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江田三郎 社会党の検索結果1 - 40 件 / 96件

  • 永住外国人に地方参政権が付与されれば外国人も有資格者に 江田五月法相、人権救済機関の基本方針発表:ハムスター速報

    永住外国人に地方参政権が付与されれば外国人も有資格者に 江田五月法相、人権救済機関の基本方針発表 Tweet カテゴリ政治 1:春デブリφ ★:2011/08/02(火) 12:12:39.09ID:???0 ★委員は国会同意人事 人権救済機関の基本方針発表 権限強化の余地も  江田五月法相は2日の記者会見で、人権侵害の被害者救済を図る新たな人権機関設置 の基本方針を法務省政務三役名で発表した。人権侵害の有無を調査する「人権委員会」 は法務省の外局とし、委員長と委員は国会同意人事にする。 民主党政権は基本方針を軸に年内の人権救済法案作成を目指す。  基本方針は、人権委員会について「国民の人権擁護に関する施策を総合的に推進し、 政府に対して国内の人権状況に関する意見を提出することなどを任務とする」と規定し た。  その上で、政府からの独立性を保つため、公正取引委員会や国家公安委員会などと同

    • 石井紘基 - Wikipedia

      東京市世田谷区代沢で、明治薬科大学及び女子栄養大学の教授を歴任した父・嘉四郎と実践女子学園教員の母・緯子の長男として生まれる[1][4]。世田谷区立池之上小学校、成城学園中学校高等学校卒業。中央大学法学部に入学、安保闘争に参加[1]。国会に突入するデモ隊の先頭にいた石井は、ほぼすべての国会議員が逃げ出す中で、一人デモ隊の目の前まで出て行き騒乱の最前線に出向き警官を抑えようとする日本社会党書記長の江田三郎を見、このことを契機として政治家を目指した[1]。 江田三郎に傾倒し、彼の後を追い、社会党の活動に参加した[5]。中央大学自治会委員長になる等、学生運動のリーダーとなった。早稲田大学大学院法学研究科を経て、1965年に社会党本部勤めからモスクワ大学大学院に留学[1]、留学中に出会ったナターシャと結婚[1]。 大学院を修了すると1971年に帰国し、江田三郎の息子の江田五月の秘書となる。江田五月

      • kojitakenに悪口する(2023年6/4日記載)(副題:紙屋研究所にも悪口する)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ

        続・櫛渕万里の処世術/櫛渕と新選組を批判しつつ懲罰に反対した共産党が正しい/泉健太、野党候補一本化への予備選「方向性一致ならありうる」とまた妄言(呆) - kojitakenの日記 まあ共産の場合、下手に懲罰に賛成すると後で厄介なことになる(「数の暴力」で共産が不当な懲罰をされかねない)という問題もありますが。 なお、「予備選」と言う考えの是非はともかく「泉が勝手に言ってるだけで誰も賛同者がいない(泉が特に呼びかけ対象と想定してるらしい維新は完全無視、他の野党(共産、社民、れいわ、国民民主等)も泉を相手にせず)」のだから、kojitaken等が批判するようにお話になりません。そもそも今まで予備選などやってないのに「はあ?」ですね。泉のアホさには脱力します。衆院選がいつになろうとも、このままでは「立民の衆院選惨敗」は不可避でしょう。この期に及んで泉を下ろせない立民党の無能さには脱力します。

          kojitakenに悪口する(2023年6/4日記載)(副題:紙屋研究所にも悪口する)(追記あり) - bogus-simotukareのブログ
        • れいわ新選組と山本太郎氏論・ポピュリズムとリアリズムの狭間で - 読む国会

          2019年の参院選が終わった。 大きなニュースのない選挙の中、れいわ新選組が2議席を獲得したことが話題を呼んだ。 本稿では、山本太郎氏の6年間の議会活動を振り返るとともに、一体れいわ新選組、あるいは山本太郎氏が何を目指しているのかを考えたい。 山本太郎氏は、いつ消費税をメインテーマとするようになったのか? 山本太郎氏の政治活動は脱原発運動から始まった。これは周知の事実だろう。 しかし、今回の選挙に置いて「脱原発」は、れいわ新選組のメインテーマとして語られなかった。 もっぱら話していたのは消費税のことである。 もちろん、原発即時停止、は政策の中には入っているが、消費税や奨学金の問題などから比べるとだいぶ下にある。 それでは、山本太郎氏はいつ、消費税をメインテーマにするようになったのか。 例えば、「新党ひとりひとり」時代には、このように発言している。 安倍総理は、消費税を引き上げて税負担を求め

            れいわ新選組と山本太郎氏論・ポピュリズムとリアリズムの狭間で - 読む国会
          • 今日も「反党裏切り分子」松竹伸幸に悪口する(2023年2/5日分)(追記:松竹の除名を素直に喜ぶ) - bogus-simotukareのブログ

            「赤旗」藤田論文について・10 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba 藤田さんは、「いったい松竹氏は、長い間党に在籍しながら、綱領を真剣に学んだことがあるのでしょうか」とも言っています。悪罵として一級ですね。 藤田氏の批判を「悪罵」呼ばわりする松竹の方こそ「悪罵」でしょう。 党規約(日米安保の廃止を目指す)を完全に無視してるとしか思えない松竹の言動「日米安保容認」に藤田氏が「それでも党員か!」「綱領や規約を真面目に学んでるのか!」という趣旨の批判をするのは当然であり、悪罵でも何でも無いでしょう。「党外の一支持者にすぎない俺(それも他党よりマシだと思うという、消去法での支持にすぎない、ある意味不純な支持)」も藤田氏同様の怒りを松竹には禁じ得ません。 「もはや松竹は即刻除名するしかない」「何故志位執行部は即座に除名しないのか」と言う思いを禁じ得

