SONG | 16:52 | Alabama Song - Weill & Brecht連休の谷間。いい感じで仕事を少しだけ進める。休憩中にいい感じの歌と出会い視聴。午前中は家事を少しと、昨日のヒアリングのメモ作成。午後から料理や諸々。玉ねぎがたくさんあったのと、冷凍庫に鶏手羽元を発見。それらを調理しながら、メモの整理と書籍や資料の整理。簡単な料理だが日記にアップするかもと携帯で写真を撮ってある、あとで追記するかも。いろいろ憂鬱の種に苛まれウノモノしていたが、やるべきことをやらなければならない、そのために動き出す。信頼できる人々の営為に期待し、私は私ができることをやる。アラバマ・ソングについて私は知らなかったが、ドアーズも歌っているらしい。ブレヒトとヴァイルの「マハゴニー市の興亡」(1930)というオペラの中のナンバー。クルト・ヴァイルはブレヒトと組んで「三文オペラ」(1928)で有名。そ
SONG | 10:44 | それは突然あらわれ、彼女を連れていった。「私が悪いの」が口癖のようなひとだった。どうして悪くない私をおしえてあげきれなかったのか。すてきな笑顔とやさしさが、かけがえのないプレゼントであったことを伝えきれなかったのか。ただそのことが悔やまれてしかたない。おふくろが、認識能力を失っていることは幸いであった。午前1時半から丑三つまでのあいだ、どのように彷徨し、なにを彼女はみたのか。ことばの深いところの意で、魔が差し、疲れ果て、彼女はひとり旅立った。「バカじゃない」とつぶやく。泣きながら「ごめんね、ひーろ」と声にはならない声をあげる。小さくなっていくすがたをみながら、しょうがないなと笑ってみせる。もういいよ。疲れたろ、ゆっくり休みな。生きていくのは楽ではない。たいへんなことだといったほうがいいんだろう。でも、そのたいへんさを超えて、あなたの笑顔とやさしさは価値あるもの
anima | 01:53 | 「わたしは、いま当地にいます。それ以上のことは、わたしにはわからないし、どうすることもできません。じつは、わたしの舟には舵がないんです。それで、死の国のいちばん地底を吹いている風のまにまに流されていくだけなのです」フランツ・カフカ『猟師グラフス』*1「全体主義」や「内ゲバ」という言葉に引っ掛かり、そのような言葉を簡単に振り回すことを自戒すべきだと記した前々回の日記(『1984』)に対して、id:tari-Gさんはコメントで、まくしたてるように、人々がする批判を糾弾と呼び、ありもしない「砲列」をあげつらい「極めて素朴な全体主義」とまで断じる。「どんな語でも、もしそれがありとあらゆるものを意味するようになると、その語の明晰な輪郭は失われ、最後にはただのうつろな音となってしまう」*2まるでハンプティ・ダンプティのように「全体主義」という語を使うことは、全体主義をう
SONG | 12:04 | 一切の根拠や説明を排して、印象のみで叩っ切ってやりたい衝動を感じて、微笑み見上げる青空。あああ、なんてこった。“1984”のブコメ(ブックマークコメント)で、碧猫さんから「批判された側が"内"を言い出すのはなぜなんでしょうね」と問いかけられ、少し考え出していた。水伝騒動でも「内ゲバ」を言い出す自称フェミニストの自称カウンセラーがいた。今回はtari-Gなるダイアリは持たずコメント等で活躍している方が「内ゲバ」なる言葉を口にしている。両者に共通するのは、批判に対する応答として(乃至は批判の応酬を捉えて)「内ゲバ」と断じているところである。*1「内ゲバ」の一般的な意味をくどくど確認しないが、発語者は批判の発するところを「内」だと意識しているから「内ゲバ」などと口にするんだろう。私にはその「内」の意識がよくわからない。「ガイジン」などという言葉を持つ日本人的な感覚と
cinema | 12:52 | 全体とは色々な部分の相互関係の全局面のことであって、そして「相互関係の全局面」をひとつのものや制度や人物や集団や等々で置き換えることはできない。部分には部分の不可侵の存在根拠があり、相互性は何処までも相互性として、関係は何処までも、いくつかのものの間の関係として、単一化できないまま存在する。だからそれらの「全局面」は永久に探求過程そのものとして残り続ける。だから大事なのだ。「部分は部分だ」という、この簡単な常識を忘れるところに全体主義時代の骨がらみの病気が伏在しているであろう。藤田省三『全体主義の時代経験』*1「生涯一ヘタレ」を自認しヘタレを信条とする私であるが、人様の行為に、ときどき「なんだかなぁ」と口にしてしまいたくなるときがある。とあるところで、唐突(としか私には見えなかったが)に「内ゲバ」や「全体主義」という言葉をみてウンザリしてしまった。ほんとう
SONG | 12:22 | 今年の一月から、ネット上でのある出来事が気になり、可能な限り追いかけ、ときおり概観などを当日記に書きとめてきた。ある出来事は「水伝騒動」と呼ばれ、「水からの伝言」(水伝)というニセ科学を巡る議論から様々な問題に派生して、現在でも議論や諍いは続いている。諍いの当事者のひとりが、ブログコメント欄等で「これはケンカ」みたいなことを書いているのをみたことがあるが、明らかに“ケンカ”に持ち込みたい方々がいる。そうすることでどうしたいと思っているのかまで忖度する気はないが、“ケンカ両成敗”で自らのセクハラ行為や不当で執拗な攻撃が水に流されると思っているのかもしれない。そのような愚行に付き合う気はしないので、できうる限り、もともと議論が上手なわけでもないのでバトルと呼ばれるような場に直言することを避けてきた。しかし、水伝に関わり、ときおり批判的発言をしてきた者として、批判者
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