどう理解されているか、コンパクトな入門書としては申し分なかった』
  • 「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」大田俊寛 著

    二十世紀のオカルティズムの拡大と浸透の過程で現代日社会にごく当たり前の思想として受け入れられている霊魂観――「肉体が潰えた後も霊魂が存続し、輪廻転生を繰り返しながら永遠に成長を続ける」(P242)ことで、やがて「神的存在にまで到達することが出来る」(P22)という進化・成長する霊魂観――はオウム真理教や幸福の科学などの新新宗教から小説映画ドラマそしてアニメーションなどのサブカルチャーまで幅広く見られる共通の思想であり、ルーツを辿ると十九世紀の神智学に行き着くものだ。 書は日に限らず現代世界に広く行き渡ったこの「霊性進化論」の誕生からナチズムや人種主義、戦後の英米のニューエイジ運動、そして現代日のオウム真理教と幸福の科学に至る展開の過程と幅広い影響を概観する一冊である。 「霊性進化論」を生み出したのはオカルトにちょっとでも興味がある人には超有名人のブラヴァツキー夫人(1831~91)

    「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」大田俊寛 著
  • 「八月十五日の神話」佐藤 卓己 著

    八月十五日は何故「終戦記念日」なのか。通常終戦は休戦協定の締結を指すため、太平洋戦争の終結は重光葵外相・梅津美治郎参謀総長がミズーリ号上で降伏文書に調印した一九四五年九月二日となり、これは米国の対日戦勝記念日を始めとして国際的な標準である。国内的にポツダム宣言受諾が決議された八月十四日ですらなく、ただ単に玉音放送がなされただけの八月十五日が終戦記念日とされ、国際的な公式の終戦日である九月二日は日では完全に忘れ去られている。 このは、玉音放送を巡る一枚の報道写真をきっかけにして、八月十五日が終戦記念日となっていく過程を描き出すことで、戦後のメディア、政府、知識人そして国民が一体となって築いた虚構と、メディアリテラシーとは何かを問い直す一冊である。 このによれば、八月十五日が全国的にお盆となったのは比較的新しい。明治五年(一八七二)、太陽暦導入以降「七月十五日」の解釈を巡って政府は新暦七

    「八月十五日の神話」佐藤 卓己 著
  • 江戸の庶民の味「天麩羅(てんぷら)」誕生の歴史 | Kousyoublog

    江戸を代表する料理として挙げられるのが「てんぷら」である。「てんぷら」がいつどのように誕生したのか、必ずしも定かではないが、「東京天ぷら料理会 東天会 天ぷらの起源と語源」によれば、「『料理道記』(1669)の「てんふら 小鳥たたきて鎌倉、えび、くるみ、くずたまり」が初出とされ」、「衣揚げの記述は「どじょうくだのごとくきり、くずのこたまこを入、くるみ・あふらにてあげる『料理献立集』(1671)」が最初」だという。一方、原田信男編「江戸の文化」では「寛延元年(1748)の『料理歌仙の組糸』に、「てんふらは何魚にても饂飩の粉まぶして油にて揚げる也」とあるのが天ぷらの文献上の初出」(P132)とされる。前者は言葉だけ、後者はてんぷらそのものを表しているという違いであろうか。 明暦の大火(1657)後の復興過程で、江戸の町には様々な屋台が登場した。特に防災都市化する過程で各地に設けられた火除地

    morutan
    morutan 2015/06/06
    エントリ最後にブックリスト。中世とか古代の食卓は生活史としてたのしいよねえ。天ぷらはポルトガルから伝来、とか、家康は天ぷら好きでとかの俗説びみょーと。菜種油は山本一力の小説(菜種晴れ)でも。
  • 「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著

    十六世紀初頭から十七世紀末にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家は強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続けた。フランスのように絶対主義体制の構築ができたわけでも、イギリスのように四方を海に守られていたわけでもなく、宗教戦争と度重なる国際戦争で疲弊し分裂した神聖ローマ帝国に、なぜオスマン帝国からの防衛が可能であったのか。その大きな要因として書は、ハプスブルク家における実証主義的政治の誕生を挙げている。 『書のテーマは単純で、オスマン帝国から国を守るという極限状況がハプスブルクに強いた、理想を追わず現実を直視するという心性が、十六世紀的な、世界を客観的、数量的に把握し分析するという技術と出会い、そこに強力な、説得力のある実証主義政治が生まれたというものである。脱魔術化しているという点において、この政治はすぐれて近代的な政治である。』(P229~230) この分析がとても面白い。もちろん、みん

