高校進学率が低かった昔は、高校は知の探求・学問の場を提供するという役割が主だった。 しかし現在、高校進学率は98%を超える。 アカデミズムから実学へ、高校はその役割を一定変える必要がある。 https://t.co/NyiLBbyEJT
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1.日本アカデミズムのなかのPolitical Economy 日本の大学におけるマルクス経済学はどうなったのかというのが編集部からの問いかけであるが、これに答えるのはなかなか難しい。というのは、現在では1950年代から60年代のように、「マル経」(マルクス経済学)と「近経」(近代経済学)という二つの経済学がはっきりと分かれて対峙していた時代とは大きく状況が変わっているからである。また、「マルクス経済学」ということでどのような特徴をもった経済学を考えるのか、あるいは「マルクス経済学」にこだわることにどれほどの意義があるかについての見解も、「マルクス経済学者」とみなされる経済学者自身をとってもまちまちだからである。 筆者自身の見方を説明する前に、通常マルクス経済学者の中心学会とみなされ、現在でも800人近い会員を擁している「経済理論学会」(註1)が現在自らをどのように規定しているかを見ておこ
最近、筆者のメールボックスにはこんな依頼が舞い込んでくる。 「ツイッターで◯◯についてつぶやかれてましたよね。◯◯についてコメントをいただけませんか?」 ◯◯は、専門の主題であることもあれば、全くそうでないこともある。こんな依頼を、ウェブメディアやテレビ局のみならず、いまでは大手新聞社も行う。あまりよその領分に口出しすべきではないと思っていても、こうした形で研究者のコメントを募る姿勢はいささか拙速ではないかと感じる。 『アステイオン』95号の読後エッセイということで、アカデミック・ジャーナリズムという主題をいただいたが、筆者は社会運動研究者としての視点から、ここに「アクティヴィズム」を付け加えたい。 なぜ、アクティヴィズムなのか。あくまで筆者の視点からではあるが、上述したようなジャーナリズムの「拙速さ」には、オンライン上のアクティヴィズムの存在がある程度関わっているように見えるからだ。 例
「ナチス絵画」とは何か。戦争画をはじめ、そのプロパガンダ的要素や国民にとっての「わかりやすさ」については、ほぼ周知であろう。だが、より広い文脈で考えたとき、そこにはさまざまな要素や背景が絡んでいることがわかる。 本書は、1937年に「頽廃美術展」と同時にミュンヘンで開催された「第1回大ドイツ美術展」、とりわけそこに出品され注目を浴びたアドルフ・ツィーグラーの絵画作品『四大元素』を主な対象に、狭義の美術史やナチス研究とは異なる複合的視点から、ナチス美術のあり方をさぐる考察である。具体的には、ツィーグラーという人物とその背景、ナチスの芸術政策の展開、ミュンヘン造形美術アカデミーの歴史、美術アカデミー制度とモダニズム美術の関係、ナチス美術における絵画技術と複製技術メディアの問題、ドイツ・近代美術史におけるミュンヘンの位置、世紀末ドイツ美術界における「ドイツ芸術論争」などの論点を手がかりに、その全
★日本のアカデミズムを代表する機関「日本学術会議」が推薦した会員候補105人のうち6人が任命されなかった問題は、しんぶん赤旗のスクープだったが、一般紙も一部の社を除き積極的に報じた。人事の決裁は内閣府日本学術会議事務局から内閣府人事課を経由して首相官邸に上げられる。2日の野党合同ヒアリングで内閣府の担当者は「決裁文書で残っているものは推薦のあった105人のものと、99人を任命するという決裁文書だけだ」と判断は官邸だとした。 ★国民の人気を得ようと携帯電話の値下げをぶち上げ、内閣記者にはパンケーキとオフレコ懇談で懐柔。政府にたてつく学者は日本のアカデミズムを代表しないと官邸はお墨付きを与えた。人事差配で権力をつかんだ首相・菅義偉の恐怖政治の始まりだ。学術会議への人事介入はほかの組織を震え上がらせるスケープゴートか、それともこれからなんでも批判するものを選んで排除していこうというのか。自民党が
近年の欧州サッカーではアカデミック化が加速しており、その波はデータ分析の分野にも及んでいる。「データ×アカデミズム」 が生み出す最新の分析手法について、慶應義塾大学大学院理工学研究科で「ボロノイ図を用いたサッカーの守備構造評価」の研究をしていた白戸豪大氏に解説してもらった。 パフォーマンス向上――洋の東西を問わず、すべてのサッカー関係者が目指すのが、今日の相手を超えること、そして昨日の自分を超えることだろう。そのためには正確な現状把握、つまり目の前の現象を正確に捉えることが必要である。しかし、サッカーの「データ化」は簡単ではない。現象の裏に隠された意図や理論を読み取るとなるとなおさらである。サッカーの複雑性は現状把握を難しくする理由の1つだ。広大なピッチ上で計22人の選手が動き回る自由度の高いスポーツである上に、結果を左右するゴールが決まる頻度がとても低いため、勝利に繋がる要素を特定するこ
「当事者」という概念のまわりを考えるうえで大事な点に触れた、雁琳氏の論稿。 note.com いくつか引用してみる(強調は引用者)。 具体的にどのような中傷と差別的発言であったかについては聊(いささ)かも検討されていない 所謂(いわゆる)〈弱者男性論〉などは、起草者の思想によればその「コミュニケーション様式」からして「差別的な言動」に数えられることになる。初めからその回路を塞がれているのである。言論に携わる者は必ず、女性は被差別階級、男性は差別階級という起草者の根底的な社会観を共有せねばならないというのである。 「公正」な議論や論争の場を形成するのは、何が中傷であって何が「公正で冷静」な議論なのかに対する「女性研究者」の判定(のみ)によるのであり、それに対する批判は(女性研究者により「中傷」であると分類されてしまえば)全て「公正」ではない、ということになる。 要するに、 〈風刺文化の否定〉
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