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namgenのブックマーク (1,744)

  • 震災と英メディアに翻弄された友人

    イギリス時間3月11日の朝、僕は長い付き合いの友人、マークから携帯メールを受け取った。日で地震があったという。 その後の数日は、僕にとっては奇妙な日々が続いた。かつて僕がさまざまに報道してきた日という国が、突如として世界中のメディアの注目を一身に集めている。マークにとっても奇妙な感覚だったろう。自身がそのニュースに巻き込まれているのだから。 マークは僕よりも後に日にやって来て、東京で数年教師として働き、宮城県出身の女性と結婚した。そして今、震災によって彼の義母と義兄弟が行方不明になっている。現在はイギリスで暮らすマーク夫は、彼らの消息を必至になって探していた。 マークはイギリス外務省に連絡したが、彼の義母らはイギリス人ではないということで、在英日大使館に問い合わせるようにと言われた。日大使館は、イギリス外務省に尋ねるようにと言ってきた。 マークのは家族を行方不明者リストに載せ

  • 瑞雲山中原寺

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    namgen 2011/04/08
  • イシタキ・ファイル HOME - 【イシタキ・ファイル HOME】= イシタキ・ファイル では石瀧豊美の作品を集成していきます。

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  • 岬の先をゆく孤立がことばの遠さとなっている - M’s Library

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    namgen 2011/02/04
    反射鏡を手に、岬の延長をゆく船を見送れば/眠れる夜の夢をみる猫が鳴いている/反射鏡を手にすれば死後を泣ける/鋏を手にすれば死後を泣ける
  • 約束のない再会の雨が降る

    母がいっしょにべようといって鯛の刺身を冷蔵庫から取り出す。きっとスーパーでこの刺身を見たときに、わたしにべさせようと思って手をのばしたのだろう、自分がべたいのではなく、と思った。ほんとうは自分がべたいだけで、それをだれかにべさせたいという口実で買ったといった人間的な解釈がほしかったのに、ここには動物的な、子どもに餌を与えるといった純粋なメカニズムに近いものが機能しただけだった。いざべ始めると(案の定)母は、自分は一切れでいいと言い出す。わたしは満腹だったのである。 ここ二日ほど母の作った赤飯をべている。母はむかしから赤飯が好きだったのではないかと突然気づく。むかしというのは、もしかしたら子供の頃からということで、子供の頃から変わらずに持ち続けるものはひとつの奇蹟というほかなく、そこには奇蹟的な出会いがあったからにほかならない。たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと

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    namgen 2011/02/04
    『たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと、時代の哀しさに行き着く。』
  • 三島由紀夫の「素面」 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    藤田三男さんは河出書房の編集者時代に三島由紀夫のを何冊も手がけていられる。編集者として見た三島由紀夫の「素面」を書きとめた文章は、装丁を手がけたの書影とともに『榛地和装』『榛地和装 終篇』の二冊の著書に収められているけれども、なかでも印象深いのは自裁した1970年夏の三島の表情をとらえた一文で、三島は現今の文壇の沈滞に呪詛の言葉を投げかけ、ノーベル賞の受賞を逸した原因について語り、執筆中の「豊饒の海」が完結してもなんの話題にもならないだろうと悲観をこめて予見したという。 「すでにこの時、一個の文学作品が文壇において評価されいかに問題にされようと、その事自体に「欠伸をして」いる三島由紀夫がいた。三島さんの底知れぬ焦立ちと荒廃を感じ、私はただ黙って聞いていた。」*1 と藤田さんは書いている。あらゆることに絶望し、絶望した涯にあらゆることに倦んだ一人の天才がここにいる。すでに長く生き過ぎ

    三島由紀夫の「素面」 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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    namgen 2011/01/30
    いいようもない、が。実録モノ。
  • 坂のある非風景 カッサンドラーの予言