              今日も「反党裏切り分子」松竹伸幸に悪口する(2023年2/5日分)(追記:松竹の除名を素直に喜ぶ) - bogus-simotukareのブログ
            • 東京を「広場」と「壁」から考える──大都市における権力と空間

              御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社, 2010年/ちくま文庫, 2013年)──今回の建築討論の特集では「都市と政治──「壁」と「広場」から見えるもの」をテーマにしています。世界が「接続」から「分断」へと向かっているような空気感が、2010年代後半からみるみるうちに可視化されてきたという危機感が、このような特集を組まなければいけないと思った背景にあります。 御厨先生は『権力の館を歩く』や、まとめられた『建築と権力のダイナミズム』において、「建築と政治」の関係を多様な形で問われておられます。その延長線上のひとつとして、今回「都市と政治」の関係について、可能であれば「広場」と「壁」についても触れてお話頂ければ幸いです。 「壁」のない東京における「所払い」と「入府税」御厨:趣旨はわかりました。その「広場」と「壁」という話を聞いてすぐに思ったのは、自由民権運動のことです。自由民権運動っていうのは

                東京を「広場」と「壁」から考える──大都市における権力と空間
              • 岡田一郎『革新自治体』 - 紙屋研究所

                どこかで聞いたような… 美濃部革新都政が誕生した選挙で、美濃部陣営に加わった中野好夫が当時の社会党に対して、それまでの都知事選挙(社会党は田川・加藤・有田・阪本の4候補を歴代担いできた)の経過をふりかえって加えた批判は次のようなものだった(中野「革新都政を支えるものは何か」)。 田川、加藤の選挙には全く関係しなかったが、二度の有田選挙、そして前回の阪本*1 選挙には、いずれも多少ながらこれに関係させられた。さてその敗戦後におけるこれら候補者に対する〔社会――引用者注〕党の処遇は、明らかによくなかった。不信義とさえいえると思う。まるで担ぎ出しておいて、あとはポイといってよい形だった。(岡田『革新自治体』p.85に中野の引用) 美濃部を候補者と選び出すまでに、革新陣営は二転三転している。 まず、国民的人気があったとされる社会党の江田三郎。 江田に都議会が少数与党であることなどを理由に断られ、総

                  岡田一郎『革新自治体』 - 紙屋研究所
                • 「お任せ」の政治から脱却するために――革新自治体という経験から学べること/『革新自治体』著者、岡田一郎氏インタビュー - SYNODOS

                  「お任せ」の政治から脱却するために――革新自治体という経験から学べること 『革新自治体』著者、岡田一郎氏インタビュー 政治 #「新しいリベラル」を構想するために 55年体制下の「革新」と「保守」 ――本日は革新自治体についてお伺いしたいのですが、「革新」といっても意味がわからない読者も多いかと思います。そこで最初に、そもそも革新とは何だったのか、ご説明いただけますでしょうか。 かつて55年体制の時代がありました。自由民主党(自民党)が成立し、日本社会党(社会党)が再統一した1955年から、自民党が初めて下野した1993年までですね。そこでは、現在の資本主義体制に変革を加え、社会主義的な体制を目指す政党が「革新」政党と呼ばれました。対して、現在の体制を維持することを目的とした自民党は、保守政党と呼ばれました。 ――社会党と共産党とが革新と呼ばれた、という理解でよいでしょうか? いえ、社会党や

                    「お任せ」の政治から脱却するために――革新自治体という経験から学べること/『革新自治体』著者、岡田一郎氏インタビュー - SYNODOS
                  • 第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」

                    ※ 筆者は日本人でありながら、どうしても昭和以後のこの国が好きになれない。 一体それはどこから来るのだろうか?。小さい島国で飽くことなく続いた権力闘 争のなれの果ては、あの残忍な秦の始皇帝も顔負けの官僚制度を生みだした。 そして現在、政財官トライアングル(=権力階級)は資本主義と社会主義を極 めて巧妙に組み合わせ、しかも情報統制(非公開、隠匿、操作)をもって国民を 飼い馴らしている。いまや日本は権力階級の「私物国家」に成り果てており、殆 んどの国民が惰眠を貪っているあいだに、徐々に構築された巨大なピラミッド型 の「一億総『潜在能力』搾取・没収システム」が民主主義の萌芽さえ阻んでいる。 まさに「国民の命を蹂躙し翻弄する」という表現がピッタリの「日本という怪 しいシステム」の本質を分析してみた。 ( 『潜在能力』とは社会の枠組みの中で、今その人が持っている所得や資産 で将

