毎年恒例のベストイレブン。 豊崎愛生 (ファムファンファン) 小倉唯 喜多村英梨 戸松遥 (アリス) (高梨奈緒) (繭) 松嵜麗 井口裕香 (水城花音) (近衛スバル) 松本まりか 堀江由衣 植田佳奈 田村ゆかり (風守) (夏芽真砂子) (前田春子) (塔原明日葉) 高垣彩陽 (新レスリング部部長) 今年は豊崎愛生が神がかっていましたね。 個人的には帰ってきた松本まりか、(選んでないけど)能登真美子の再発見の年でした。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090602/p1 http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090607/p1 オタクのコード*1においては、「kanonへのコミットメントを表明するためにことさら他人の尊厳を足蹴」にすることは政治的に正しいわけです。「三次元よりも二次元」と言うことが政治的に正しいのと同様に。よって、「70年前死んだ中国人のことを本気で思うことは出来ない。よっぽどkanonの方が実感がある」と公言することは、要はオレはオタクとして高い等級に位置するから崇め奉ってくださいという表明であって、わざわざ公言する必要がなかったことなどではなくて、むしろ公言せずにはいられなかったということになります。 心性のレベルでいえば、↓と一緒です。 http://b.hatena.ne.jp/entry/htt
別に改憲派の鳩山由紀夫を応援する義理は何もないのですが、党首が鳩山由紀夫になったことで民主党の政権交代は遠のいたという、何を根拠に言ってるのかわからない言説については、選挙特番大好きなわたくしとしては文句を言っておきたいと思います。 事実は、民主党が政権交代を確実なものにするためには、よほどのことが無い限り鳩山を選択するのが最善であったということです。なるほど、確かに岡田のほうが直近の「民意」を獲得することはできたでしょう。しかし、そもそも民主党は「民意」の支持をあまり必要としない政党なのです。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5231.html もちろん投票率の違いも見なければいけませんが、ここ数回の選挙においては一見して分かるとおり基礎票においては民主党は自民党を上回っており、自民党のほうがいわゆる「風」だのの選挙をしているわけです。小選挙区の投票傾向はも
http://d.hatena.ne.jp/thir/20090414/p1 後輩にいぢめられました。 まあ、「通名」は在日特権であるという議論がいかにばかげているかについてはこちらがよくまっているので、 ■在日朝鮮人の通名が特権だという人は特権の意味がわかってるの? http://d.hatena.ne.jp/sube-sube/20090414/p1 わたくしが付け加えることはないのですが、少しだけ捕捉しておきます。 「通名」を使うのが卑怯だと思い、「本名」を詮索するその心性自体がレイシズムです。 たとえば、ナチス・ドイツは、ドイツ風の名前をつけ、ドイツ人に「紛れ込む」ユダヤ人を「卑怯」として、女性にはサラ、男性にはイスラエルというミドルネームをつけることを義務付け、誰がユダヤ人であるか「明確に」わかるようにしました。 「在日」は「堂々と」「在日」であるとはっきり分からなければならず、
お返事がたまっている。ううう。 ■シリーズ JAPANデビュー 第1回 アジアの“一等国” http://www.nhk.or.jp/special/onair/090405.html さて、台湾問題を扱ったこの番組が「反日」であるという理由で問題になっているらしい。確かに、「そのとき歴史が動いた」ならば「良き植民地主義者」として描かれるであろう後藤新平の差別主義者、弾圧者としての側面を強調するなど、非常に興味深い番組であった。 しかし、台湾の人々の植民地時代にたいする批判的な証言を多く紹介し、日本支配の抑圧的な側面を取り上げたからといって、それが「親日的な」台湾、あるいは「親日的な」台湾の人びとについて事実を歪めたとする考えは、あまりにも皮相的に過ぎるといえよう。現代台湾の植民地時代にたいするアンビヴァレント性は、以下の記事に詳しい。 ■「台湾=親日」 http://blog.lived
「ホロコースト産業」については以下のリンクに要約がある。 http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_hb/a6fhb811.html http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20061004NGFinkelstein.htm また、今回この文章を書くにあたって以下の本などを参照した。 「シリーズ・ドイツ現代史」は値段・分量ともに手ごろで、また質の高い議論がなされていると思うので、機会があったらぜひ参照してほしい。 さて、本題の批判にはいるが、この本の問題をここの資料まで検証して指摘していくのはキリがないし、本質的だとは思えない。よって、いくつか確実に問題点を指摘できることをいくつか取り上げた。したがって、取り上げていない論点に関してぼくが承服しているというわけではない。 ■ユダヤ人請求会議は、
「ホロコースト」と無冠詞でいえばふつうナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺のことを指し、シンティ・ロマの人々や障害者の虐殺については一般的にはこれを含めない*1。「ホロコースト/Holocaust」という言葉はそもそも、「完全に焼く」という意味のギリシア語「holokaustos」から来ており、旧約聖書に出てくる5つの犠牲の内のひとつ、つまり獣を丸焼きにして神に捧げるという宗教的な意味を持っている言葉である。ナチスのジェノサイドによって犠牲になったユダヤ人たちは収容所の焼却炉で最終的に焼かれたことから連想された言葉だが、それが一気に広まったのは1978年に放映されたアメリカのドラマ「ホロコースト」である。 このドラマは、多くの実証的な研究を下敷きにしつつも、あるドイツ人とユダヤ人二つの家族がナチズムの時代にどのような運命をたどったかという、より物語性を重視したフィクションである。とはいえ
