江戸に日本最大の城郭と城下町ができたワケ 家康は、将軍のお膝元となった江戸城と城下の整備にすぐさま着手する。 江戸城を居城と定めたことを受けて、関東の太守にふさわしい城郭と城下町の拡張に取り組んだものの、なかなか思うように進まなかった。秀吉により東奔西走させられた結果、江戸を長く留守にせざるを得なかったことは大きかった。 しかし、名実ともに天下人の座に就いた以上、その行動を束縛する存在はなくなる。家康は自分の意のままに、江戸城と城下町の拡張を推し進める。 かつての秀吉のように、諸大名を動員して工事にあたらせたのだ。秀吉の命により伏見城の築城に動員された経験を持つ家康だったが、今度は立場が替わって諸大名を動員できる立場となる。 天下人として、そのお膝元たる江戸城と城下町の拡張工事の手伝いを諸大名に命じたが、これは「天下普請」と呼ばれた。 それまでは徳川氏のみで工事は進められたが、江戸開府後は
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