信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運に向かなかったために山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得なかった。加えて五街道などでは公式の伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、宿場町ごとに馬を替えなければならない。さらに、駄賃や問屋場口銭を徴収された(「宿継ぎ」)ことから不便であった。一方、江戸時代初期ごろより沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、寛文年間ころより副業として駄賃馬稼も行うようになった。それが次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになった元禄年間初頭(1690年代)には中馬と呼ばれるようになった。 中馬は宿場町で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれるの仕組で行われていたため、手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く