石徹白騒動(いとしろそうどう)は、江戸時代中期の宝暦年間に美濃郡上藩(現岐阜県郡上市)が管轄していた越前国大野郡石徹白村(現岐阜県郡上市)で発生した大規模な騒動であり、騒動の中、石徹白の約三分の二にあたる500余名が追放され70名以上が餓死した。別名、石徹白社人騒動。 同時期に郡上藩では郡上一揆が発生している。これらの騒動が重なった結果、幕府評定所が郡上一揆と石徹白騒動の裁判を行うこととなり、郡上藩主・金森頼錦は改易となり、騒動に関与した郡上藩役人らにも死罪を含む厳しい判決が言い渡された。 概要[編集] 白山中居神社の鳥居 石徹白騒動は、宝暦2年(1752年)、浄土真宗高山照蓮寺付きの道場であった石徹白村の威徳寺が、照蓮寺の掛所として寺格を持つようにする動きを起こしたことがきっかけとして始まった[1]。 宝暦2年(1752年)、東本願寺は威徳寺を掛所に指定したが、白山中居神社の神主を務めて
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