デジタル展覧会>デジタル展覧会「京の鳥瞰図絵師 吉田初三郎」 吉田初三郎は、明治17年(1884)に現在の京都市中京区に生まれました。幼い頃から絵が好きであった初三郎は、友禅の図案工などを経て、洋画家を志して関西美術院長の鹿子木孟郎に入門します。しかし、師から商業美術家への転身を勧められたことや、大正2年に刊行された京阪電車の沿線案内図が、学習院普通科の修学旅行で男山八幡宮を訪れた皇太子(のちの昭和天皇)の賞賛を受けたことから、パノラマ風の観光案内図の製作を手がけるようになります。 初三郎が描いた、左右の端をU字型にまげ大胆なデフォルメを施した独特の絵図は、「初三郎式鳥瞰図」と呼ばれ、鉄道旅行の発達に伴う観光ブームの中で人々の人気を博しました。 (左:初三郎44才の肖像<『技芸倶楽部』昭和4年新年号より>、右:近畿を中心とせる名勝交通鳥瞰図) このデジタル展覧会では、当館に所蔵する初三郎の
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる。(なお、叔父に五代友厚がいる。)学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、東京帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。大正元年(1
後藤 新平(ごとう しんぺい、旧字体:後藤󠄁 新平󠄁、1857年7月24日〈安政4年6月4日〉- 1929年〈昭和4年〉4月13日)は、日本の医師、官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 愛知医学校長兼病院長。台湾総督府民政長官。南満洲鉄道(満鉄)初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。 計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の南方・大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事した[1]。 仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる[2]。江戸
クラシックホテルとは、戦前に創業した日本のホテル、もしくは戦前に建設された日本のホテル建築を指して用いられる言葉。 概要[編集] 明確な定義付けは存在せず、使用者によって指す対象に違いがある。初出は不詳であるが、1997年(平成9年)以前にホテルニューグランドが呼びかける形で、日光金谷ホテル・富士屋ホテル・万平ホテル・東京ステーションホテル・奈良ホテルの5つのホテルとともに「クラシックホテルの仲間たち」というグループを結成し、共同でのPR活動などを開始した[1][1]。また「週刊ダイヤモンド」編集部編の『日本のベストホテル』1998年(平成10年)版に「日本のクラシックホテル」という特集記事が掲載されており、言葉として一般的に使用されるようになったのは1990年代後半以降であると考えられる。 対象としては 第二次大戦前に創業した日本のホテルで、戦前に建設された建物で営業が行われているホテル
京王電鉄株式会社(けいおうでんてつ、英: Keio Corporation[4])は、東京都多摩市に本社を置く、東京都区部(23区)から多摩地域および神奈川県北部[注釈 1]において保有している鉄道路線を運営している会社。日本の大手私鉄の一つである。略称は京王(けいおう)。京王グループの中核企業。日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社。 前身である京王電気軌道は1910年(明治43年)9月に設立され、自社による路線敷設や玉南電気鉄道の合併により、1926年(大正15年)には新宿駅から東八王子駅(現在の京王八王子駅)を結ぶに至った[5]。京王の名称は、東京(新宿は当時東京市に属していた)と八王子を結ぶ鉄道であることに由来する[6]。また、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、1998年(平成10年)6月30日まで京王帝都電鉄(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝
伊東 忠太(いとう ちゅうた、1867年11月21日(慶応3年10月26日) - 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。 また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。 「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。 1943年(昭和18年)には建築界で初め
