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namgenのブックマーク (1,744)

  • 風は降雨を呼びにゆく - M’s Library

  • 2009-05-29 - アンモナイトの対数螺旋

    2009年の5月27日の深夜、私は品川駅からほど近いホテルで交際を始めたばかりの恋人と初めての交接を試みていた。幾つかの弦楽器を弾く彼の指先は柔らかく、私は日付も時間も忘れていた。 精を出し、私の身体にもたれて果てた彼の肩を少しどけ、時計に目をやったとき、その時刻は私にフラッシュバックを引き起こした。 私に一目惚れしたという彼は、私の人格を完璧に二の次にしているという時点で素敵だ。私のネガティブさを非常に嫌っているということは、なぜ、私を愛していると言えるのかという疑問に繋がる。 「俺はもう、君のものだから、いくらでも痕をつけて」華奢な身体を差し出した彼に再びフラッシュバック。幾つも幾つも身体に赤い内出血を作り上げると、彼は安心したように眠り、私は小さな声で歌を歌った。 一億と二千年経っても愛してる あのころ、私は言ったんだ。「その曲、何かのアニメ?」彼はすぐに音楽を止め、その曲を聴かせて

  • 坂のある非風景 嘘は愛なのか

    だれかの「雨だわ」という言葉を目にしたり耳にするだけで、もう何週間も雨を見ていない。でもこれは、もうずっと雨に濡れるだけで雨を見ていないと書いてもいい。「また雨なの?」。ちょうどフェリーニの『女の都』のタイトルバックで「またマルチェロなの?」という声が入るが、それと同じ、飽き飽きとした調子で「また雨なの?」と呟いてくれてもいい。どちらにせよ、雨を見ようと見まいと、私はそれによって何も語れない。 そうして、ただ語らぬために語ることによって沈黙に加担せよ、と自分が自分に語りかける夜があり、その沈黙さえ虚偽を語る夜がある。虚偽を語りはじめる夜を愛さなければならない。沈黙のために沈黙することではない。沈黙のために語ることでもない。沈黙のために語るのに、語ることによって語ることそのものを裏切る夜、詩はそこに始まる。 大切なひとに 大小さまざま色とりどり てんこ盛りの嘘をついて 大切なひとを 大切にす

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1300.html

  • 吉本隆明『転位のための十篇』

    隆明『転位のための十篇』について(「樹林」1999年秋号より)      「詩とはなにか」という問いには、それこそ詩人の数だけ(あるいは更に多くの)答えがありそうだが、私にとって最も衝撃的だったのは、二十八年前に出会った次のようなものである。   詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。 (吉隆明「詩とはなにか」)    今となってはどこか懐かしさを覚えさせるほどに真っ当なこの定義にこそ、私たちの現代詩が希求しつつもいつかどこかの棚に置き忘れてきた、ある普遍的な真理が潜んでいるように思われてならない。吉自身、このような考えを少年時代からの「妄想」と呼んでいるのだが、この「妄想」には現実からの抑圧をかろうじて解消するための必然性がこめられていた、とも書いている。詩作品においても、  

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1298.html

  • 『アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78, Not A Through Street』

    ノット・ア・スルー・ストリート~アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78 酸いも甘いも何とやら、それまでの至高の音色を枯らし、よりアグレッシヴに攻めまくる後期アート・ペッパーの最高傑作。去年1980年のパリとロンドンでの未発表ライブが発売されたが、同メンバーでの作のほうが上。というか、これはヴィレッジ・ヴァンガードを越えているかもしれない。 ピアノのレヴィエフが当に素晴らしい。まことに申し訳ないが、レヴィエフはジョージ・ケイブルズを完全に凌駕している。その才気と美しさ、激しさはコルトレーンを消化した後期ペッパーにぴったりである。 リズム・セクションも何ていえばいいんだろう、とにかくすごいんだ。ペッパーがえらく気に入っていたというのも納得できる。特にマグヌソンのベースの鳴りはただ事ではない。 それにこのライブは観客の温かさ、興奮がもろに伝わってくる。いうまでもなくライブでの観客から

    『アート・ペッパー・ライブ・イン・ヤマガタ’78, Not A Through Street』
    namgen
    namgen 2009/05/28
  • 中央日報日本語版 エラー

    중앙일보 일본어판 サービスをご利用中のお客様にご迷惑をおかけして申し訳ございません ホームに戻る Copyright by Joongang ilbo Co.,Ltd. All Rights Reserved.