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090318/p1#c コメント欄で良いこと書いた気がするので転載。 hokusyu 2009/03/21 07:26 >zames_makiさん あまりに酷い陰謀論なのでちゃんと答えておきますが、ドラマ「ホロコースト」の放映がホロコースト認知に大きな影響を果たしたのはそのとおりですが、それはきっかけにすぎず、より重要なのはドイツの「過去の克服」の進展です。 「ホロコースト」放映は1978年ですが、それ以前の、1950年代〜60年代のドイツにおいては、「ホロコースト」は忘れたい過去として、あまり触れてほしくないものでした。しかし、ブラント政権の成立、あるいは戦後世代(68世代)の成長などにより、政治的にも、「過去の克服」が一気に加速しました。 1978年、アメリカで「ホロコースト」が放映されたとき、ドイツでもそれを受け入れる用
■中3女子「卒業式出たい」 茶髪注意され、教諭にはさみ押し当てる http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090314/stm0903141620005-n1.htm 越谷署の調べでは、事件当日、同校は卒業式。午前9時45分ごろ、女子生徒が遅刻して体育館に現れたところ、男性教諭に「スカートの丈が短い。髪の毛が茶髪だ」と指摘され、保健室で注意を受けていた。越谷署の調べに対し、女子生徒は「卒業式に出席させてほしかった」と供述しているという。 学校における髪型規制だの服装規制だのといったものは、それ自体に何か意味があるわけではなく、たんに大人が子どもを服従させたいということ、あるいは権威にたいする服従精神を子どものうちから「調教」しておきたいということでしかない、という点については、今は2009年ですから最早常識といってよいでしょう。ヒトラーは
■思い出話 http://www.mojimoji.org/blog/0159 「バカ」を「シオニスト」に、「疑似科学」を「シオニズム」に置き換える。 mojimojiさんの目指そうとしている方向性については敬意を表したいと思っていますが、その議論は危うすぎると思います。「バカであるがゆえにわが子を傷つけてしまう母親の悲劇」*1を下敷きとして書かれた「十字軍はバカに勝てるか」を、現実に今、圧倒的な暴力によってパレスチナの人々を虐殺し続けている「シオニズム」にたいする論考として読むのは、少なくともそのままでは無理がありすぎると思います。たとえば、ガザ虐殺を「シオニズム(イデオロギー)であるがゆえに、パレスチナ人を虐殺してしまうイスラエル人の悲劇」という読み替えは可能でしょうか。議論としては可能であるにしても、こうした言明そのものは、現実にあるイスラエルとパレスチナにたいする圧倒的な非対称性を
村上春樹がエルサレム賞受賞記念のスピーチで、ガザ攻撃について言及したそうです。 ■村上氏、イスラエル授賞式で講演 「制度が組織的に人を殺す」 http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021601000122.html 【エルサレム16日共同=長谷川健司】作家の村上春樹さん(60)が15日夜、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」の授賞式で記念講演し、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ攻撃に言及した上で「わたしたちを守るはずの制度が組織的に人を殺すことがある」と述べ、一人一人の力で国家や組織の暴走を防ぐよう訴えた。 (・・・) 講演は英語で約15分間行われ、約700人の聴衆が大きな拍手を送った。一方で「政治的な内容で不愉快。イスラエルに賞をもらいに来て批判するのはおかしい」(中年男性)という声も聞かれた。 ■村上春樹さんの講演要旨 http://www.chugo
■私が削除照会したブックマークコメントの内容について http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20090207/1233980753 ネットの論争におきましては、「頭がヒート」したほうが先に削除依頼を出す、というのがわたくしの経験的な判断でありますが、それはまあ良いでしょう。 Automatons Hacking Guideに対するロマンスさんと私のコメントは、「トリアージ」を一般社会の現象を説明するときに用いることでいかなる誤謬が発生するかを明確に示したエントリに対して、それは「ケーキ」エントリの問題性と一致していることを指摘したものであるので、「私とはなんの関わりもない」わけではありません。もちろん、福耳先生と当該エントリの人個人としては「なんの関わりもない」でしょうが、ブログという公開のテクストにおいては「関わり」があるのであって、それこそがまさに福耳の「人格批判」