太田 博太郎(おおた ひろたろう、1912年11月5日 - 2007年1月19日)は、日本の建築史家。東京大学名誉教授。日本学士院会員。九州芸術工科大学学長等をつとめた。第二次世界大戦後に中世の寺院建築や民家の研究をリードした。 1912年、東京生まれ。武蔵高校(旧制)の頃から建築史に関心を深め、奈良・京都の古建築に親しんだ。東京帝国大学工学部建築学科で建築史を専攻。 1943年、東京大学助教授に就任。1960年より教授。1957年に学位論文『中世建築の基礎的研究』を提出して東京大学より工学博士の学位を取得[1]。1973年に、東京大学を退職し名誉教授となった。その後も武蔵野美術大学教授として教鞭をとった。1974年、九州芸術工科大学学長となった。1978年から1990年3月まで武蔵学園長。また学界では文化財建造物保存技術協会理事長などをつとめた。1997年日本学士院会員に選出された。
旧松本家住宅(きゅうまつもとけじゅうたく)/旧松本邸(きゅうまつもとてい)は、福岡県北九州市戸畑区にある歴史的建造物。日本の実業家で明治専門学校(現九州工業大学)の創設者の1人、松本健次郎がかつて暮らしていた住宅であり、洋館・日本館各1棟および蔵2棟から成る。洋館と日本館は1972年(昭和47年)、蔵2棟は1982年(昭和57年)に、それぞれ国の重要文化財に指定された。 1908年(明治41年)洋館および日本館の建設着工 1912年(明治45年)旧松本家住宅完成 以降、戦後進駐軍に接収されるまで、松本家の住宅および迎賓館として利用される。 接収後~1952年(昭和27年)独身将校用の宿舎となる。 1952年(昭和27年)西日本工業倶楽部の設立を受け、松本氏から同倶楽部に譲渡される。 1972年(昭和47年)洋館及び日本館が「旧松本家住宅」として国の重要文化財に指定される。 1981年(昭和
兼松房治郎が創業した貿易会社兼松商店(現兼松の前身)の本店として建設された。 設計は海岸ビルや奥平野浄水場旧急速濾過場上屋、神戸地方裁判所、旧小寺家厩舎(国の重要文化財)などを手がけた河合浩蔵。 竣工当時は、1階全体が兼松商店の事務所に充てられ、2階以上は貸事務所となっていた(神戸新聞社刊「海鳴りやまず」第二巻30ページの記述他)。現在1階のブティックのインテリアなどに、兼松商店事務所時代の面影が残る。 コーニス上に巨大なペディメントが載せられ海岸通で最も壮麗な建築物の一つと称されていたが、戦災で失われた。 内部、吹き抜け天井に色鮮やかなステンドグラスが飾られている。夜間は日没から22時までライトアップされる。 1階 Carhartt WIP・アッシュペーブチック・アリアンスグラフィック 2階 mature・草灯舎・sous les arbres floor・MARGE 3階 eneen-
兵庫県公館(ひょうごけんこうかん)は1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館として活用されている。 概要[編集] 中庭を中心とする回廊式の壮麗なルネサンス建築で、設計は文部技官山口半六。竣工時は日本最大級の庁舎建築であった。これは1890年代から東洋最大の海運市場を有するようになっていた神戸港の往時の繁栄を映したものともいえる。 第二次世界大戦の神戸大空襲で外壁以外の全てを焼失するなどしたため、これまで二度の大改修工事が行われてきた。1948年(昭和23年)には阪神教育事件で暴徒に占拠される。1983年(昭和58年)に県庁庁舎としての役割を終えたのを期に外装および内装が細部に至るまで竣工時の姿へと復元され、1985年(昭和60年)に「兵庫県公館」と名前を変えて再開館した。建設当初から残るものは建物外壁
長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の建築家。日本建築士会初代会長。辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残した。越後国高田(現:新潟県上越市)生まれ。 初期には和洋折衷意匠の奈良県庁舎等を設計し評価を得た。明治30年(1897年)日本銀行技師となり、辰野金吾工事顧問の指導下で、大阪・京都・小樽各支店等の明治期支店建築9件の設計監理に従事した。明治42年(1909年)日本初のコンペとなる台湾総督府庁舎設計競技に当選した後、大正元年日銀を辞し台湾総督府嘱託を一時務めるとともに、大正2年(1913年)自営の設計事務所を開設し、日銀岡山支店や大倉精神文化研究所等の古典主義様式の建築を設計した。また大正6年(1917年)には日本建築士会(後の日本建築家協会)初代会長となり、建築家の職能確立のために建築士法
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