    「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著
    morutan
    morutan 2015/01/24
    王の二つの身体に代表される想像空間を中心とした祭りごとからリアリスティックな近代国家へ移行していく過程について。16世紀文化革命を背景に合理的思考の導入、宮廷軍事局は帝国クライス思わせる。
  • 「フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史」ジャン・ボベロ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    フランスを代表するライシテ研究の第一人者による、フランス革命から二〇世紀初頭までのライシテが確立していく歴史を概説した一冊。現在のライシテが直面する変化についても若干の言及が加えられている。 『国教を立てることを禁じ、いっさいの既成宗教から独立した国家により、複数の宗教間の平等ならびに宗教の自由(個人の良心と集団の礼拝の自由)を保障する、宗教共存の原理、またその制度。国家と公立学校などの公的領域を脱宗教化することで、私的領域における宗教の自由を保障するライシテの公私二元論は、宗教的民族的出自から切り離された普遍的市民権のベースにもなっている。』(P9) 書では脱宗教化と世俗化とは明確に区別される。脱宗教化とは『法律によってライシテに基づく公教育や政教分離が制度化される過程を示し』(P10)、世俗化とは『市民社会と文化・習俗において宗教の影響が減退する過程を示す』(P10)。このでは前者

    「フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史」ジャン・ボベロ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    morutan
    morutan 2015/01/20
    『フランスを代表するライシテ研究の第一人者による、フランス革命から二〇世紀初頭までのライシテが確立していく歴史を概説した一冊。現在のライシテが直面する変化についても若干の言及が加えられている。』
  • 「革命前夜の地下出版」ロバート・ダーントン 著

    フランス革命前夜、十八世紀のフランスにおいて禁書、海賊版を流通させる地下出版の国際的なネットワークがあった。誹謗中傷、反権力、ゴシップ、性的・政治的ポルノ・・・およそ低俗とされる様々な出版物が、スイスなどフランス国外で印刷され、密輸業者によってフランスに運び込まれ広く行き渡る。その著者となったのが啓蒙思想家に憧れながら、啓蒙思想家になれず、階級社会の底辺でうごめく三文文士たち、いわゆる「どぶ川のルソー」たちで、い詰めた彼らの活動が、やがて革命を準備していく。 書は「の大虐殺」で名高い歴史家ロバート・ダーントンが幅広く史料を渉猟して1982年に書き上げたフランス革命研究の基書の一つで、後にアナール学派を代表する歴史家ロジェ・シャルチエとの論争でも話題になった。しかし残念ながら絶版。 (2015年10月に岩波人文書セレクションから再販されました) ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、

    「革命前夜の地下出版」ロバート・ダーントン 著
    morutan
    morutan 2015/01/20
    『フランス革命前夜、十八世紀のフランスにおいて禁書、海賊版を流通させる地下出版の国際的なネットワークがあった。誹謗中傷、反権力、ゴシップ、性的・政治的ポルノ・・・およそ低俗とされる様々な出版物』
  • 「イラク戦争は民主主義をもたらしたのか」トビー・ドッジ 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    2014年6月に建国を宣言して以来半年、極端なジハード(聖戦)主義とサラフィー(復古)主義をむき出しにした組織ISILがシリア・イラク地域を中心として中東を席巻しつつある。しかし、彼らはなぜ、イラクに登場してきたのか。 2003年のイラク戦争は、終結後、米軍の駐留にもかかわらず大規模な内戦をイラクに引き起こした。書は2005~2007年のイラク内戦勃発要因と、その後2012年までのイラクの安定化とマーリキー首相による強権的体制の成立、そして様々な不安定化要因について整理・分析した、「ISIL以前」を理解するのに最適の一冊だ。 第二次世界大戦以後におきた世界各地の内戦には3つの推進要因があるという。すなわち 1)非国家行為主体による暴力の利用を助長する社会のイデオロギー的傾向 2)国家の行政機構および警察・軍事機関の脆弱性 3)政治を形づくっている憲法的枠組みの性格 この相互に関連しあう内