                    • 取り壊し寸前・社会文化会館を訪問してきた - Valdegamas侯日録

                      はじめに 以前、毎日新聞日曜版で連載され、単行本化された興味深い日本政治ものの企画として『権力の館を歩く』がある。近代以降、特に戦後の日本の政治権力のありか…官庁、有力政治家の私邸、政党本部などを、現地取材と御厨貴先生の洒脱な文章でつづったものだ。ただの平板な名所旧跡訪問というわけではなく、間取りや外装といった、建物の構造に込められた意図や、政治の「距離感覚」がわかる、という点で、非常におもしろく、興味の尽きない本となっている。 権力の館を歩く 作者: 御厨貴出版社/メーカー: 毎日新聞社発売日: 2010/07/31メディア: 単行本購入: 7人 クリック: 203回この商品を含むブログ (26件) を見る さて、同企画で扱われた建物の一つに、東京は三宅坂の社会文化会館がある。現在は社会民主党の党本部(全国連合)が入る地上7階地下1階のこの施設は、日本社会党が1964年に完成させた、彼ら

                        取り壊し寸前・社会文化会館を訪問してきた - Valdegamas侯日録
                      • 松尾匡「新しい左翼入門」(承前) - jmiyazaの日記(日々平安録2)

                        この本の感想については、この前の記事で、本を購入記録を書いたときにあらかた述べたので、それでいいと思っていたのだが、もう少し書いてみたくなった。それで承前である。 この前の記事で、「読んでみて何だかなあと思った」といったことを書いたのだが、それがどうしてなのかと考えてみた。世代論というのは嫌いなのだけれども、やはり年齢の違いということが大きいのだろうかと思った。 著者は1964年生まれであるから、60年安保の時にはまだ生まれていない。1968年にもまだ4〜5歳である。わたくしは戦後の生まれだから、戦前・戦中の昭和の重苦しさというのは、知識としては理解できても、実感としてはわからない。それで松尾氏の本を読んで、われわれの世代はまだ肌で感じたであろう「マルクス思想」に射していた後光のようなもの、あるいは「革命」という言葉が持っていた独特の輝きのようなものを、氏の世代はまったく体感としては解らな

                        • 特集ワイド:社民党、存続の危機 かつては「山が動いた」が… 小選挙区制と村山政権で衰退 | 毎日新聞

                          与野党が逆転した1989年の参院選。社会党本部で当選者名の上に赤いバラを付ける社会党の土井たか子委員長=伊藤俊文撮影 55年体制下、自民党と共に2大政党の一翼を担った老舗政党が存続の危機にある。社民党は7月に予定される参院選次第では、公職選挙法上の「政党要件」を失う可能性がある。国会議員は現在2人のみ。ロシア軍のウクライナ侵攻で平和の意味が改めて問われる今、護憲政党のたいまつは引き継がれるのか。 「僕は元首相の片山哲氏をはじめ、刺殺された浅沼稲次郎氏、江田三郎氏ら歴代幹部とも付き合いました。皆立派な方々で、人材面でも自民党にひけを取らなかった」。そう語るのは戦後日本政治史の生き字引、政治評論家の森田実さん(89)だ。 1996年発足の社民党の前身、社会党は戦後間もない45年11月に結成された。47年には片山連立内閣が誕生。最盛期の50年代後半には衆参約250人を数える大所帯だった。

                            特集ワイド:社民党、存続の危機 かつては「山が動いた」が… 小選挙区制と村山政権で衰退 | 毎日新聞
                          • 構造改革の真実 - 池田信夫 blog

                            構造改革という言葉は、小泉政権の生み出したキャッチフレーズだと思われているかもしれないが、もともとはイタリア共産党の指導者トリアッティが1940年代に提唱した、暴力革命によらないで議会で社会主義革命を行おうとする方針のことである。日本でも社会党の江田三郎などがこの路線をとったが、左派から「改良主義」と批判され、江田は党から追放された。 ことほど左様に構造改革というのは多義的な言葉であり、特に「リフレ派」を自称する人々は「構造問題は幻想だ」などと批判した。しかし著者のいう構造改革の意味は、それほど曖昧ではない。1990年代末には、数十兆円の財政出動によって日本の財政赤字が世界最悪になったにもかかわらず、経済は回復しなかった。それに対して、マクロ政策に頼らないで産業構造の改革で生産性(潜在成長率)を高めることが大事だ、と著者が総裁候補だった小泉氏に説いたことが始まりである。 だから構造改革

                            • 民主党の「構造改革」 : 池田信夫 blog

                              2010年01月08日09:50 カテゴリ経済 民主党の「構造改革」 財務相に横滑りした菅直人氏と、国家戦略担当相を兼務することになった仙谷由人氏は、実は「構造改革」の旗手だった・・・といっても、彼らのきらう小泉政権のことではない。菅氏の出身母体である社会民主連合は、もとは社会党で構造改革を主張し、党内闘争に敗れて離党した江田三郎氏などの結成した党である。他方『文藝春秋』によると、仙谷氏は東大法学部でフロント(構造改革派)の活動家だったという。 この構造改革というのは、トリアッティなどイタリア共産党が提唱した改良主義的な路線で、いま思えば普通の社民路線なのだが、日本ではマルクス=レーニン主義が左翼の本流だったため、社会党からも共産党からも「右派」として排除された。だから彼らの人生は、二重に屈折している。社会主義の中で主流派に対抗して社民的な改革を志したが、社会主義そのものが90年代に消滅し

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                              • 「革新」が目指したもの――江田三郎と向坂逸郎 / 岡田一郎 / 日本政治史 | SYNODOS -シノドス-

