広告と批評について考えてみたい。休刊した雑誌『広告批評』の話ではない。広告と批評という、水と油が溶け合った話だ。 東京五輪・パラリンピック開幕を控えた今年7月、開会式の作曲担当に抜擢された小山田圭吾をめぐって大炎上が起こった。四半世紀ほど前に音楽雑誌などで語ったいじめ加害の“武勇伝”が問題視されたのだったが、小山田への糾弾が苛烈になる一方で、形ばかりの謝罪でお茶を濁した音楽ジャーナリズムに対する批判も噴出した。読者や関係者だけでなく、一部とはいえミュージシャンからも声が上がったレアケースだった。 あげく、雑誌側がアーティストに無断で話を面白おかしく盛ったんじゃないかという疑惑を発端に(後に小山田は、記事に事実の歪曲があることを認めた)、ほとんどの音楽誌が、広告出稿をインタビューや新譜レビュー掲載の条件にしていること、つまりジャーナリズムや批評が、レコード会社から広告費をせしめるための手段に