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批評に関するonanieCEOのブックマーク (13)

  • アニメ『化物語』最終回まで観た感想 - negative-naiveのブログ

    生きていて、信念が報われず裏切られることや、欲望にまけて自ら誰かを裏切ることや、回復がついに叶わないような無数の絶望を繰り返し経験することで、既得の経験に視界を奪われてしまうことがある。自己嫌悪と無力感に苛まれ、すべてを棄ててしまい、再び歩き出すために身を起こすこともできず、ただうなだれるしかないと思い込むことがある。そういう状態が終わることなく続いて、自分は当にもうダメなのだと信じ込んでしまう。 映画監督に限らず、いわゆる人間の身の丈を超えるモノを作ろうとして四苦八苦する人ならば、誰しも襲われるであろうこの経験。あの絶望の時間。大仰な正義や、崇高な達成を想定しないまでも、たとえばただ自分なりの幸福を追求しようとするような、ありきたりな発想でも、そこに挫折があれば、真面目な人ほど、驚くくらい容易に、真っ暗な闇のなかに、あるいは何も見えないようなホワイトアウトのなかに、落ち込んでいく。 自

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    言葉のゴミ溜めが豊かな土壌を生み出す可能性に賭ける試み

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 原体験あり - jun-jun1965の日記

    あ、そうだ。映画『童貞放浪記』はエンドクレジットのあとまで観て下さい。 http://d.hatena.ne.jp/maasha/20090808/p1#c UBCでの博士論文執筆資格審査試験に落ちた時のことは前に書いた。その時鶴田欣也が、私の答案の非論理をいちいちあげつらったことも書いた。 しかしその中に、三島が川端について「文体がない」と書いたことについて、鶴田先生は「これは歴史がないということだ」と言い、私は「ヘーゲル的な」と呟き、鶴田はイエスと言った。 だが、のちのちまで、このやりとりが気になった。三島の「文体がない」という簡単な言を、いかなる学問的手続きによって「歴史」と解釈するのか。また、ヘーゲル的歴史とは何か。論理性を指摘した鶴田のその日の発言の中で、この個所だけが浮いていた。 帰国後、私はヘーゲルを読もうとした。しかし、歯が立たなかった。歯が立たない、ということを、一般的に

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  • 佐々木敦批判  について - 虹釜太郎 パリペキンレコーズ

    ずいぶん前からライターたちが批判されてるのを見てきたけれどそれは音楽まわりだったら三田格だったり佐々木敦だったり、フットボール批評やグルメ批評の場合も同じことが起きてるのかどうか知らないけれど音楽や美術まわりでは一部のライターたちがよく批判されてる しかしそういう批判って  ・・佐々木敦に気で引導を渡したいならカゲでこそこそ言ってないで正面からがつっと批判したらいいだろう  佐々木敦人にはずいぶん会っていないけれど去年サウンドアートの講座@BRAINZをのぞいてみたことがあったけど(BRAINZ自体への批判めいたこともきいたことあるがくだらなすぎて話にならん、こんなのは第10期とか第50期とかどんどんやればいいだけだし、寺小屋めぐりをしている若者などいつの時代もいる)、音楽・音響にはもはや興味なさすぎとも批判されている佐々木敦だがこの講座での佐々木敦は活字よりも何段階も激しく”アーティ

  • 編集されるシーンの終焉と共感で繋がるシーンの幕開け - ときチェケ♪

    08年の日語ラップの振り返りを兼ねて、ライターの古川耕氏にお手伝いいただき、現状の日語ラップシーンを分析してみました。不良ラップの新たな可能性から音楽批評のあるべき論まで、09年最先端の日語ラップ論を相変わらずの特大ボリュームでお送りします。通学通勤電車内や昼休みなどにどうぞ。 古川:微熱君はブログで「Microphone Pagerは思うように支持が得られていない」というようなことを書いていたけど、実は『王道楽土』って結構売れているらしいんですよ。 微熱:へぇ。そうなんですか? 古川:らしいです。僕も興味深いと思ってるんだけど、ネットの中でよく見るような、あのアルバムへの芳しくない評価と、実際のセールスは乖離しているみたいなんだよね。 微熱:どの辺の層に売れているんですかね? 古川:やっぱり日語ラップ・リスナーじゃないかな? 日語ラップ・リスナーって、闇雲に未来志向の人がいるの

    編集されるシーンの終焉と共感で繋がるシーンの幕開け - ときチェケ♪
  • 佐藤亜紀 日記: 2009.3.29

    ごく一握りの誠実で有能な方を除いて——と言うことにしておこう、皆無と言う訳じゃない——現在日で文芸評論家として活動している人間は、概ね二種類に分けられる。チキンと、無能者だ。まあ文芸評論などというのは小説以上にえないから、出版社のお覚えを損なわないよう、業界の爪弾きにならないようチキン化するのは理解できないこともない。しかし無能者と言うのは! 読解し論じるスキルなぞ努力次第で使える水準まで上げることも出来ように、それを怠っているというのは、これはもう犯罪である。 だから文芸評論は使えないと作家に言われるのだ。チキンや無能者の評論を反省の種にする馬鹿はいない。評論と実作の間の良きフィードバックなぞ、勿論望むべくもない。 では仲俣暁生氏はどちらであろうか。ブログに載せていた2009年のベストを見る限り、チキンであることはほぼ間違いない。立派な御用評論家ぶりだ。ではスキルの方はどうか。 20