                                「革新」という言葉が使われなくなって久しい。55年体制の時代においては、自由民主党(自民党)を保守政党と呼び、それに対峙する野党勢力の一員で、なおかつ社会主義を目指す政党を革新政党と呼んだ。 革新政党が目指した社会主義の中身は千差万別である。たとえば、民社党は民主社会主義を理念として掲げたが、これは西欧型社会民主主義と同義である。公明党は人間性社会主義を理念に掲げ、日本共産党(共産党)は1960年代に中国共産党と決別して以来、自主独立の社会主義路線を貫いた。 このように革新政党の社会主義といっても、その内容は政党ごとに異なった。そのうえ、同じ政党内にも様々な意見が存在する場合があった。そこで本稿では、革新政党の中でもとくに明確な理念を掲げ、さらにそれが広く人口に膾炙した人物を2人取り上げ、それらの理念が今日の日本にどのような意味を持つのかを考察してみたいと思う。 2人の人物とは江田三郎と向

                                  「革新」が目指したもの――江田三郎と向坂逸郎 / 岡田一郎 / 日本政治史 | SYNODOS -シノドス-
                                • 1/8 社会民主主義者との再会 - きょうも歩く

                                  先日、社会民主主義者の同志たちと食事会をした。 ●1964年から1976年まで続けられた旧社会党のなかで原理的な社会主義者と、社会民主主義者との論争は、1976年の江田三郎の離党で社会民主主義側の完敗となって終わった。 一方、世界的には日本での社会民主主義者正統派とてし名乗ってきた民社党は、非マルクスの社会主義政党という性格から高度成長を経て、右手にナショナリズムを掲げる党人派と、左に民間大手労働組合の政治代表として機能を特化するようになった。その過程で欧州社民が取り組んだ課題から取り残され、家父長制的な倫理をベースに、減税や配偶者や扶養家族への所得控除の拡大など、企業内福祉や家庭内福祉に依存を深める社会構造の強化を求め続けた。 結果として1970年代後半から日本において社会民主主義をきちんと伝承する政治勢力は社民連と社会党の密教的なところしかなくなり、その伝統は、江田三郎に死亡する直前に

                                    1/8 社会民主主義者との再会 - きょうも歩く
                                  • 全共闘の遺産 : アゴラ - ライブドアブログ

                                    民主党の代表選挙は、菅首相が予想外の大差で再選された。2人の政治手法は対照的だが、選挙演説は昔話が多く、妙に「昭和的」な点で共通していた。特に菅氏が、自分の「原点」は市民運動だとのべて、運動経歴を語ったことには違和感を感じた。これは野党の党首の言葉としてはわからなくもないが、国家を統治しているという自覚があまりなく、いまだに「反権力」のポジションが抜けていない。よくも悪くも、団塊の世代=全共闘世代の政権なのだ。 菅氏自身は正確には全共闘ではなく、市川房枝や江田三郎などの市民運動の出身だが、「影の首相」といわれる仙谷官房長官は東大全共闘(フロント系)の出身だという。千葉法相も中央大全共闘(ブント系)で、赤松前農水相は早大の社青同解放派の活動家だったといわれている。 それ自体は驚くようなことではない。この世代では、ある程度の政治的意識のある学生は何らかの形で学生運動にかかわっていたからだ。特に

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                                    • きまぐれな日々 「経済極右」に屈した菅首相が「消費税増税検討」を明言

                                      ついに菅直人首相が消費税増税に言及した。自民党が参院選の公約に盛り込んだ「消費税10%」を参考にして、今年度中に、逆進性の対策を含む消費税率改革案をまとめる方針を表明したのである。朝日新聞の論説室は、昨夜は勝利の美酒に酔ったに違いない。今朝の紙面には、「『消費税タブー』を超えて」と題する、勝ち誇った社説が掲載されている。朝日新聞の「完全勝利」だ。日経、読売、毎日、産経など主要新聞社はみな同じ立場の主張をしているが、もっとも過激に議論を引っ張ったのが朝日新聞である。 菅直人首相に近い経済学者として、神野直彦、金子勝、小野善康氏らが挙げられるが、いずれも現在の経済学の主流には属さない。神野氏は著書で「私の思想は、異端である」と書き、財務官僚は「小野氏の学説は少数派」だと菅首相に言い、金子氏に至っては「経済学界のアルカイダ」を自称する。財政の大きな役割の一つとして、所得の再分配があるが、再分配を

                                      • 左翼はなぜ劣化したのか : 池田信夫 blog

                                        2015年03月09日10:59 カテゴリ法/政治 左翼はなぜ劣化したのか アゴラの宇佐美典也さんの記事が話題になっているが、私も最近の古賀茂明さんの言動をみて「日本の左翼はなぜここかまでだめになったのか」と暗澹たる気分になった 終戦直後の野党は自民党と拮抗する発言力をもっており、短期間だが社会党の片山哲が首相になったこともある。戦争に反対した共産党の知的権威は高く、戦後は多くの知識人が集まった。 しかし彼らのエネルギーは政権を取るよりも、党派闘争に向いた。1950年に「コミンフォルム批判」で主流派(所感派)と国際派に分裂し、主流派が火焔瓶闘争などの極左的な方針を打ち出した。これは当然のことながら政治的には大失敗となり、共産党は壊滅的な打撃を受けた。 東大細胞を中心とする学生は国際派の「分派組織」になり、のちには共産主義者同盟(ブント)として分裂した。これが60年安保の主役になった全学連主