    「イラク戦争は民主主義をもたらしたのか」トビー・ドッジ 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    morutan
    morutan 2015/01/16
  • 醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    古代日の調味料奈良時代から平安時代にかけて、貴族たちのあいだで儀式料理として唐の饗応料理の影響を受けた大饗(饗膳)料理とよばれる事様式が形成されるが、これはたくさんの料理を並べて好みに応じて調味料をつけてべるもので、使われた調味料は塩・酢・酒・醤(ひしお)であったという。 醤とは材を塩漬けにして発酵させたもので、動物性の魚醤・肉醤と植物性の草醤・穀醤とに大別される。魚醤は魚の内蔵を塩蔵したもので後に塩辛に、草醤は野菜・果物を塩漬けにしたもので後に漬物に、穀醤は米・麦・豆などの穀類に塩を加えて発酵させるもので後に味噌・醤油へと発展した。日へはまず草醤が最初に伝わったと考えられており、記録に残る古いものとして、孝謙上皇の女官から平城宮の料担当者にあてた請求書の文面として醤・酢・末醤(みそ)が挙げられている西暦763年頃と推定される木簡や万葉集にもいくつか醤や酢が詠みこまれた歌もある

    醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    morutan
    morutan 2014/12/24
  • 「<学級>の歴史学」柳 治男 著

    学校教育を巡るいじめ、不登校、体罰、学級崩壊などの諸問題についての議論の中で、ごくごく当たり前に自明視されている存在「学級」とはそもそも何であるのか、ということを、主にその成立の歴史を紐解くことで、「学級」が近代イギリスに誕生し、日で独自の「学級」が形成されてきており、その発展の過程が現代の学級を巡る諸問題の根源となっていることを明らかにした、非常に面白い一冊。 ここでは同書から、「学級」の誕生史を簡単に紹介してみる。 一九世紀に入るまで、生徒を年齢や能力で分け、一つの部屋に区切り、一斉に教授する「学級」は存在しなかった。修道院や民家など学校全体が一つの部屋や場所で、生徒は年齢や能力に関係なく集まり、教師はそこで一人一人の生徒に個別に教授を行う。 一七九八年、ロンドンにJ・ランカスターというクエーカー教徒の青年が貧民街の子どもたち向けに学校を開設、面倒見が良いという評判で、多くの子どもた

    「<学級>の歴史学」柳 治男 著
    morutan
    morutan 2014/10/24
    初期は一対一で教えてたけどそれだと時間がとられるので集団教育するようになり、その教授負担をすでに教えを受けた学生に教えさせるように分担させていた、というのは現在、逆輸入されてる感ある
  • イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー

    伊藤大一(2003)「ブレア政権による若年雇用政策の展開 若年失業者をめぐる国際的な議論との関連で」、同じく伊藤大一(2003)「イギリスにおける「アンダークラス」の形成 ブレア政権における雇用政策の背景」において、英国のアンダークラスとは何か、についてMacDonald.R.(1997)の説を以下の通り紹介している。 『「アンダークラス」とは、「社会的、経済的変化――特に脱工業化(de-industrialisation)――や、文化的行動諸パターンを通して、一般に正規に雇用された労働者階級や社会から、構造的に分化され、文化的に区別されるようになった階級構造の底辺に位置付く人々の社会グループないしは階級であり、かつ現在では、固定的に福祉給付に頼り、ほぼ永続的によち貧しい諸条件や地域の中で、生活するように限定された社会グループないしは階級のことである」』 統計上の失業者であると同時に、就業

    イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー
    morutan
    morutan 2014/10/18
    サッチャー以降のいわゆる新自由主義による福祉政策の削減の影響と「アンダークラスとはなにか」についての基礎的なまとめとして。個人的にはケン・ローチ作品の土台として(16あたり(cf.トレインスポッティング
  • アイルランドの海賊女王グレイス・オマリーの生涯

    序章 女海賊とは何か女海賊というとどうしても創作上のワイルドでセクシーな強いお姉さんとしてイメージされることが多い。 『伝統的に女性のものとされていない生活様式、つまり大胆で、移動的で、男性的で、海を放浪する生活を愛する女性たち。その象徴が女海賊である。男性や女性の観客が女海賊という存在に力強い喜びを感じるのも、そのためなのだ。彼女たちはその生活を選び、望む略奪品を手に入れる。女海賊が手に入れる略奪品は力であり、富であり、興奮である。海賊行為は、生きるためにおとなしく束縛されないですむ自由を象徴する。』(スタンリーP20) しかし、これはあくまで創作上のイメージであって、事実ではない。 歴史上、海上で掠奪や殺戮、戦闘を行うことを生業とする海賊として語られてきた人物は圧倒的に男性が多く、また実際、ほとんどが男性であった。しかし、女性がいなかったわけではない。海賊船に乗った女性たちはまず男性海