■はてなからメールが届きました http://d.hatena.ne.jp/Romance/20090207#p1 ロマンスさんも書かれていますが、ほぼ同時期に、おそらく同一人物によって申し立てがあったようです。 わたくしの場合、メール配信のトラブルもあり(今は解決しています)対応が遅れたのですが、たとえばの話ですが、わたくしのブクマコメントによって誰かの睡眠時間の減少を招くようなことがあったとしたならば、もちろんそれはわたくしの本意ではございません。このケースに関しても、なるべく穏当な表現に変更するという点に関しては前向きな気持ちでいます。ただ、削除する気は毛頭ありませんし、これで味をしめて依頼を連発されるようなことがあれば、また対応を考えると思います。 当該のコメントを引用するわけにもいかないので控えますが、「ケーキを売ればいいのに - 福耳コラム」というエントリへの批判的な発言を、「
東浩紀のカール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。 例によって速記者が正しければだが、 http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1 カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた 何を言っているか 政治は友と敵を分けることだ 友と敵を分けることが政治 誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺 精神的な意味でも隠喩でもない 「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。 政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。 (『政治的なものの概念』p14) カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的
「正戦論」の主張者として知られるマイケル・ウォルツァーは、自ら編集する『Dissent』誌のオンライン版で、イスラエルによるガザ攻撃は「不均衡/disproportinate」であるという議論に対して批判を行っている。 ■The Gaza War and Proportionality http://www.dissentmagazine.org/online.php?id=191 ウォルツァーが指摘するのは、「均衡/proportionality」という概念のあいまいさである。彼は、戦争においては「均衡」という概念は単なる「やったらやり返す/tit for tat」式の(被害の)対称性を意味しないという。戦争には常に目標がある。たとえば第二次大戦時のドイツへの空爆は、その後の想定しうるドイツの攻撃による被害を阻止するために行われた。その攻撃は多くの市民に被害を出したが、その数がどれだけな
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし アニメ版の『一休さん』に、次のようなエピソードがあります。将軍様によってある地域の人々が追い出される。安国寺に逃げ込んだ彼らに一休は食べ物を工面するのだけれど、戻ってきてみると女子供しかいない。聞けば、男たちは戦に徴収され、食べ物を得るためそこに向かったという。それを知った一休は、髑髏のついた杖を持ち「ご用心、ご用心」と京都の町を練り歩く…。 調べてみるとこのエピソードは、一休宗純が正月に髑髏のついた杖を持って「ご用心、ご用心」と言いながら京都の街を歩いたことがもとになっているそうです。考えてみれば、新年の浮かれ気分というのもそれはしばしば(自己)欺瞞によってなりたっていることがあります。 ■年越し派遣村へ続々、300人突破 厚労省が講堂を開放 http://www.asahi.com/national/update/0102/TKY20
「歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日本には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような
東理論は思ってるほどみんな前提にしていないからそこに対しては謙虚であれ 常識的に言って「大きな物語の終焉」というポストモダンの前提すらこの社会においては共有されていないんだから、まして「島宇宙化」*1みたいなそれこそ「島宇宙」でしか通用しない社会理論を持ち出して、自分の知らない分野のさまざまな問題を無神経に踏み荒らすのはやめましょう。 確かに「島宇宙化」って言えばそれこそマルクス主義のようになんか社会のいろいろなことが説明できた気になるから濫用したくなる気持ちは分かるし別にそれがダメとは言わないけれど*2、でもその理論は少なくとも日本の一批評家と彼の信者、その周辺の人々しか前提にしていないのだ、ということを踏まえて、「誠意をもって」他の分野の事象に対しては発言しましょう*3。 *1:宮台のタームらしいんですが、http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/n
お山の上にあるんだねー とっても広かったよー 帰りに食べたカレー屋さんおいしかったー 帰ったらなんかあがってた。 http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html いや、困った。 そもそも http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html 文字情報ばかりといえば、はてなブログでは、ぼくが公認してもいない速記の断片的引用ばかりがコピーされ「東浩紀、許さん!」とか言われているらしいのだけど、上記のように、ぼくからすればそれは授業の内容についても僕の立場についても明らかに誤解している。そもそも、そんなに真実が大事だと思うのならば、そのかたがたは実際にぼくの授業に来て質問したらいいのではないでしょうか。 というのがあります。ぼくはネットで東さんの南京発言を批判していたので、この「そのかたがた」にはぼくも含ま
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