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                                        • 朝日新聞デジタル:社民、さらば三宅坂 党の盛衰と共に半世紀、会館解体へ - 政治

                                          社民党本部が入る社会文化会館。左奥は国会議事堂=24日午後、東京・永田町、長島一浩撮影社会文化会館の1階入り口にある浅沼稲次郎・元社会党委員長の胸像=24日午後、東京・永田町、長島一浩撮影村山富市元首相  【南彰】社民党本部は26日、国会近くの「社会文化会館」から首相官邸裏の民間ビルに引っ越す。老朽化で会館が使用できなくなるためだ。一時は「リベラルの聖地を守ろう」と改築の動きもあったが、資金難で見送られた。新たな党本部の広さは現在の10分の1。老舗の護憲政党は存続の岐路に立つ。  「ここで常任幹事会を開くのも最後。心新たにし、リベラル・護憲勢力の要として頑張っていきたい」。福島瑞穂党首は24日の常任幹事会であいさつし、さみしさをにじませた。  社会文化会館は社会党時代から、隣接する坂の名にちなみ「三宅坂」と呼ばれていた。完成したのは自民党本部より2年早い1964年。故江田三郎元書記長が経済

                                          • 公明党 - Wikipedia

                                            公明党(こうめいとう、英語: Komeito[注釈 3])は、日本の政党[4](宗教政党[34])。宗教団体の創価学会[35]を支持母体として中道政治の実現を目指して結成された[36]。 略称は公明[37]。1字表記の際は公[37]。2024年現在の党キャッチコピーは、「希望の未来は、実現できる。」[38]。 1999年10月5日から2009年9月16日まで、および2012年12月26日から現在まで自由民主党と自公連立政権を構成している政権与党である[39][40][41][42]。 1950年代に始まった創価学会による参議院議員選挙での政治活動を源流とし、1964年に国政政党として正式に結党する(同年に選挙管理委員会に届け出)。1965年の第7回参議院議員通常選挙、1967年の第31回衆議院議員総選挙において国会の議席を確保した。1993年、細川内閣において初の政権入りを果たす。1994

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                                            • きまぐれな日々 石原慎太郎批判は河野洋平の言葉で十分

                                              先週の政治関係のニュースでもっとも注目を集めたのは、石原慎太郎が突如として東京都知事を「投げ出した」一件であり、石原は同時に新党結成に言及した。 正直言ってこの件を取り上げる記事を書くのは全く気分が乗らない。5年前の安倍晋三の「政権投げ出し」よりひどい石原の「都政投げ出し」(なぜなら、安倍の場合はまだ「潰瘍性大腸炎」の影響もあったが、石原の場合はそれさえもないからだ)を批判する視座もろくすっぽマスコミは持たない。そんなマスコミの「第3極」報道は極めて不快である。 石原やマスコミに対する不快感を代弁してくれたのは、昨日(28日)のTBSテレビ『サンデーモーニング』における河野洋平のコメントだった。ネトウヨが河野洋平の発言を文字起こししたブログ記事から引用する(但し表記を一部変更し、元記事にある強調文字は使わなかった)。 僕はね、あの辞職の記者会見を聞きましたけどね、もう非常に不愉快でしたね。

                                              • 鳩山邦夫長男 鳩山太郎 ひっそりと落選

                                                http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1278952619/ 1 建築家(catv?) [] Date:2010/07/13(火) 01:36:59.40 ID:EE+zpZFW Be:484856429-PLT(12089) 世襲候補、34人中19人当選 ブランド力見せつけ 父親や祖父などが国会議員だった世襲候補34人のうち、19人が当選。世襲批判が厳しさを増す中、父親らから受け継いだ「ブランド力」も生かして逆風をはねのけた。 世襲候補が17人で最多の自民党は13人が当選。病気で引退した青木幹雄前参院議員会長の長男青木一彦氏や、青木氏の投票ボタンを押した「身代わり投票」で議員辞職した若林正俊元農相の長男若林健太氏がそれぞれ親の議席を守った。 中曽根康弘元首相の長男中曽根弘文元外相は群馬選挙区で議席を死守。小坂善太郎元外相を父に持つ小坂憲次元

                                                • 7/25 菅追放劇で始まる維新と民主の合流 - きょうも歩く

                                                  戻り露ですが、水源地に降ってほしいものです。 ●21日に参議院議員選挙が終わり、予想どおり民主党が大敗し、お約束のように野党第一党内の責任のなすりあいが始まっています。 民主党は、24日に役員会に次ぐ意思決定機関である常任幹事会を開き、菅直人元首相に対して、民主党の公認を取り消した大河原まさこ候補を応援したということで、「除籍」として党から追放することを提案したようです。 私は、①公認を選挙直前に取り消された大河原氏を応援したことに対する「反党行為」と「除籍」の量刑のバランス(量刑妥当性)、②大河原氏を公認して取り消すまでの民主党執行部の側の問題、などから、今回の提案はあまりにもむちゃくちゃだと思っています。 これに対して、菅元首相は必死に反論しているようですが、私はこういう政治的狂気にとりつかれた組織は、決着つくまで止まらないと思います。佐藤優氏も小泉政権期にスケープゴートになった政治家