  • 約束のない再会の雨が降る ひとは何も失うことができない

    見舞い。約束によれば、甲ヒロトの清志郎葬儀の追悼文を読むこと、清志郎のCDを持っていくこと、それと「村上春樹を読んで」と言われた。ほとんど果たしたが、村上春樹の朗読だけはしたくないし、彼のもない。別のにしてもらいたい。 引っ越したまま開けてもいない段ボール箱からラジカセを取りだした。のものだったので、触れたこともなかった。そこにはCDとカセットが、が入院する2年以上前のまま入っていた。カセットは椎名林檎の「勝訴ストリップ」で、CDは子どもの英会話の教材だった。の入院を機に送り迎えができなくなり、その塾はやめたが、最後の日、先生からお菓子をもらった。ほんの数回だったが迎えに行った。塾が終わる時間、扉から出て、私の車に向かって走ってくる子どもの姿が今でも焼き付いている。私が子供のころ、やはり塾を出たところで父が迎えに来ていたが、その父の記憶に何が焼き付いていたか、知ったように思った

  • スリランカ内戦終結、雑感: 極東ブログ

    スリランカ内戦が終結した。この話題は大手紙の社説で読まなかったように思う。私の読み落としでないとするなら、重大なニュースとは判断されなかったのだろう。私はというと、この数日この問題について考える度に重たい気分になった。ブログに書くべきか悩んでいた。 スリランカ内戦には四半世紀の歴史がある。根は民族紛争とイギリス植民地政策だ。スリランカ人口の七割を占めるシンハラ人は、シンハラ語を使い、仏教徒が多い。二割はヒンドゥー教徒のタミル人だが、これにはその三分の二がスリランカに定住していたタミル人であるのに対して、植民地政策でインド領から強制移民させられたインド系のタミル人がいる。植民地時代にはタミル人が優遇されていた側面もあり、シンハラ人によるイギリスへの反抗もあった。 1948年、スリランカはイギリス連邦(コモンウェルス)として、「セイロン」国名で独立した。前年の議会選挙ではシンハラ人が多数派とな

  • 史実に立つ頭打ちシナの現実 - Wein, Weib und Gesang

    ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546) ジョン・ラーベのことが記事となっている。同じ史実に纏わる二つの映画中国での大反響をマルク・ジーモンスが伝えている。片や未だ嘗てないドイツ映画の成功であり、片や中国商業映画史上最大の成功作品なのである。 特に目新しい面はないようだが、中華作品「南京、南京」の内容にも触れており、両作品のトレーラーなどを纏めてネット掲載してあるので便利である。 それによると中華作品では大日帝国陸軍の兵隊の目で描かれる小型カメラ視線での情景が少なくないようで、虐殺を加害者の人間的目で描いているらしい。 これで思い出すのは、朝日新聞などが田中角栄の金脈外交によってなされた日中国交回復時に取ったような中日人民の友好的関係の視線なのである。「罪を憎んで人を憎まず」と言うか、何一つ意味を齎さない「人類兄弟、

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  • 日本振興銀行への二重譲渡の件とSFCG資産流出問題について - やまもといちろうBLOG(ブログ)

    えー、件だけで2,000億円級であります。 破綻SFCG、元会長周辺に資産次々と流出 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090520-OYT1T00548.htm 元ネタを出していたところを日振興銀行が訴えた(ようだ)という不思議な展開があり、ちょっと風速が上がりつつあるのですが、モノによっては二信組問題とかイ・アイ・イ問題とかより重大な事件になるかどうかといった按配です。 大島さん関連で言うと、SFCG被害弁護団の基的な調査能力不足があって、イマイチ進みが悪く、もたもたしている間に親族企業への資産譲渡が2,670億円あまり、譲渡先複数あれば損害額は下手すると数倍というような情勢になってしまい。 一般論ですが、ハイエナ系弁護士の問題というのはグレーゾーン金利を解決したい多重債務者などの救済を掲げておきつつも、SFCGに限らず他のノンバン

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  • アドリアン・ファン・オスターデという画家 Adriaen van Ostade, peintre néerlandais | A VIEW FROM PARIS パリから観る --- Le savoir, c'est le salut ---

    2001年、突如フランス語に目覚め世界が広がる。日常の偶然を愛し、そこから物語を紡ぐのが人生との思いに至る。ここでは2007年秋から始めたパリ生活を綴ります。paul.ailleurs@gmail.com by paul-paris

    アドリアン・ファン・オスターデという画家 Adriaen van Ostade, peintre néerlandais | A VIEW FROM PARIS パリから観る --- Le savoir, c'est le salut ---
  • ナ・ホンジン監督・脚本「チェイサー」(★★★★★) - 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

    監督・脚 ナ・ホンジン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ソ・ヨンヒ これは非常におもしろい。元警官がデリヘル斡旋をやっている。その元警官のたいせつな金づるが消えてしまう。どこへ消えた? それを追っているうちに、猟奇的な殺人者と出会う。彼がデリヘルを殺していたのである。犯人はわかっている。その犯人を元警官はつかまえる。それなのに、追いつめることができない。この矛盾。そこがおもしろい。 そして、その捕まえたのに追いつめられないという「矛盾」のなかに、人間がなまなましく浮かび上がってくる。「社会」が浮かび上がってくる。 犯人は、女を殺しました、とあっさり告白する。どんなふうに殺したかを、簡単に語る。異常性を平然と語る。それなのに、彼は釈放されてしまう。現在の法律では、きちんとした「証拠」がないと、公判を維持し、「殺人者」を裁くことができないからである。犯人は、それを知っている。そして、警官

