東京都内で他線に比べて遅れている西武新宿線の連続立体交差事業が動き始めた。東京都は12月10日、東村山駅を中心とした区間の事業に着手すると発表。これに先立って、4月には同線初となる中野区の中井駅─野方駅間の事業着手を発表し、10月に施工者が決まった。それぞれの事業区間を歩いてみた。
亀ネタだが、8月2日頃のネタで、 東洋経済の記事で「流山市が若年人口流入のため、市長が旗振りして地域ブランディングしている」 という記事があり、「これは凄い」的コメントがはてブやツイッターで溢れてた。 不動産屋の自分から言わせれば、流山市の人口流入の99%はTX開業で説明が付く話であり、 それを市長の手柄にするような記事はチャンチャラおかしい。 1.そもそも、首都圏民が「どこにマイホーム買おうかな?」と検討する際に、行政サービスの充実度を参考資料にする人なんて1%もいない。 99%は物件自体の利便性広さ価格で決める。流山市が人口増えたのは都心距離の割にマンション安いから。行政政策の寄与度は少ない それを「人口流入は市長の手柄」という記事を書くからには、「市の政策と若年人口増に相関がある」ことを、東洋経済自身が行う必要がある。 例えば、ここ数年で流入した人に、ネット経由でも何でもいいから「な
東洋大学教授 根本祐二 今日は、私たちの身の回りにある社会資本が老朽化しているという話をしたいと思います。 日本の社会資本は1960年代の東京オリンピックの前後から、1970年代の高度成長期にかけていっせいに整備されました。それから40~50年を経過した現在、いっせいに老朽化しています。社会資本は物理的な「モノ」ですから、永久に使えるものではありません。安全に使い続けられる限界は概ね50年だといわれており、今後は、安全が保証されない社会資本が大量に登場してくるということになります。 すでに前兆があります。昨年の東日本大震災では、津波の被害がなく、かつ、現在の耐震基準である震度7に満たなかった地域でも多くの社会資本が壊れました。たとえば、東京の九段会館ではホールの天井が落ち2名の方がなくなっています。茨城県の北浦にかかる橋は途中で折れ、通行中の方が一人亡くなりました。千葉県の習志野市、
先日、日経ビジネスの取材で「団地」を取材する機会があった。 皆さんは「団地」という言葉に、どんな印象をお持ちだろうか。その昔、社宅に住んでいた私にとっては、団地は幼少児の原風景とも相まって、どこか懐かしい響きがあるのだが、その実態を取材して、団地が直面している厳しい現実を目の当たりにした。 住民の高齢化、物件の老朽化、空室の増加――。端的に言えば、団地は3つの構造問題を抱えている。日本の高度成長時代、都市部の住宅不足に対応するために大量に供給された集合住宅は今、その役割を終え、逆に負の側面が目立つようになっている。全国のいわゆる公的な団地は、300万戸近くある。日本の住宅政策にも、大きな影を落としている。 今回の取材では、そんな状況を打開する取り組みを追った。全国に約77万戸の団地を所有する都市再生機構(UR都市機構)が、京都市伏見区で団地再生プロジェクトを始めたのである。古い団地の部屋を
あすと長町では、災害公営住宅の住民リーダーたちと、仮設から災害公営住宅まで支援を継続してきたNPO、大学研究室等が、連携・協働する枠組みとして、「つながりデザインセンター(NPO法人)」という中間支援組織を設立する方向で準備を進めています。 そんな準備の様子を新聞各社が取材してくれましたので、ご参照ください。 河北新報 2016.6.23 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160623_13058.html 読売新聞 2016.7.14 http://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO004108/20160714-OYTAT50006.html あすと長町では、仮設住宅から継続して支援を実施してきた10数団体が、復興公営住宅でも連携して支援やイベントを実施することで、高齢者等が安心してく
先日、新橋の「環状2号線」建設現場にお邪魔する機会を得た。 すごかった。ちょうかっこよかった! 今回は、それがいかにかっこよかったかをレポートしたい。 ほんとにちょうかっこよかった!