    佐藤亜紀 日記: 2009.3.29
  • land and ground 「ベトナムから東浩紀に挑戦する」

    『思想地図』が出版されるようである。予告どおり、ここに完成稿を公開する。もとより勝手な「挑戦」であるから、その結果については読む方の判断にゆだねたい。 「トランスクリティークとポストモダン」 なお、これまでいささか冗長な「草稿」を公開してきたが、稿はそれとは独立した単独の論稿である。それでも、稿を読んで細かい議論に興味をもった方には、「草稿」と「『世界共和国へ』を読む」は参考になると思う。サルトルについては、あらためて時間をかけて取り組むつもりである。 また、稿の完成に先立って柄谷行人氏とお会いする機会があった。後半部分は、そのときのやりとりに着想をえて書いたものである。付記するとともに、この場を借りてあらためて柄谷氏に謝意を述べたい。 鈴木 基 ポスト・モダンな言説の「嵐」は、すでに少数の学者・批評家の範囲をこえて吹きまくっている。私自身の書いたものがその原因の一端であるといわれる

    land and ground 「ベトナムから東浩紀に挑戦する」
  • Hang Reviewers High / ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

    速水健朗「ケータイ小説的。」は、僕が読んだここ1年ほどに上梓された批評に類する文章のうちで、最も面白い。ひょっとすると、ここ数年で最も面白いものの1つだと言っていい。 僕が書を高く評価する理由の最たるものは、これが単にケータイ小説というジャンルを批評したものだから、ということではない。それよりもむしろこのが、正しく批評であろうとしているからなのだ。速水健朗は、例えば、ケータイ小説を擁護するために、つまりそれを愛する人々が属するコミュニティの代表者としてなど、書を記述してはいない。同時に、彼はケータイ小説など唾棄すべきだという理由では書を書いていない。彼が書を記述しようとする動機はただ、次のようなものである。すなわち、今ケータイ小説は現代の日の社会にとって無視できない程度の支持を集めている。端的に言えば市場において十分に売れている。にもかかわらず、それは多くの論者によって無視され

  • 隠蔽の手段としての陰謀論 - Close To The Wall

    文藝 2007年 11月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2007/10/06メディア: 雑誌購入: 2人 クリック: 11回この商品を含むブログ (16件) を見る「文藝」笙野頼子特集号を、とりあえず通読。 中身の濃い特集で、非常に面白い。特に笙野インタビュー二つと、佐藤亜紀、小谷真理対談は読み応え充分で近作についての興味深い示唆が多い。意外なメンバーによるQ&Aや笙野ファンクラブ会長による二つのマップなども楽しく、詳細な自筆年譜は近作を読む際に混乱しがちな論争、事件などを整理するのに役に立つ。 内容の紹介については、 こちらのdozeoffさんの記事や http://d.hatena.ne.jp/dozeoff/20071006/p1 Panzaさんのこちらの記事をどうぞ。 笙野頼子ばかりどっと読む ●題は以下。 仲俣暁生がその笙野特集の「文藝」について妙なこと

    隠蔽の手段としての陰謀論 - Close To The Wall
    onanieCEO
    onanieCEO 2007/10/13
    「仲俣暁生はそうやってお上品な振る舞いという抑圧の再生産に加担するつもりなのだろうか。ただの天然なのか」
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  • 人生という憂鬱のためのアーカイヴズ - 東浩紀×笠井潔×海猫沢めろん「新本格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?」を観に行った

    去る5月26日に、池袋(西武池袋店イルムス館9F池袋コミュニティ・カレッジ25番教室)で行われた東浩紀と笠井潔と海沢めろんによる鼎談「新格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?」を観に(聞きに)行ったのだった。そこで印象の残ったことなどを、ごく簡単にだが、まとめておくことにする。まあ、あくまでも自分用のメモのつもりだから、精密なレポートを目指してはおらず、また記憶を頼りにしたものなので、もちろん進行どおりの記録というのではなく、発言者の用いた言葉に忠実ではない個所や可能性があることを、あらかじめ述べておきます。 対談集である『コンテンツの思想』刊行イベントというかたちではあったが、どちらかというと、『ゲーム的リアリズムの誕生』の内容に沿ったものであったと思う。また全体的には、新書『動物化する世界の中で』を読んだときと同じく、東と笠井の議論は、いまいち噛み合っていないようにも感じられ

  • 猫を償うに猫をもってせよ

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