    カッサンドラーはトロイア王、プリアモスの娘である。アポローンはカッサンドラーの美貌に懸想し、求愛する。自分の愛を受け入れれば「百発百中の予言能力」を授けるとカッサンドラーを誘惑する。カッサンドラーはそれを受け入れ「予言能力」を手に入れるが、その瞬間「アポローンに弄ばれたあげく、捨てられる自分の運命」を予言してしまう。 愛を受け容れる条件はその愛が愛ではないことを知ることだった。ついこれは残酷な愛の不可能を語っているのだろうと読んでしまうわけだが、待てよ、誰だって受け容れた後でそれが嘘だと気づく、そうじゃないのか。いつでも予言は疑いだけを真実に変え、知りたくないことだけを知らしめる。 避けることのできない運命とは、極端な言い方をすると過ぎ去ってしまったことである。過ぎ去ったのに気づかなかったことが遅れてやってくる。犯してもいない罪に罰がくだされるときは、知らない場所で知らない罪を犯していたこ

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    namgen 2011/01/28
    「誰も信じない」ためにこそ予言があり、「信じられる」運命がある。
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    namgen 2011/01/10
  • 「わからない」とは何か - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    今朝(12月28日)の朝日新聞に斎藤美奈子が書いている「『わからない』の効用」と題する文芸時評を読んで、前回書いた「『が』という地獄」に通じるところがあったので、急ぎ書いておきたい。そろそろ家の掃除だとか正月を迎える準備だとかしなければいけないのに、こんなことをしていていいのだろうか。 斎藤美奈子は「文学界」の島田雅彦へのインタビューを引用して、こう書いている。 「〈「近代文学」の耐用年数が過ぎ、先細りしていった三十年だった〉と彼は総括し、文学史的知識や純文学のコードが1990年代に瓦解した後は〈安易な感動や予定調和の波瀾万丈、シンメトリックな起承転結の構造などを伴ったウエルメイドな作品が増え〉たと述べる。だからこそ〈まったく反対の作風の人材も送り出すべきだとは思っていましたね。生物多様性ではないけれども〉。」 さらに「新潮」1月号の中原昌也の「自伝抄」の「わからないものはみんな偉そうで高

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  • ひとつの時代 - アグリコ日記

    戸外は雪景色になっていた。真綿を敷き詰めたように、木々も地面も生来の色を失くして、ほの白く輝いていた。その中に男が立っていた。黒ずんだ服を身につけた男が3人。きれいな三角形を描いて雪の中に立っていた。いずれも細くて背が高く、同じ顔、同じ服装をしていた。男は雪の中で踊る。一方の膝を真横に上げて菱形の右半分を描き、降ろしてもう片方の膝を上げ、残り半分の菱形を描く。動作は3人とも寸分の狂いなく、軽やかでまるで重さがないように見えた。それどころか足が地面についていない。空間に浮かんだ彼らは向い合わせた鏡の世界のように、動きがまったく重なり合っていた。雪は細かく静かに降り続く。男たちは静かに踊り続ける。それは私に向けてのダンス。次の瞬間私は布団を跳ね除け飛び起きたのだったが、それは不可思議な男たちの存在に対してというよりも、一晩でこんなにも雪が積もってしまっていたということに驚いたからだった。そう、

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  • 記憶の彼方へ020:未生の記憶のアンソロジー - 記憶の彼方へ

    私が生まれる前に撮られた、私の知らない彼と彼女の写真を見ていると、不思議な気持ちになる。写真の外側の世界ではその後彼と彼女は私の父親と母親になり、しばらく前に亡くなった。死によって、彼らは写真のなかの私の知らない彼と彼女に還って行った。そして写真のなかでは私の知らない時間が今も流れていて、その気になれば私もアリスのようにそこに入っていける。そんな錯覚が現実味を帯びることがある。 関連エントリー 記憶の彼方へ001:私の知らない祖父母(2008年02月27日) 記憶の彼方へ002:私の知らない父と私(2008年09月17日) 記憶の彼方へ003:幼い兄弟(2008年12月02日 ) 記憶の彼方へ004:父母の遺影(2008年12月27日) 記憶の彼方へ005:あやめヶ原の祖母(2008年12月28日) 記憶の彼方へ006:私の知らない私(2009年12月07日) 記憶の彼方へ007:私の知ら