                                                    7/25 菅追放劇で始まる維新と民主の合流 - きょうも歩く
                                                  • 左翼はなぜ劣化したのか

                                                    アゴラの宇佐美典也さんの記事が話題になっているが、私も最近の古賀茂明さんの言動をみて「日本の左翼はなぜここかまでだめになったのか」と暗澹たる気分になった 終戦直後の野党は自民党と拮抗する発言力をもっており、短期間だが社会党の片山哲が首相になったこともある。戦争に反対した共産党の知的権威は高く、戦後は多くの知識人が集まった。 しかし彼らのエネルギーは政権を取るよりも、党派闘争に向いた。1950年に「コミンフォルム批判」で主流派(所感派)と国際派に分裂し、主流派が火焔瓶闘争などの極左的な方針を打ち出した。これは当然のことながら政治的には大失敗となり、共産党は壊滅的な打撃を受けた。 東大細胞を中心とする学生は国際派の「分派組織」になり、のちには共産主義者同盟(ブント)として分裂した。これが60年安保の主役になった全学連主流派だが、幹部党員の中の東大グループは構造改革と呼ばれる中道左派に集まり、そ

                                                      左翼はなぜ劣化したのか
                                                    • 現実を変えられない政党や政治家は無価値だ - kojitakenの日記

                                                      なんだかんだ言って私が政治に関心を持つより、ジャーナリズム、というより新聞に興味を持つようになった方が早かった。日本が憲法で戦争を放棄した国だと知ったのは、小学校3年生くらいの頃だったと思うが、父親が『重要紙面に見る朝日新聞の九十年』(朝日新聞社、1969年)という、大事件の起きた日の朝日新聞記事の縮刷版を集めた大判の本を持っていて、それによって朝日新聞が戦争中いかにひどい報道で戦争に協力したかを知った。このことと、1972年の「西山事件」によって(この事件が起きた頃に家でとっていたのは毎日新聞だった)政治に興味を持つようになった。私が左翼の言うところの「商業新聞」の記者の視点に共感を持つのは、上記の経緯と関係があるかもしれない。私は、思想を通じて政治に関心を持つようになったのではなく、新聞を通じて政治に関心を持つようになった人間なのである。 昨日も紹介した『人物戦後政治 私の出会った政治

                                                        現実を変えられない政党や政治家は無価値だ - kojitakenの日記
                                                      • ★自由社・石原萠記-中国共産党-東京電力の赤いトライアングル

                                                        ▲左から藤岡信勝、西尾幹二、石原萠記、加瀬英明(「自由」平成20年2月号から) ▼石原萠記(左)と江田三郎の関係は江田五月に引き継がれている(江田五月ホームページから) 当ブログは、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)が扶桑社から絶縁された後に教科書発行元に選んだ「自由社」という出版社の社長、石原萠記(いしはら・ほうき)が保守ではなく、江田三郎や松前重義ら社会党員に連なり、ソ連や中国と通じてきた社会主義者である―と、善良な「つくる会」一般会員の皆さんに警鐘を鳴らしてきました。 ★「つくる会」と「自由社・石原萠記」と「ソ連」と「中国」と「社会党右派」と「創価学会」 など その中で触れた自由社社長・石原萠記と東京電力のただならぬ関係が、福島第1原発事故を機にクローズアップされています。週刊文春は2号続けて石原萠記のことを取り上げています。 ▼週刊文春3月31日号 東京電力の「大罪」

                                                          ★自由社・石原萠記-中国共産党-東京電力の赤いトライアングル
                                                        • 構造改革 - Wikipedia

                                                          元々は1940年代に、イタリア共産党のパルミロ・トリアッティが『イタリアと世界で進行中の転換の中における社会主義へのイタリアの道のための闘争』(社会主義へのイタリアの道)の中で主張したものである。 本来的にトリアッティらの主張は、「世界の共産主義運動はソ連型の社会主義を唯一の手本とし、ソ連の指示に従ってその国の革命を押し進める」というコミンテルン式のソ連の権威に絶対忠誠的な態度にあえて距離を置き、自国の(“イタリアの道のための”とはまさにこれである)改革を主張する路線、学説であった。 日本では1950年代に当時日本共産党にいた佐藤昇らによって紹介され、安東仁兵衛・貴島正道、また政治学者の松下圭一などによって普及した。上田耕一郎・不破哲三兄弟も当初は構造改革に賛意を示す発言をしていたが、後に本質的誤りがあったとして、自己批判している[要出典]。日本共産党の中にいたこの流れは、親ソ連の志賀派の

                                                          • 『社会』 - SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

                                                            岩波の『思考のフロンティア』シリーズの最新刊。 社会 (思考のフロンティア) 作者: 市野川容孝出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2006/10/26メディア: 単行本購入: 4人 クリック: 448回この商品を含むブログ (99件) を見る 目次 - はじめに Ⅰ 社会的なものの現在 第1章 日本の戦後政治と社会的なもの 第2章 冷戦以後と社会的なもの 第3章 社会学と社会的なもの 第4章 社会民主主義 Ⅱ 社会的なものの系譜とその批判 第1章 ルソー 第2章 社会学の誕生 第3章 批判と展望 Ⅲ 基本文献案内 あとがき 内容 はじめに - 「社会」・「社会的」という言葉は、社会学(者)にとって最も見知られた、最も近くにある言葉であるにもかかわらず、いや、まさにそうであるがゆえに、社会学(者)からは最も遠い言葉であると言えるかもしれない。 「社会的」という言葉が、実のところ何を意味し