    ナ・ホンジン監督・脚本「チェイサー」(★★★★★) - 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
  • ■ - 富柏村日剩

    五月十八日(月)目覚めたら朝の七時。暑さに疲れたか熟睡でこんな時間まで目覚めないなんて。急いで荷造りしてホテルをチェックアウト。タクシーでチャンギ空港。だいたい朝起きて読みたい新聞がない物足りなさ。この国ではIHT紙だつて目の敵。空港ではネット接続が無料と謳ふがアタシのMacBook Airからはつながらず。Airport Expressの走行中の車内からしつかり繋がる香港は……とつい香港居民は宿敵のシンガポールや上海の不満を言ふ(笑)。実はちよつとこの数日感冒気味で今朝は熱つぽいが発熱なんて重病だとどんな社会的制裁加へられるか、幸ひ体温計では36.8度でアタシとしては高熱だが社会的には平熱で鎮痛解熱剤飲み、ちよつとふら/\するがCXの機内ではノートブックにむかひ香港までお仕事。ガキが乗り物の中などでゲーム機でピコ/\五月蝿いのはまだしも機内で携帯のゲーム機能でピコ/\五月蝿い五十くらゐの

    ■ - 富柏村日剩
  • [谷川雁] - Rowing to another dawn.

    namgen
    namgen 2009/05/20
    [][読み物][谷川雁]
  • 昨日の会話 - 記憶の彼方へ

    絵がうまくなりたい...

    昨日の会話 - 記憶の彼方へ
  • 水 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    先頃入手した一冊の文庫について書いてみたい。 佐多稲子著『女の宿・水・人形と笛 他七編』。カバーの表には、大柄の葉をもつ草花と「女の宿」の文字が彫られた版画(芦川保)に、明朝体で佐多稲子短篇集という墨文字が乗っている。素朴な味わいのある好い装訂だ。三十年あまり前に刊行された旺文社文庫の一冊で、収録された小説十篇には未読のものも少なくないが、これを購入したのは表題にもなった「水」を再読したいと思ったからである。 「水」は文庫にして九頁たらずだが、巻末の解説で坂上弘が「処女作の『キャラメル工場から』をほうふつさせるような素材の「水」は、佐多さんの領であり、一つの頂点でもあるだろう」と書くように、短篇の代表作の一つといっていいだろう。以前この小説を読んだのは、大江健三郎の『小説の経験』(朝日新聞社)に収められた「中野重治、佐多稲子の水」がきっかけである。大江はTVでの連続講演をもとにしたこ

  • Grandfather's Journey - 記憶の彼方へ

    Grandfather's Journey (CALDECOTT MEDAL BOOK) ある英語の絵(写真上)を同僚の山内さん(数学寺子屋主催者)が薦めてくれた。この絵のことはまったく知らなかった。私のつたない道北紀行を読んだ山内さんは、その底に流れているかつてサハリンで暮らした今は亡き祖父母と父のサハリンへの思いに重なる私の思いや私なりの「故郷論」の萌芽のようなものを感じとって、この絵を遠く連想したようだ。早速、図書館で借りた。この絵と一緒に並んでいたアレン・セイの他の絵(写真下)も借りた。大島英美訳『おじいさんの旅』(ほるぷ出版、2002年、asin:4593504163)はなかった。 アレン・セイ(Allen Say, 1939–)の Grandfather's Journey(Houghton Mifflin, 1993)は、1994年にアメリカで最も優れた絵に贈られ

    Grandfather's Journey - 記憶の彼方へ
  • Just passing by... - 記憶の彼方へ

    The Sign Painter アレン・セイは、Grandfather's Journey のカルデコット賞受賞式の挨拶のなかで、夢と現実の関係について興味深いことを語った。少なくとも彼自身にとって大切なことは、夢と現実を分けることではないという。僕らは何かを捨て、何かを選び、その結果を引き受けながら生きている。大切なことは、その背後にある意味に気づくことだ、と。 The Sign Painter は、正にそのような夢と現実の関係を主題にした物語である。 早朝、ある町に一人の若者がバスから降り立つ。腹を空かせた彼はその町で仕事を探す。ある通りで見つけた看板屋(a sign shop)に飛び込んだ若者は、そこの看板描きの男(a sign painter)に、絵の腕を見込まれ、彼の助手として働くことになる。生活は保障された。飢えなくてすむようになった。ある日男のもとに砂漠で12枚の看板を描く

    Just passing by... - 記憶の彼方へ