-京王電鉄京王線- 京王電鉄は、調布駅周辺で大規模な続立体交差事業「調布駅付近連続立体交差事業」を行っています。工事は2012年度の完成を目指しています。 詳しくは → 調布駅付近連続立体交差事業 それに引き続き、更に大規模な「京王電鉄京王線(笹塚駅~つつじヶ丘駅間)連続立体交差化及び複々線化事業」が計画されているのをご存知でしょうか? 東京都・報道発表資料(2011/01/25) 京王電鉄京王線(笹塚駅~つつじヶ丘駅間)連続立体交差化及び複々線化事業 詳しくは → 平面図・断面図 都市計画変更区間約約8.0km、連続立体交差化予定区間約7.1km、複々線化予定期間約8.3kmになります。 連続立体交差化と複々線化を同時に行う巨大プロジェクトです。この計画により25ヶ所の「開かずの踏切」を撤去出来ます。 すでに「新宿駅~笹塚駅」間は、連続立体交差化と複々線化が完了していますが、新たに「①代
【被災地の下水道復旧はどうあるべきか】 被災地を駆け足で見てきましたが、被害の度合いは自治体や集落によってかなりばらつきがあります。 大船渡や気仙沼などは海に近いところでの被害は大きかったものの、高台に広がる市街地も多くて、主たる部分が残っています。被害規模は甚大とはいえ、そこを起点にして被災区域を復旧することはまだ可能でしょう。 しかし、南三陸町や陸前高田市などは市街地が広範に津波によって押し流されてしまい、上下水道や電気・通信などの基本的なインフラがほとんど残っていない状況です。 こうなると、人が住むのが先かインフラを整備するのが先かという鶏と卵の議論に陥ってしまいます。 また被害があまりに甚大な集落では、住民の多くが亡くなっていますし、地盤が下がってしまったようなところで生き残った人がすぐに住宅を再建できるでしょうか。 学校などの公共施設は立て直すとして、民間の各種商店などはどれくら
2011年05月05日15:51 これが新生『大阪駅』や!世界一の百貨店激戦区・・・トンキンの嫉妬が心地ええわw Tweet 1:名無しさん@涙目です。(青森県):2011/05/05(木) 13:05:22.65 ID:mTXbUr5S0● 三越伊勢丹、大阪の陣参戦 「世界一の激戦区」売上高550億円目標 http://www.sankeibiz.jp/business/news/110505/bsd1105050502000-n1.htm JR大阪三越伊勢丹(大阪市北区)が4日、JR大阪駅北側のノースゲートビルに開業し、 百貨店業界史上、最大といわれる競争が幕を開けた。 大阪・梅田地区は今回の三越伊勢丹の新規開業のほか、阪急百貨店梅田本店や 大丸梅田店の建て替え、増床などで百貨店の売り場面積が 従来のおよそ1.6倍に膨れ上がり、「世界一の激戦区」 (ジェイアール西日本伊勢丹の松井達政社
昨年に仙台に赴任して、初めて仙台市内の高層ビルから目にした仙台の風景に、異様な感じがしたのをよく覚えている。 仙台市内のビルからは遠く太平洋まで望むことができるが、太平洋側を見渡したとき、仙台の「市街地」と、市街地の周囲に太平洋まで広がる「農地」との区分のコントラストが鮮やかに見えたからだと思う。 高いところから見ると、仙台市の沿岸地域が田畑などの農地として利用されているのがよくわかるが、この風景は、湾岸を積極的に開発してきた東京で過ごしてきた私にとっては新鮮に見えた。 これは東京に限らず、大阪、福岡、広島といった海沿いに発展してきた大都市をみてもそうだが、都市の発展は沿岸・水辺の開発とセットになっている、という固定観念があるせいなのだろう。 しかし、仙台はこれらの水辺に広がる都市とは対照的である。海から離れた青葉山に城を築き、そこを起点に街が広がった、といった趣がある。宅地も、海沿いでは
震災から13年が経過しました。犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の復興を応援致します。 2024年3月11日 最新の更新 釜石の都市計画/復興計画史をまとめた論文「Layers of reconstruction: the planning history of disaster-prone Kamaishi」が、2023年6月にPlanning Perspectives(オンライン)に掲載されました。また、2024年1月の同誌39巻1号に収録されました。(2024年3月)。 「1933年三陸津浪からの復興計画」に『震浪災害土木誌』(岩手県土木課編、1936年)を追加しました(2011年12月)。 都市別の「過去の復興計画カルテ」を、「都市別アーカイブ」に掲載しました(2011年10月)。 三陸海岸都市の復興計画のために。 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震による未
仙台市営住宅、高齢化深刻 孤独死防げ 見守り急務 仙台市内の市営住宅で、高齢者の入居率が上昇している。お年寄りばかりの団地では住民のつながりが希薄になり、誰にもみとられずに「孤独死」したケースもある。市営住宅の現状は仙台が間もなく直面する「高齢社会」の縮図ともいえ、市は新年度、お年寄りの孤立を防ぐ見守りの在り方について本格的な検討に入る。 ◎市、新年度から方策検討 「若い人は出て行き、年寄りばかりが残る。このままでは住民の絆を守れない」。宮城野区の大型団地内の市営住宅に30年以上住む町内会長の男性(79)は、地域の将来への不安を隠さない。 この団地が造成されたのは1970年ごろ。当時は世帯主が20、30代の若い家族が多く、公園には子どもたちの歓声が響いた。夏祭りは大勢の家族連れでにぎわい、団地は活気に満ちていた。 40年がたち状況は激変した。子どもたちの多くは家を離れ、残ったのは親世
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