                                                              『社会』 - SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX
                                                            • 世襲政治家 - Wikipedia

                                                              この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2008年8月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2021年1月) 近代の代表民主政治においては、血統ではなく人民の選挙によって選ばれた政治家が国会議員(選良)として政治を担うこととなる。一方で、親が政治家であれば、選挙に当選して政治家となるためのさまざまなメリットを享受することとなり、そのようなメリットを活かした政治家が少なからず登場することとなる。このような政治家が、比喩的に「世襲」であると呼ばれる。場合によっては、数代にわたって有力な政治家を輩出する家系すら登場する。また、政治家一族が政治家一族、更には大資本家や貴族と婚姻を通じて閨閥として関係が強化される例もみられる。 世襲政治家については、既存政治家の事実上の家業となる一方

                                                              • カン・チョクト - アンサイクロペディア

                                                                社会民主連合時代[編集] 菅直人は嘗て、売国団体である社会民主連合という政党を作った。そこで江田三郎に可愛がられ、政治家となる。菅は日本社会党という、日本最大の左翼政党を乗っ取ろうとしたが、頭脳が弱いためできなかった。そこで、新党さきがけという政党に入り、マザコンの鳩とお友達になる。 与党の議員だぞ![編集] 新党さきがけでは、細川党や小沢党に村山党と連立を組み、与党議員となって有頂天になった。だが、全然目立たなかった。「こんなんじゃだめだ!もっと目立たないと、御主人様や朝日新聞の寵愛が受けられないよ!」と考えた菅直人は厚生労働大臣となり、薬害エイズについて謝罪した。其れを見た村山富市も中国、韓国、北朝鮮に謝罪した。そしてさらに目立つため、カイワレを貪り食うというパフォーマンスも見せた。然し、もっと面白くないといかんのだよ、ここまでの記事はアンサイクロペディアにふさわしくない! 民主党結党

                                                                  カン・チョクト - アンサイクロペディア
                                                                • 石田博英 - Wikipedia

                                                                  石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。 政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 政界引退後の晩年および死後に、ソビエト連邦のスパイであったことを指摘する情報が複数発見されたが、立件されなかった(後述)。 来歴[編集] 秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ[1]。祖父は花岡鉱山を開発した鉱山師。父は大阪造幣局の冶金技師だったが、第二次世界大戦後に栄養失調のため死去した。早稲田大学政治経済学部に入学

                                                                    石田博英 - Wikipedia
                                                                  • 日本社会党 - Wikipedia

                                                                    日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう[注釈 2]、英語: The Social Democratic Party of Japan[1]、Japan Socialist Party[28]、略称: JSP)は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる[1][9][10][11]革新政党である[8]。 略称は社会党[16]、社会。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。 1945年11月2日、新生日本を社会主義によって切り開いていくべく[9]、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された[3][4][9][10][11][13]。1960年1月に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。 全日本自治団体労働

                                                                      日本社会党 - Wikipedia
                                                                    • 革新自治体 - Wikipedia

                                                                      革新自治体(かくしんじちたい)とは、日本共産党・社会民主党(旧日本社会党)など、革新勢力の支援で首長となった者が務める地方自治体を指す[1]。 歴史[編集] 戦後10年間の革新首長の林立[編集] 第二次世界大戦終結前の大日本帝国においても無産政党の政界進出は行われていたが、議会に占める割合は1割に満たず、また首長は内務省による任命か議会による選挙によって就任していたため、農民運動が盛んな農村の一部を除き、革新自治体は誕生する余地はなかった[2]。 戦後、日本社会党や日本共産党が躍進し、特にGHQの後押しで日本労働組合総評議会(総評)を組織した社会党は国政においてキャスティング・ボートを握るほどの勢力となった。特に1950年代前半はドッジ・ラインによるデフレにより地方自治体は軒並み財政難に襲われており、社会党系の県知事が次々と誕生した。特に、後に保守政党の支援団体となる医師会や農協も応援し、

                                                                      • asahi.com:江田三郎没後30年 社会民主主義を再評価の動き - 文化一般 - 文化・芸能

                                                                        江田三郎没後30年 社会民主主義を再評価の動き 2007年11月14日10時27分 「構造改革」といえば小泉元首相。しかし半世紀前、新自由主義的な「構造改革」とは正反対の意味でこの言葉を唱えた政治家がいた。没後30年を迎えた社会党書記長・江田三郎(1907〜77)。西欧で有力だった社会民主主義の政治を目指し、頓挫した。なぜ日本で社会民主主義は育たなかったのか。格差拡大が言われる中、平等への思想として、改めて見つめ直す動きがある。 江田三郎をめぐるシンポジウムの後に、在りし日の江田が映し出された=10月、東京都内で 10月、東京都内で江田の没後30年・生誕100年の記念シンポジウムがあった。山口二郎・北海道大教授(政治学)は江田の「構造改革」について、「人間の顔をした資本主義経済をつくろうということ」と解説、「今、日本にとってもまだまだ意味が失われていない」と述べた。 「構造改革」とは社会主