    アイルランドの海賊女王グレイス・オマリーの生涯
  • 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

    スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入

    1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
    morutan
    morutan 2014/09/22
    きっちり書かれてるので最後の方の「民族としてのスコットランド人の誕生」から読み始めてその経緯を追うようにしたほうがわかりやすいかも。イングランド/スコットランド/フランスな関係。
  • 「ジョージ王朝時代のイギリス」ジョルジュ・ミノワ 著

    1714年、アン女王の死によって神聖ローマ帝国の選帝侯の一人ハノーファー公ゲオルグ1世が英国王に迎えられ英国王ジョージ1世に即位、ハノーヴァー朝が開かれた。1714年から1901年まで続く同王朝は二期に分けることが出来る。ハノーファー公(1814から王国)を兼ねた四人のジョージ王によって統治された時期(1714~1830)と、ウィリアム4世(在位1830~37)を挟んで、ハノーファー王国との同君連合を解消してヴィクトリア女王によって統治された時期(1837~1901)である。一般的に前者の時期をジョージ王朝、後者をヴィクトリア王朝と呼んで、その特徴が語られることが多い。書はそのジョージ王朝時代についてコンパクトにまとまった一冊。 ジョージ王朝時代の四人の王――英国の統治に全く興味を持たずドイツから出なかったジョージ1世、英語をほとんど解さず意思疎通にも事欠くジョージ2世、反対に英国統治に

    「ジョージ王朝時代のイギリス」ジョルジュ・ミノワ 著
    morutan
    morutan 2014/09/17
    自分的にはスコットランドとイギリスの確執が固まった時代として関心あるところで良いタイミング >名誉革命を先駆けとして議会政治の土台を整え、責任内閣制を確立、ホイッグとトーリーの二大政党制が形成された
  • 「民衆の大英帝国―近世イギリス社会とアメリカ移民 (岩波現代文庫)」川北 稔 著

    十七・十八世紀に英国から新大陸アメリカへ渡ったのはどのような人々だったのか?書は移民の出自調査から当時の英国階級社会の実像を分析し、社会階層を反映した国内外の人の大規模な移動に大英帝国形成の過程を見ている。岩波現代文庫からの発売は2008年だが、原は1990年刊であとがきによると章のタイトル変更など最小限の改訂だけのようなので、四半世紀前のではあるが、非常に興味深い内容になっている。 当時、イギリスに限らず欧州からアメリカに渡った人々は『自由移民と不自由移民に大別され、後者はさらに、(1)年季奉公人、(2)リデシプショナー、(3)政治犯・浮浪者などを含む囚人で流刑となった者』に大別され、そのおよそ三分の二が『渡航費や生活費をプロモーターに支弁してもらう代わりに、プランテーションでふつう四年間の強制的労働に従事することを約束して、アメリカに渡った移民たち』(P3)すなわち「年季(契約)

    「民衆の大英帝国―近世イギリス社会とアメリカ移民 (岩波現代文庫)」川北 稔 著
    morutan
    morutan 2014/09/16
    移民の大部分を締めた年季奉公人について。下層階級な若者が国内の人身売買的マーケットでも職にありつけなく仕方なく海外移民・軍隊に参加していく様子。日本のブラック企業とか移民とか、ハワイ移民時の様子を想起
  • 「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉 著

    琉球史の第一人者高良倉吉氏が、東シナ海の中継貿易で栄えた琉球王国の姿を、琉球王国誕生前の三国鼎立時代から十六世紀末にかけての時期を中心に描いた一冊。 この時代の琉球史・琉球外交史については大まかなところを以前「琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史」で書いたので、そのあたりの歴史については割愛して、特に当時の東シナ海沿岸諸国と琉球の密接な関係を表すエピソードを少し紹介してみる。 十五世紀の琉球が馬の産地で、明国の対モンゴル遠征で大量に馬が輸出され、その協力への報酬として、海禁政策によって海外に出られない明人に代わり、琉球が独占的に中継貿易を行うことが出来たことは書を参考として別記事でも紹介したが、そのような冊封体制下で、琉球は明国と非常に密接な交流があった。 その代表的な例が「唐営」という華人の共同体の存在である。当時、琉球に限らず、海禁政策によって故国に帰

    「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉 著
    morutan
    morutan 2014/09/01
    当時の経済の中継点としての琉球のアウトラインとして