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  • 阿弥陀経の六鳥「舎利」 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く

    報恩講も忘年会もクリスマス会も終わって一段落。先日楽しみにしていた『阿弥陀経講義』のが届く。バタバタしていて送金出来なかったけど、明日郵便局に行きます。 ここ二週間ほど探していたことがある。仏説阿弥陀経に描かれる浄土の六鳥、鳥の一つ「舎利」とは何だろう、ということ。何人にもたずねてみたが、誰もはっきりしなかった。 また次に、舎利弗、かの国には常に種種の奇妙雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅の声を出だす。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この声を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。『仏説阿弥陀経』(聖教電子化研究会  http://www.icho.gr.jp/seiten/html/127.html より ) ネットでじっくり検索してみると、この「舎利」は「百

    阿弥陀経の六鳥「舎利」 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く
  • 過去の記事|仏教情報出版の佛教タイムス社

  • 『スティーヴィー・ワンダーとロボットがコルトレーンの「ジャイアントステップ」を』

    スティーヴィーがジャズやるのは知ってたけど、コルトレーンははじめて見たぞ。 それよりもすごいのが、ロボットに高速で吹かせた'Giant Steps'。情念が空っぽで、当に曲をなぞっているだけ。かくジャズの対極的演奏はまずないだろう。衝撃的である。 ちなみに家。

    『スティーヴィー・ワンダーとロボットがコルトレーンの「ジャイアントステップ」を』
  • 鈴木清の幻のCD-ROM『漂う水、女――ナジャ』 - 記憶の彼方へ

    鈴木清(1943–2000)が生前刊行した8冊の写真集の表紙。『愚者の船』以外はすべて自費出版。 鈴木清の生前のインタビュー記事の最後に「幻のCD-ROM」の話が出てくる。 質問:写真集、写真展、雑誌の連載などがありますが、最近のデジタルという媒体についてはどうですか。 鈴木:いやおれ、CD-ROMあるんだよ。幻の。150点写真はいっているんだ。 質問:えっ!あるんですか。それは知らなかった。 鈴木:出来てんの。出来たんだけど。事情があって出版がダメになってしまった。世に出すのを。ぼくの手元にあるんだけど、それを上手くプレスすれば商品化されるんだけれど。まさに幻のCD-ROMですよ。自分で編集して、ムービーも、音も入っているんです。見て下さいよ。タイトルは“漂う水、女――ナジャ”ですよ。ぼくも結構サーカスの女など旅先で拾った女性の写真が多いんですよ。インターネットとかパソコンは自分独りで見

    鈴木清の幻のCD-ROM『漂う水、女――ナジャ』 - 記憶の彼方へ
  • 曇り - finalventの日記

    という雰囲気。雨も降るらしいが、これが冬の空でもあるよなと思う。 昨日、ツイッターで人類経済学的なことをつらつらツイートしていた。吉隆明やカール・ポランニなどを読み始めて四半世紀もたったせいか、彼らの考えから離れてきている。簡単にいうと、貨幣というのは、市(いち)における女集団の売春から生じるのではないかと思っている。簡単にいうとトンデモなんで、もうすこしマイルドな多層モデルにして史実との整合を取る必要はあるでしょうが。が、というのは、このモデルから、男が傭兵と単純労働による貨幣化となる。で、王権はその途中に、女集団と市と貨幣の関係が生じるのではないか。従来の吉・ポランニ的なモデルだと、集団と外部ということで外部の臨界が幻想域を作り出すというものだった(と見る)。しかし、外部というのはおそらく女集団が売春のために生み出すしかけなのではないか。 このモデルの最大の難点は女集団とはなに

    曇り - finalventの日記