                                                                        • 社会党が衰退したわけ(五十嵐仁「政党政治と労働組合運動」(御茶の水書房)から) - bogus-simotukareのブログ

                                                                          以前「私が今までに読んだ本の紹介(五十嵐仁編)」(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20090801/1249250921)で、五十嵐氏の考える社会党衰退の理由を紹介したのだが本エントリはその再紹介。 そのとき書いた五十嵐本紹介が以下の文章。 「社会党(現:社民党)が国会の議席を大幅に減らし、ついに共産に敗北したのは(政策の是非や、ソ連崩壊による左翼のイメージダウン*1等もあるかもしれないが)共産と違って自分の手足がないこと、及び、労組(総評→連合)が最大の支持基盤だったことである」*2、*3 「社会党は政策が左だから衰退した、構造改革派や江田派の党内における政治的敗北が大きかったと考えると、社会党より左の共産が一定の勢力を今も保有していること、及び社会党より右の民社党*4、社民連(社会党党内抗争に敗れた江田三郎が離党して結党)が消滅したこと(民

                                                                            社会党が衰退したわけ(五十嵐仁「政党政治と労働組合運動」(御茶の水書房)から) - bogus-simotukareのブログ
                                                                          • 江田三郎 - Wikipedia

                                                                            江田 三郎(えだ さぶろう、1907年〈明治40年〉7月29日 - 1977年〈昭和52年〉5月22日)は、日本の政治家。 参議院議員(2期)、衆議院議員(4期)、日本社会党書記長、日本社会党委員長代理、日本社会党副委員長、社会市民連合代表(初代)を歴任した。長男は元参議院議長の江田五月。 1931年(昭和6年)、官立東京商科大学(現在の一橋大学)で講座派マルクス経済学者の大塚金之助に師事したのち、帰郷し農民運動に入り、全国大衆党に入党[1]。1932年(昭和7年)に日農中央委員に就任した後、1934年(昭和9年)に全農岡山県連書記長に就任する。1937年(昭和12年)には岡山県議会議員となった[1]。 1938年(昭和13年)に人民戦線事件で検挙される。1940年(昭和15年)の出獄後、中国で就職[1]。戦後帰国し、1946年(昭和21年)に日本社会党に入党した[1]。1947年(昭和2

                                                                              江田三郎 - Wikipedia
                                                                            • 転向 - Wikipedia

                                                                              この項目では、思想や政治的な主張や立場の変更を中心に、今までの考えや立場等を変えることについて説明しています。 台風が進路を西よりから北または東よりに変えることについては「転向 (気象)」をご覧ください。 スポーツにおけるポジションの変更については「コンバート (スポーツ)」をご覧ください。 転向(てんこう)とは、今までの方向、方針、進路、職業、好みなどから変えること。また思想や政治的な主張や立場の変更、特に弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄すること。ここでは主に後者について述べる。 また、同義語は「変節」(へんせつ。守ってきた節義を変えること。転向することへの批判的な意味で用いられる)。「変節」した者への批判・非難、あるいは侮蔑的な表現として「変節漢」(へんせつかん)がある。 「転向」の語源と意味の変遷[編集] 類似する概念として、近世に行われたキリシタンに対する仏教・神道への改宗

                                                                              • 9/1 菅直人氏の「民主主義革命」考 - きょうも歩く

                                                                                菅直人氏をはじめ、民主党幹部が「民主主義革命」という言葉を使っている。日本の社会党の論争史をかじった私からすると非常に興味深い。 日本の社会党の思想は、自由選挙を前提として資本主義のもとで公的なものを重んじる社会民主主義の右派、マルクス主義を信奉し、その上で日本は高度に進展した資本主義であるため次は社会主義革命だ、とする左派(労農派)に大別される(70年代後半からもう少し意味合いが違ってくるが)。 その外側に共産党がいて、マルクス・レーニン主義を信奉しているが日本はまだ封建主義の影響が強いので、まずはブルジョワによる民主主義革命が必要だ、と考える(講座派。二段階革命論)。 社会党右派は、西欧諸国をモデルにしているので、資本主義体制下の社会党のあるべき姿を語るに困らなかったが、一方で大きな思想を語れないという弱点があり、そのため現実政治に呑み込まれ、妥協屋みたいになってしまった面も否めない。

                                                                                  9/1 菅直人氏の「民主主義革命」考 - きょうも歩く
                                                                                • 現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー - on the ground

                                                                                  これで、あとは「ネーション/国家」と総論だけ。ようやく国家論に取り組める。のだが、できれば先に可能な改訂を済ませておきたい。なので、クライマックスはもう少し先になる予定。 五十五年体制の形成と安定 1946年4月、日本で初めて行われた男女普通選挙は、戦後初の総選挙でもあった。新憲法案は、新たに選出された衆議院を含む帝国議会で修正・可決され、国民主権をうたう日本国憲法が46年11月に公布、47年5月に施行された。施行に先立つ4月には、新憲法体制を樹立するため、首長選挙、参議院議員選挙、衆議院議員選挙、都道府県議会議員選挙が相次いで行われた。こうして、統治権力の正統性の源泉が国民に求められ、政治的意思決定能力者の全てに国民代表=統治機関の具体的な構成への直接の参与が広い範囲で認められるという、明確な国民主権体制がその一歩を記した。 戦後、計7年にわたって首相を務めた吉田茂は、その後の日本政治を

                                                                                    現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー - on the ground